自我は欲望の運び屋

昨日のブログ「欲望が生まれ変わる」を書いていて、思ったことがあるのですが、今日は続きとしてそれについて書いてみようと思います。

以前ウイルスについての本を読んだことがあって、その中で地球上で最強の生物はウイルスではないかという仮説を立てていたのです。

なぜなら、彼らは自分の肉体を持たないので、肉体を持っている生物の中で繁殖して、種を存続するという戦法を取っているからです。

つまり、ウイルスからしたら他のあらゆる生物は単なる乗り物として使っているということになるのですね。

それと同じようにして、欲望というのは私たち人間を乗り物として存続し続けているという見方ができるのです。

そういう意味では、私たちは単なる欲望の運び屋でしかないのです。それが私たちの役目なのだと考えると、かなりバカバカしい気持ちになりますね。

ニワトリが先か卵が先か?という議論がありますが、それと同様にして人間が先か欲望が先か?という見方もできるのです。

もしも人間が自我を持っていなかったなら、欲望は存続することはできなくなります。要するに、自我と欲望の絶妙の組み合わせで、その永久ループは成り立っているのです。

だから先ほどの議論は、自我が先か欲望が先か?に言い換える必要がありますね。そしてごくごく稀に、そのループを断ち切る人が出てくるのです。

それが覚醒した人ですね。覚醒するということは、自我が消滅してしまうので、それと共に欲望も跡形もなく消え去ってしまうわけです。

自我は欲望を餌に生き、欲望は自我を乗り物として使う。こんな素敵な取り合わせを一体誰が考案したのでしょうね?