赦しの実践 その2

昨日のつづきです。

赦しの実践はとにかくできるところからでも、失敗してもいいから毎日続けることが大切だというお話しをしました。

それは、沢山の失敗をすることが真の癒しへの道だからです。ここで、私がしでかしてきた間違った赦しの方法のいくつかをご紹介したいと思います。

間違った赦しとは、エゴの赦しと呼んでいるのですが、「奇跡のコース」が教えている真の赦しとは完全に違うものだと理解する必要があります。

一番間違いやすい赦しの方法は、相手を見下すことで赦そうとするやり方です。見下している自覚は自分にはありませんが、油断するとこれをよくやってしまいます。

例えば職場において、自分より経験の少ないある同僚が犯したミスは、赦せていたはずなのに、仮に自分を出し抜いて出世してしまったその同僚が、またミスを犯した時には激しく責めたくなる、などはその典型かもしれません。

また、上記の赦しの方法に似ているのですが、理屈をつけることで相手を赦すという間違った赦しもあります。

例えば、部下のミスにいつも腹を立ててばかりいたはずなのに、その部下が自分の知らないところで毎日寝不足になるくらいに残業していることを知ったら、そのミスを赦す気持ちになるかもしれませんね。

このように何らかの理屈をつけることで相手を赦そうとすることは、誰でも日常的にやっていることだと思います。

そのほか、謝ってくれたから赦すというのもありますね。その場合、相手の謝り方によっても、赦す気持ちになれる場合となれない場合があります。

また、自分の大切な人のやったことだから、赦せるよという場合もあるかもしれません。こういった赦しは条件付赦しと呼んでもいいでしょうね。

あるいは、取引による赦しという間違った赦しもあります。赦すことによって、自分を寛大な心の広い人格者だと見なすことが出来るとか、人からいい人だと高い評価をもらえるなどの期待をする場合です。

ここまで見てきたように、それこそ様々な間違った赦しのテクニックというのがあり、私も知らず知らずのうちにそういったエゴの赦しをやってきました。

そういうことを繰り返して、その結果納得がいくような赦しが出来てないなと気づくところから、真の赦しへの道が開けるのかなと思っています。

ちなみに、真の赦しの場合には、罪というものはないし、罪の温床である過去もないという感覚の上に成立する赦しを指します。

みなさんも、これを機会に、赦すということについて少し時間をとって心の中で見つめてみることをお勧めします。赦しは全てを救うことができますよ。真の赦しは愛を与えることと同値ですから。