思考は常に古く、無思考は新しい

我々の思考は、いつもどんな時でも過去を材料として活動しています。過去のデータを基にして、それらを組み合わせてあたかも新しいものを生み出しているように見せかけるのです。

けれども、それは表面的なことであって、原理上必ずや古いものの焼き直しでしかありません。だから、思考が止まらない人は、『生』に乗り遅れてしまうのです。

『生』は常に全く新鮮だからです。思考だけが、過去を繰り返しているのですから。無思考でいられると、防衛が緩むことによってハートが開くことになるのです。

ハートとは私たちの受容する力のことです。ハートは、いつもまったく新規にやってくる事象をあるがままに受容してくれるため、周りは常に新鮮なもので埋め尽くされていることに気づくのです。

恋人と付き合いだした時には、相手のことがとても新鮮な存在として感じることができたのに、何年か経ってくると、その新鮮さが失われていくという経験を誰もがしているはずですね。

それはあるがままの相手をハートで見る代わりに、思考を使って判断してしまうからなのです。本当は、自分も相手も『生』の一部として常に新しくなっているのです。

昨日と同じ自分、昨日と同じ相手はいないのに、思考は過去を使って相手のことを判断してしまうために、古臭く感じるようになってしまうのです。

外側も内側も沈黙し、耳を澄ました状態で今この瞬間に在れば、思考が止まり、ハートが開いて新鮮な自分、新鮮な相手、新鮮な『生』を満喫できるはずなのです。

『生』の流れに同調する

人間の肉体とマインドというのは、非常に互いに強く結びついて影響しあっているのです。だから、マインドを静かにしただけで、身体も休まるのです。

逆に身体を静かにさせれば、マインドも静止状態になるということです。この性質を利用することで、容易にマインドを静かにさせることができます。

つまり、身体をじっとして全く動かないようにすることで、それにつられてマインドがその活動を控えてくれるのです。だから、一般的な瞑想をするときには基本的に身体を静止させるようにするのです。

そうやってマインドが静止するにつれて、自分の周りに満ち満ちている『生』と同調していくような感覚になれるのです。最初はそのことを理解できないでいました。

時間は刻々と進んで行くのに、自分が静止していてはそこにずれが生ずるはずだと思っていたからです。けれども、それは間違いでした。

時間の進み方というのは、実は物語の流れのことであり、それとは同調しなくて当然だったのです。物語の中の登場人物として忙しく活動すれば、勿論その物語と同調します。

けれども、一方では『生』そのものが時間とは無関係に瞬間瞬間発生しては消滅するということを繰り返しているのです。マインドが静止状態になればなるほど、その『生』のリズムと同調することができるということなのです。

マインドが少しでも動けば、その動いた分だけ『生』との同調がはずれてしまうのです。それが私たちの通常の生き方だと思って間違いありません。

瞑想によって、一度でも『生』と同調できた感覚を体験することができれば、二度とそれを忘れることはできなくなるはずです。

日頃から無理せずにくつろいでいること、そしてまるで身体が死んだかのように静止させて、マインドを見張り続けるのです。呼吸や瞬きも本当は止められるといいのですが…。

うまく行けば、その同調した感覚がやってくるはずです。それが全体性と一つになった感覚とも言えるのでしょうね。

人工知能の進化と人類

今から30年も前のことですが、私が会社員だったころ、その会社では最先端?とも言われる人工知能(AI)について、盛んに研究していました。

と言っても、その頃のAIは名ばかりで、その正体は単なるプログラミング言語だったのです。これでは未来はないなと思ったのを憶えています。

あれから、知らぬうちにAIの分野は飛躍的な進歩を遂げていたのですね。とうとう、囲碁の世界王者を負かすコンピューターが出現してしまったようで…。

長い間、コンピューターがどれほど進化しても、決して人間のような心を持つことも意識を持つこともできるはずがないと思っていました。

ところが、この5~10年くらいのうちに、私自身が持っていた人間についての認識が変化してしまったために、AIについての見方にも変化が起きたのです。

というのも、そもそも人間が特別な存在であるという思い込みがなくなってしまったのです。今や、脳科学の世界では常識ですが、人間には自由意志というものがありません。

ある人が人間のことを、「肉体精神機構」と呼んでいるのを知って、思わずなるほどと感じたものです。その意味は、私たち人間には魂などというものはないということ。

自律的な存在のように見えてはいるのですが、本当は肉体と精神が合体したメカニズムであるということです。つまり、思考と感情と気分を持ったロボットだということ。

先日も書きましたが、人間には意識があるという表現は誤解を生むのです。本当は、肉体精神機構である人間の奥には意識が在るということなのです。

純粋な意識は、どんなものの奥にも在るので、人間が特別ということではないのです。ただ、人間だけが、意識の顕在化が他の動物と比べて顕著だということ。

AIの進化によって、知性という観点から人間を特別視することができなくなるだけでなく、意識がAIを媒介として顕在化する日が来ないと誰が断言できるでしょうか?

外側から内側へ、内側から超越へ

私たちの意識というのは、外側の世界へと向くように条件づけられています。あなたを取り巻いているものに、注意が向くように仕込まれるのです。

私たちの知覚そのものが、外側の世界からの情報を取得するようにできているということもその要因なのです。放っておけば、外に何かを見い出すのです。それはとても容易なことなのです。

その一方で、知覚を使うことなく、自分の内側へと注意を向けることには慣れていないのです。見ることも聴くことも、触れることもできないのですから。

だからこそ多くの人たちは、外側の世界に魅せられ続けるのです。言ってみれば、自分以外のターゲット、つまり客体、モノへの関心です。

そこから人生が始まるのですが、どうやら外側の世界へ期待しているだけでは決して満たされないと気づいた人だけが、第二のステップである内側へと向くようになるのです。

ある人は苦しみ抜いた末に、またある人は絶望して、そして向きを180度変えるということに気づくようになるのです。

ひとたび内側へと向けることができると、そこには思ってもみなかった広がりがあるということに気づくようになるのです。

それまでは、自分なんてこの宇宙からすれば、何と小さなものかと思っていたのですが、実は内側の世界は宇宙と同じかそれ以上に広大だと気づくのです。それが客体から主体への変化です。

客体の世界を生きる人にとっては、行為が極めて重要となるのです。物的世界でやっていくためには、人は行動的でなければならないからです。

一方で、主体の世界を生きる人にとっては、行為は重要ではなく、重要なのは感性なのです。だから、そういう人は非活動的で、眠たげで、ちょっと怠惰な感じがするのです。

客体の世界の代表が科学だとすれば、主体の世界の代表は芸術と言えるかもしれませんね。そして更なるステップアップがあるとするなら、その両方を超越すること。

外側であり、内側でもあって、そのどちらでもない、それが意識なのです。意識に意識を向けるようになることができれば、外と内を超越して、客体でも主体でもない、両方を目撃する純粋な意識としての気づきになるのですね。

幻滅の勧め!

もしもあなたが、大好きな彼氏や彼女、あるいはパートナーから、「あなたに幻滅した!」と言われたら、とても悲しい気持ちになるはずですね。

誰だって好きな人から否定的な評価をもらいたくはないからです。けれども、それは実はとても良いことなのです。なぜだか分かりますか?

幻滅とは、読んで字のごとく、幻想が滅することだからです。つまり、まず初めに幻想があって、それが滅する(消えて行く)ということだからです。

本当のことに気づくことだから、決して悪いことではありません。そもそも、幻想を抱いていたのは相手の勝手なマインドであり、その幻想によって自分を見られ続けるのは心外です。

あるがままの自分を見てもらって、それで判断してもらわなければ、相手の幻想に合わせた自分でいようとなどしたら、それこそ病気になってしまいます。

幻想自体にいい悪いはないのですが、それを信じることから不幸がやってくるのです。あらゆる幻想は、自分の都合に合わせたものであるため、言葉を変えれば現実逃避とも言えるのです。

相手に幻滅して、自分にも幻滅して、人生に幻滅して、この世界に幻滅することです!そうして、初めてあるがままのすべてをそのままに見て、受け容れることができるのです。

徹底的に幻滅することです!

意識の正体

変なことを言うようですが、意識はただ意識であってそれ以外ではないのです。意識には属性もないし、種別などもありません。

意識には年齢もありません。10歳の意識とか、20歳の意識というものはないのです。意識には性別もないし、国籍も当然ありません。

意識には大きさもなく、形も色も何もありません。意識には位置というものもなく、だから移動するということもありません。

結局、私たちにとって最も得体の知れないもの、それが意識なのですね。そのくせ、意識こそが私たちの本質そのものだというのですから、不可思議この上ありません。

意識は、あらゆるものを入れる容器のようなものということもできますが、意識自体を何かの中へ入れるということは不可能です。

意識を見ることもできないし、それを感じることすらできません。なぜなら、意識は客体となることができないからです。

意識は決してターゲットにはなり得ないのです。この二元性の世界を生み出し、それを受容し、また世界はその中へと消えて行く。

結局、意識という実存だけが在るのです。それは気づきであり、全体性であり、神と呼んでもいいのかもしれません。

個人としての自分は地に落ちる

長い間、自分という個人は一つのまとまりとして存在しており、それなりに一貫性を持っているし、泥酔でもしない限りは、ある程度信頼に足る奴だと思ってきました。

それが予想だにしなかったのですが、次第に自分という個人としてのまとまりが曖昧になってきた感覚がするのです。

そればかりか、生きているという感覚さえも曖昧になって、いわゆる現実感というものが激減してしまったように感じているのです。

これがちょっとした病的な症状に過ぎないのか、それともエゴの弱体化によるものなのか、自分ではなかなか判断がつかないのです。

いずれにしても、それで困るということは全くないので問題はないのですが、この先自分がどのような感覚の方へ行くことになるのか不明なのです。

セッションでクライアントさんとお話しすれば、特別何も変わった点はないと思われるはずだし、それは確かにそうなのですが、独りのときには何だか怪しい感じがしています。

何から何までそのままでいいじゃない!というのが増えてきたし、どんな問題も所詮は大したことはないということがはっきりしたのでしょうね。

悲しかったら悲しめばいいし、悔しかったら怒ればいいし、じっとしたければずっとじっとしてるだけ。そうすると、個人としての完成度は地に落ちる。

その一方で、少しずつ本当に少しずつですが、個人が解体していって、自分も他人も誰もいない物語のない実存に気づくようになるのかもしれないですね。

二種類の夢

夢には二種類のものがあるのです。その一つは、目を閉じてみる夢であり、もう一つは目を開けてみる夢。前者の方は誰でも知っている眠っている時に見る夢のことです。

後者の方は、朝起きてから寝るまでの活動中にみている夢のこと。つまり、私たちがこれが現実だと思って固く信じているもの、これも夢なのです。

この二種類の夢には勿論共通することがあります。一つは、どちらも思考という素材によって出来ているということ。思考が両方の夢を紡いでいるのです。

そしてもう一つの共通点は、どちらも夢であるということの認識を持てないまま、その夢の中にいるということ。

寝ている間に見る夢の中で、それを夢だと認識することは通常ありませんね。ごく稀に、気づくこともあるのですが、その時はすぐに目覚めてしまうはずです。

なぜなら、夢とは無意識の中にしか存在できないからです。気づくということは、意識的であるということなので、夢は消えてしまうのです。

それと同じことが、現実という夢についても言えるのです。私たちは目覚めて活動している間は意識があると思っていますが、その意識の約10倍は無意識なのです。

そんな状態でいるからこそ、夢を見続けてしまっていて、しかもそのことに気づくことができないでいるのです。

あるがままの現実が夢だと言っているのではなく、私たちが認識しているこの現実、物語に満ちているこの人生こそが、夢だと言っているのです。

私たちの無意識がすべて意識になって初めて、本当にあるがままの現実を目撃することになるのでしょうね。それが夢から醒める、覚醒ということなのです。

失って気づくこと

私たちは何かを失うと、悲しくなったり途方に暮れたりします。それが大切なものであればあるほど、ショックが大きくて受け入れがたいのです。

幼い子供が親を失った場合などは、その小さな心ではその事実を受け容れることができないために、どこかで親が生きていると思うようになったりするのです。

その一方で、これを失ったらとてつもなく辛いだろうと思っていたものが、実際にはそうでもなかったということも多々あるのです。

私の場合ですが、10年の間、セッションルーム兼住居として使っていたとても快適なマンションから出なければならなくなったときがあったのです。

その直前までどうなることだろうかと思っていたのですが、いざ失ってみると意外にさっぱりしたというか、単に元に戻ったというだけでした。

人は不便になった程度ではどうということもないのですね。逆に、いいこともあって、今度はただ快適なだけでなく一点豪華主義というか、目的を絞って自分のスペースを手にするという視点ができたのです。

失うという体験には、とてつもなく大きな気づきのチャンスがあると思っています。勿論ダメージを受けたり、心が傷つくこともあるのですが、それでも、いやそうであればあるほど、それだけ大きな気づきがいつかやってきます。

もしもあなたが、今ちょうど何かを失ったことで気持ちが落ちているのでしたら、そこから逃げようとせずにその気持ちを充分に支持してあげることです。

それがうまく行けば、それを逆手にとって大きな大きな意義ある気づきのチャンスが到来したことにも気づくようになれるはずなのです。

自己想起をライフワークにする

私にとって、最も難しくてかつ最も人生そのものになっていること、それが自己想起です。グルジェフが言っていた自己想起とは、自分に気づいている状態のことです。

実践したことがなければ、それがそんなに難しいことだとは気づけないはずです。朝目覚めてから夜眠りに就くまで、できるだけ自分自身に気づいているようにすることは、とても難しいことなのです。

なぜなら、私たちは自分の周囲に起きている様々な出来事に気を取られて生活しているからです。気を取られてもいいのですが、それが100%になってしまうのです。

もしもそれが90%だったり80%であるなら、残りの少しだけでも自己想起に使えるはずなのですが、そうはなかなかいかないのが実情です。

周りで何が起きているかということに意識が向くこともあるし、自分が直接体験していることに意識が向くこともあるのですが、自己想起とはその体験者に意識を向けることなのです。

自己想起の素晴らしいところは、自己改善というエゴの欲望から離れて行くことになるからなのです。自分を変えようとするその自分に気づいていること。

また、自己想起が特に難しいと感じるのは、何等かの苦痛がやってきたときです。クセですぐに自己想起し続けようとするのですが、苦しさが大きければそれだけ自己想起は明らかに邪魔されます。

そういった余裕がなくなった時にこそ、自己想起の練習をするチャンスなのだと分かってはいるのですが、自己想起されてる側の自分だけになってしまうのが分かるのです。

人生何をしていいか分からないという人、何をしたいのかも分からずに苦しんでいるなら、この自己想起をお勧めします。なぜなら、いついかなるときにでも、お金も時間も労力も必要とせずに練習できるからです。

そして、その練習によって、意識的に生きることができるようになれば、最期のときに意識的なままでいられるようになり、その場合には次の人生が最後となるはずです。