思考には二種類ある

実は思考には二種類あるというのをご存じですか?本質的に言えば、思考はあくまでも思考であるので二種類あるなどということはないのですが…。

でも自分が感じる感覚としては、二種類あるということです。一つ目は、ごく普通に「考えている」という思考ですね。明日は嫌な上司と話し合わねばならないとか、昨日は彼氏にひどいこと言われたとか。

過去を思い出したり、未来のことを想定したり、こうして通常考えているものが、一つ目の思考です。そして、その思考を見ようと思えば見ることができるのが、二つ目の思考です。

ああ、今自分はこんなことを考えているなあ、と自分の思考を観察しているのなら、その観察している側も思考なのです。ではなぜ、一つ目の思考と分けるのか?

それは、二つ目の思考を簡単には見ることができないからです。それが、実はエゴなのですね。それは、「私は居る」という思考を基盤として成り立っている思考群なのです。

だから、もしもあなたがこのエゴという思考群を見ようとしても、そう簡単には見つけることができないのです。その結果、「私という存在は確かにいる」ということは事実であって、思考ではないという感覚になってしまうのです。

「私」というのが思考だということに気づくことができると、「私」と距離を置くことも不可能なことではなくなってきます。そうなると、本当のあなたは、あなたが日頃感じているこの「「私」ではないことにいずれ気づくことができるでしょう。

瞑想中に深く深く進んで行っても、あくまでもその瞑想をしている自分がいる限り、それはエゴの領域内でのことなのです。私の感覚では、より深くというのはより下に向かっていくというイメージがあります。

けれども、「私」という思考から抜けるためには、それを置き去りにするときには、下方向というよりも方向が曖昧な「あさって」の方向へといくというか、あるいは同じ場所にいながらにして突然居場所に対する感覚が変わるという感じがします。

そもそも瞑想というよりも、眼を開いている方がその感覚になれるような気がします。とここまで書きましたが、実は昨日のブログを書いたせい?なのか、あれを再現することがどうにもできなくなってしまいました。

きっと、起きたことを思考によって文章に変換してしまったせいで、その体験をエゴが横取りしてしまったために、もう「私」を超えることができなくなったのだと思うのです。

ですので、しっかりと自分のものになるまでは、このあたりの微妙な体験をブログに載せるのは今後控えようと思っています。また地道に「放っておく」ことを実践していくのみですね。