気づきは言葉で表現できない

自分なりには充分に分かっていたつもりでいたのに、何かの拍子にそれまでとはまったく異なる理解がやってくるということがありますね。

それは理解の深さが違うというのか、それこそ気づきがやってきたということなのかもしれません。実は自分にとって、とても嬉しい一つの理解がやってきました。

言葉で表現すると、なんだそんなことか、それなら前々から知っていることだと言われそうなのですが、それでもそのことで私の場合には確実に楽になれたのです。

幼い無邪気な子供が、突然恥ずかしがるようになるということがよくあるのですが、それはそれまではエゴがまだなかったり、発達不足であったために自覚が曖昧だったのです。

ところが、エゴの発達のある地点から自分という存在がここにいるという明確な意識が芽生えることによって、自分は周りから見られる存在なのだと感じ出すのです。

ずっと周りを見るだけの存在だったからこその無邪気さだったものが、見られる自分というものを意識するようになってしまったからこそ、無邪気ではいられずに恥ずかしがるようになったわけです。

そこからが人間の苦しみが始まるということです。見られる自分というのは、常に他人からの評価の対象として存在するようになるため、心理的な自己防衛が開始されるのです。

恥ずかしさとは恐怖から来るものです。愛の表現であった無邪気さは、あっという間に恐怖という防衛へと変遷していってしまうということです。

今日の私の理解とは、エゴとは見られる存在であり、真の自己とはただ見るだけの実在だということです。この違いは決定的なのです。

あなたの肉体やあなたのエゴは見られたり、評価されたりする対象としてビクビク生きているのですが、その一方であなたの本質は、誰かから見られるという対象には決してなり得ないということです!

いいですか、本当のあなたは決して対象にはなれず、常に主体であるということです。

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