絶対的な真理に身をゆだねる

この世界には絶対的な正しさなどというものはないと、誰もが理解していると思うのですが、私は子供のころからそのことを楯にとって、物知り顔の大人たちに反抗的に生きてきました。

こうあるべきという正しさを説く誰のことも信用することはありませんでした。そして、今思えば安易にという以外ないないのですが、絶対的な真実などというものもないのだと決めつけていたのです。

「絶対」という言葉の響きがもう嫌いになっていて、この世の中はすべて「相対」的にできていて、それこそが「絶対」的な事実だと矛盾しながらも信じてきました。

何か、「絶対」的なものには恐れを伴う感覚が自分の中にはあるな、ということも何となくわかっていました。だからだと思うのですが、真理とは絶対的なものだと分かったとき、自分の理性が腑に落ちないと言っているのに気づいていたのです。

理性のどこかで文句を言っていたのです。絶対的なものって、何か傲慢でえらそうで、他を寄せ付けないようなところがあると感じていたからでしょうね。

けれども、それは単に恐れに突き動かされて自分を守ろうとすることからやってくるものだと気づいたのです。絶対的な真理に徹底的に自分を委ねるとき、本当の安堵がそこにはあるのです。

初めから何も疑わないよりは、すべてを疑ってかかるほうがいいのです。なぜなら、自我とは本来そういうものだからです。疑う心を正直に表面化することは大切なことなのです。

そうして、すべてを疑ったその後で、真の信頼がやってきてくれるのです。自分を守ろうとせずに、無防備に絶対的な真理を信頼することができるなら、無限の平安に包まれることになります。

もちろん、その無限の平安こそが、あなたの本質そのものなのです。