人生は物語

クライアントさんというのは、何か困った問題を抱えていて、どうしたらいいのか分からないからこそ、セッションに来られるわけです。

だから、これはどのように対処したらいいのか?あれはどうすれば一番いい解決につながるのか?ということを相談したいのですね。

ところが、セラピストというのはそうした具体的な相談にはのれないのです。それは何故なのかをどう説明したらいいのでしょうか?

一つは体験から分かっていることなのですが、私がこうしたらいいのではないですか、と助言めいたことをしても、それが的を射た言葉だったと思えることがないのです。

そしてもっと根本的なことは、そうした具体的な助言というのは、結局クライアントさんが演じている物語の中に私も一緒に入ってしまうことになるということ。

端的に言って、セラピストの仕事の一つは、クライアントさんが自らの人生を一つの物語として見ることができるように促すことなのです。

ということは、例えばクライアントさんがこの人と結婚すべきか、あるいは別れた方がいいのか、という分岐点にいるときに、その選択を私がすれば完全に物語に加担することになってしまうのです。

選択が正しいとか間違っていると言ったことはないということ。どちらにしても、その物語の中で気づきを得ることができれば万々歳なわけですから。

テレビドラマや映画を観れば、そこにはあらゆる物語が展開されていて、その一つひとつが正しいとか間違っているなどとは思わないのと同じこと。

どのような物語であれ、それを見ることで気づきを得られたなら成功だし、何も気付けなければそれはそれで次の物語を待てばいいのですね。

信仰を落とすこと

また久しぶりに気持ちのいい osho の言葉を見つけました。是非、ご一緒に味わってみてください。

すべての信仰を落としなさい
他人に教わった嘘を、すべて落としなさい
そして無垢に、空のまま
何も知ることなしに進みなさい
そうすればまもなく、すばらしい宝を
すばらしい智恵を、自分自身の中に見つけることができる
それはすでにそこにある
あなたが空の手で来るのを待っている

癒しというのは、これまでに培ってきてしまったあらゆる知識や正しさ、そうしたものをできるだけ捨てていくことを言うのです。

上の osho の言葉と通じるところがあると思います。宗教にハマってしまった人に限ったことではなく、誰もが幼い頃に信仰を持たされてしまうのです。

家族や身近な人々、あるいは学校や社会からそれはやってくるのです。知らず知らずのうちに、膨大な量の嘘を身につけてしまうのです。

その全てを落としなさいと osho は言っているのです。生まれた時のような無垢な状態に戻ることでしか、本当の宝物には出会えないと。

自分の内側深くに入っていくためには、そうした余計なものを捨てて素手の状態でしか入っていけないのだと。

何も信じないこと、信じてしまったらそこで止まってしまうしかないのです。あなたが手の中に握りしめているものを見て、ガラクタしかなかったと気づいて笑えばいいのです。

その大笑いの中から力が抜けて、自分本来の感覚や感性、あるいは才能などが開花することにもなるのだと思いますね。

問題行動で人生を失う

人は自分のことを分かって欲しいといつも思っているのですが、それが叶わないとそれを何とかしようとして行動に出るのです。

それを私は20年以上前から問題行動と呼ぶようにしています。つまり、「問題視してもらうための行動」を略して問題行動と言っているのです。

それは幼い頃から始まります。大人になってから急にやってくるということはありません。ただ本人の年齢によって、問題行動の内容が変化することはあります。

幼い頃は、おねしょやアトピー、小児喘息などがよく知られているものですし、不登校や引きこもりといった形を取ることもあるわけです。

大人になってからは、それこそ社会に出ていくことを拒んで社会生活を棒に振ってしまうこともあるかもしれません。

あるいは、結婚に失敗するなどはごく普通にある問題行動の一つだと考えられます。また、身体の不調や病気として現れてくることもあるのです。

ご本人が自分の本音(自分を分かって欲しい、自分の気持ちを汲み取って欲しい、自分を見て欲しい等々)に気づかなければ、いつまでも問題行動は続いてしまうのです。

問題行動の裏側にあるのは、訴える気持ちなので、当然のことながら満ち足りた幸せな人生を自ら拒否することになるのです。

そうやって日々を問題行動に当てることで、人生の貴重な時間をあっという間に失ってしまうことにもなるのです。

こうしたカラクリにしっかり気づいて、心の奥深くに隠された本音に十分に光を当ててあげることがとても大切ですね。

理想の親とは?

三連休の最終日、柄にもなく山梨県の方に用事で出かけたのですが、その帰り道、中央高速道のとあるパーキングに寄った時のこと。

男子トイレで用を足していたら、私の右隣に若いパパ、そしてその右隣に小学校低学年くらいの可愛らしい男の子が並んだのです。

すると、その男の子がパパに向かって「1時間て何秒?」と聞いてきたのです。パパが何と答えるのか待っていたのですが、パパはしばし沈黙。

余計なお世話なのですが、私が「3600秒だよ」と教えてあげて、「そんな質問を考えつくなんて君はすごいね!」と声をかけたのです。

男の子は少し嬉しそうにはにかんでいたので、「将来有望だね!」と言って別れたのですが、パパが「後で計算しようね」と言っていたのが聞こえたので、パパはそういうの苦手なのかなと。

幼い子供がふとする質問というのは、その子の能力が伸びる方向をしっかりと示していることもあるかもなあと改めて思ったのです。

親が毎日の生活に余裕がないと、そんなちょっとしたヒントも気づかずに見過ごしてしまうのかもしれないのです。

それは勿体無いことですね。やはり、子供にとっての理想の親というのは、気持ちに余裕のある毎日を生きている人なのでしょうね。

マインドの中の夏好き野郎

日本列島の何処かでは大変な大雨による災害が起きているというのに、私が住んでいる東京では猛暑、あるいは酷暑となっていて、日本は広いなと今更ながら感じています。

茹だるような暑さとはよく言ったもので、大人の私は街を歩くのにもウンザリといった感じなのです。

ところが、インナーチャイルドの方は、この暑さを喜んでいるようで、夏休みだあと言ってはしゃいでいるのが分かるのです。

自分のちっぽけなマインドの中に、様々な人格が棲みついていて、それぞれに全く異なる感性、感覚で生きているのです。

普段は、自分のマインドはまるで一枚岩のようなものと錯覚して生活しているのを思い出して、どれほど自分に無頓着なのか思い知らされますね。

昨夜、事務所から駐車場までの少しの道のりを歩いているときに、ある家の前に月下美人が置いてあって、夜8時から9時くらいの間に開花しますと。

そのお宅ではきっと何年も前から育ててきたものなのでしょう。大きな蕾が7〜8つもあり、あれが同時に開花したらすごい迫力だろうなと。

どうしても見たいと思って、8時半ごろに再度見に行ったのですが残念なことにまだもう少し時間がかかるようだったので、後ろ髪を引かれる思いで帰宅しました。

暑くて参るよと言っている裏の方で、やっぱり日本の夏は最高だぜぃ!と喜んでいる誰かがいるようです。元気だな、お前。

モノが見えるとは?

私たちの五感の中でも最も重要なものは視覚だと言われています。それだけ視覚に頼って日々生きているということです。

視覚、つまりモノを見るというのを科学的に説明すると、モノに当たった光が反射して網膜の中に入ってきます。

それを電気信号に変換して視神経から脳へと伝えられ、そこで像を作ることによってモノが見えるということになるわけです。

確かに、目を閉じればモノは見えなくなるので、科学的な説明は正しいのでしょう。それはそれとして、臨死体験をした人や幽体離脱などによって肉体から離れる経験をした人がいます。

彼らはみな肉眼がないのにも関わらず、周りをごく普通に見ることができています。これは、一体どういうことなのか?

「見る」ということをもっと本質的なレベルで考察してみると、それは意識するということだったり、気づいているということなのかなと。

そしてなぜ肉眼がないのに見えるのかというと、本当は全てが自分自身だからなのではないかと。

全てが一人称なので、そこに意識を向ければそれが確認できるということなのです。それに気づいていることになるのです。

ただ自我は自分を個人だと信じ込んでいるので、臨死体験や幽体離脱状態では外側の世界が「見える」という感覚のままなのではないかと。

外側の世界など本当はないので、意識した瞬間に時空を超えて過去、未来のどこへでも飛んで行けるような感覚になるのでしょうね。

死んで肉体から解放されたら、真っ先にそのことを試してみたいなと考えています。

自我の矛盾を理解する

私たちの自我にとって難しいと感じることの一つは、自分を解放するということです。自分を解放すると聞くと、ちょっといい感じがするのになぜそれが難題となっているのか?

それは、自我が自分を解放してしまえば、自然と溶けて消えていくことになると知っているからです。

だからこそその反対である、自分を締め付け、抑圧することを得意としているのです。不自由にさせることで、自我は苦しいけれど生きていくことに関しては安泰なのです。

ここに自我の大きなそして決定的な矛盾があるわけです。自我は矛盾だらけなのです。満ち足りたいと願っているのに、満ち足りたなら消えてしまうのです。

苦しみたくない、安心したいと思っているのに、それが実現してしまったなら生きる力を奪われてしまうのです。

天国に住みたいと思っていても、いざ天国に行くことになったとしたら、生きるエネルギーを失って、勝手に失速してしまうはずなのです。

もう分かっていただけたと思いますが、自我とは自己矛盾の中でそれを誤魔化しながら生きているのです。なかなか辛いものがありますね。

このことをしっかり理解することができると、自我と上手に付き合っていくことができるのです。自我は悪者ではありません。

ただし、自我が自分自身なのだと100%信じてしまうと、もう救いがありません。自我の本性を知って、それをうまく逆手に取ることです。

誰の自我であろうと、それを深く理解することができると、それはそれで可愛いものだと思えるようになるでしょうね。

内側と外側の話 その2

昨日のブログで、内側の世界と外側の世界を明確に分けること、ごっちゃにしてしまうと内も外も台無しになってしまうということを書きました。

その一つの例として書くのですが、例えば幼い頃にずっと寂しくて寂しくて仕方がない生活を送ってきたとします。

内側の寂しさを内側のこととして、それをしっかり味わうことができたら理想なのですが、幼い頃にそんなことができるはずもありません。

大抵の場合、寂しさを外側の何かで誤魔化してしまおうとするのです。ゲームをし続けるとか、スポーツに熱中する、勉学に励む等々。

いずれにしても、外側の何かに没頭することで内側の寂しさを感じないようにして生きるわけです。

そのまま大人になると、今度は仕事を頼みの綱として毎日打ち込むことで、寂しさを忘れてしまうことができるのです。

そんな人生をずっと続けてきて、あるときに何かの都合で仕事をやめてしまったなら、それまでずっと奥に隠してきた内側の寂しさが出てきてしまうのです。

きっとそれは本人にとってはとても辛いことになるはずです。もう外側の何かでは誤魔化すことができなくなってしまったので、直面するしか道はないのです。

それができなければ、自ら人生を終えることを考えるかもしれません。いついかなる時からでも本当は遅いということはないのです。

内側と外側を混同してきたことに気づいて、内側のことは内側の世界だけで完結するように自分との向き合い方を工夫することが必要なのです。

独りでは無理であれば、プロの力を借りるということを積極的に考えることもありだと思いますね。

二つの世界を明確に

私たちは誰もが二つの世界で生きています。一つは内側の世界であり、もう一つは外側の世界ですね。

ところが、そのように内と外を明確に分けて生活している人は少ないのかもしれません。その証拠に、内側が満たされていないのを外側の世界で代用しようとしてしまうのですから。

内側と外側は確かに連動しているのですが、だからと言って外側のものを内側に入れ込むことはできないのです。

ここをはっきりさせておくことがとても大切なのです。そうでないと、いつまで経っても実りのない、不可能な努力を続けた末に死んでいくことになってしまいます。

内側というのは自我のいる場所です。自我は外側の世界のいかなるところにもいたためしはありません。誰の自我であろうとそれは同じです。

確かに身体は外側の世界に直接接触してはいますが、やはり身体は自我ではないのです。内側に閉じ込められている自我の特徴は、欠乏感です。

いつも足りないという感覚で生活してるのです。そして、誰もが間違ってしまうのですが、内側で足りないという感覚をなんとかしようとして、外側で何とかしようとするのです。

ところが外側の世界で何を手に入れようと、内側にいる自我の欠乏感が消えることは決してないのです。だからこの努力は虚しいのです。

外側の物質的世界を豊かなものにすることと、内側を満たすことをそれぞれ別々にバランスよく進めていくことです。

外側の豊かさは、元々があなたの思考によって作られた宇宙なのですから、外側の豊かさはあなたがそのことに気づけば保証されているものです。

一方の内側の豊かさについては、自我という偽りの自己に気づいて真の自己に目覚めるなら、そこには豊かさ以外の何ものもないと気づくことになるはずです。

内外ともに元々豊かであるということに、早く気づきたいものですね。

この世界の法則に救われる

この世界の一つの大きな特徴あるいは法則と言えるのですが、それは「あらゆる物事は通り過ぎて行く」というものです。

何かが居座って延々と続いて行くものなどないという事です。ごく当たり前の事ではあるのですが、生きる上での私の大きな支えになっているのです。

私の根本にあるのは、嬉しいことであれ辛いことであれ、何であろうとドンドン通り過ぎていってくれ、というのがあるのです。

よく、幸福感に包まれている時に、この時間が永遠に続けばいいのにというセリフを聞くことがあるのですが、私には当てはまりません。

何故かはわかりませんが、とにかく通り過ぎることが健全な感じがするのですね。物事は滞ると腐敗してしまうと思っているようです。

もちろん辛い事があれば、どんな理屈も関係なく早く通り過ぎてくれと祈るのです。そしてその祈りが届かなかった試しはありません。

だからそれでいつも救われるのです。絶対に救われると決まっているのです。それがこの世界の掟だからですね。

渦中にいる時には、通り過ぎるのに時間がかかると感じてしまったとしても、通り過ぎてしまえば、あっという間だったという事になるのも知っています。

だからこの世界が一過性であること、その儚さには感謝しかありません。