相手の防衛を見抜く目

もういつ来てもおかしくないとまで言われるようになった首都圏直下型大地震のことを考えて、42歳という高齢となった我が家はちょうど建て替え時なのかなと考えていたのです。

そんな折、生まれて始めて住宅展示場なるところへ出向いて、いくつかのハウスメーカーでいろいろ話を聞くことができました。

どの営業マンもそれなりに優秀で、テキパキと概算見積もりを作ってくれたりして、好感が持てる感じでした。

ところが、話を聞いていて何となく腑に落ちないと思ってしまうと、率直に質問をしてしまい、そこから議論が展開されたりするのです。

どうしても大人しく聴く側に徹することができない性分らしいです。営業の方からすると、少し面倒な客が来たなと感じているかもしれません。

私が敏感に反応してしまう時というのは、どうも何かを隠しているように感じる時なのです。つい疑ってしまう。

猜疑心が強いだけなのかもしれませんが、その辺りの鼻が効いてしまうのです。そして、営業マンは大抵窮地に追い込まれてしまいます。

私はそんなつもりは毛頭ないのですが…。ウソというのは、いずれはバレるものです。正直者は損をするという諺がありますが、長い目で見たら正直者の方が得をするとも言えるかなと。

相手の自我がどういう防衛をしようとしているのか、そこに意識を向けてしまうというのは、一種の職業病なのかもしれませんね。

分別のある子は危ない

どんな人でも生まれてくる時には、無邪気で無防備な状態でやってくるのです。その姿は私たち人間にとって、一番輝いている時なのです。

生まれてしばらくすると、その子によって差はあるのですが、次第に知恵をつけていって、少しずつゆっくりと防衛を始めることになるのです。

それが自然な形で少しずつ進行していく分には問題ないのですが、早いうちから無邪気さを失って大人のような分別を使うようになった子は、非常に危険なのです。

なぜなら、無邪気で無防備で過ごす大切な時間を、早々に切り上げてしまうわけですから、その皺寄せが大人になってから必ずやってくるのです。

例えば大人になると、どれほど訴えたところで現実が変わることはないと知って、半ば諦めてしまうとか、相手の立場を尊重し過ぎることで、自分の本音を抑圧してしまったりするのです。

こんな生き方を幼いうちから覚えてしまえば、誰が見ても明らかなようにその子は抑圧的な人生を生きることになってしまうはずです。

幼い頃の寂しさや悲しさといった自然な感情は、親の気持ちや大変さなどを知って早いうちから隠されてしまうのです。

子供によっては、そんなことは知ったこっちゃないとばかりに、自然な気持ちを訴えることができる場合もあるのです。

どちらが子供にとって自然な生き方かは明々白々ですね。もしも子供の頃に分別を持った大人のように生きてきたという自覚があるなら、しっかりと癒しをしていく必要があると知ることですね。

好奇心が邪魔をする

幼い子供は、どうして?どうして?を連発する時期がありますね。最初のうちは可愛いのですが、度が過ぎると面倒になってしまうのです。

あれは我々人間が持つ好奇心が発動しているのでしょうね。だからそれは決して悪いことではないのです。

私は、大人になってもそういう面が残っていて、催眠療法のクラスなどでよく質問をしていました。講師の方にとってはやや煩わしい感じがしたかもしれません。

疑問を持つというのは、健康な自我にとっては当然のことだと思っているのですが、こと真実に近づこうとする場合には、ちょっと話が変わってくるのです。

なぜなら、疑問を解明したいという欲望は自我のものであり、疑問の中にいれば自我がそれだけ強くなってしまうのです。

ビッグバンで宇宙ができたのなら、それ以前はどうなっていたのか?など疑問を持てばそれが連鎖して新たな疑問が無限にやってきます。

自我にとってはそれがとても魅力的に感じるのですが、そういった欲に引っ張れることなく、ただこの瞬間に在ることができれば、自然と真実は見えてくるのです。

真実を解明しようとすればするほど、自我の存在が邪魔になってしまうというトリックに気づく必要があるのです。

この世界で好奇心を持って生きることと、内側に入って疑問のないただ在る状態でいることを両立できるようにしたいものですね。

自己想起を忘れずに

今日は仕事をお休みして、血液検査の結果を聞きにクリニックまで行ってきました。人気があるのか、それなりにいつも混んでいます。

待たされるのを覚悟して、しばし静かにしていると、隣とその隣の席で待っているおば様二人が何やらずっと話しているのです。

うるさいと思えばうるさいけれど、それほどでもないかと思えばそれほど気にするまでもないといった微妙な声の大きさ。

話しが途切れることがないので、自分にはできない芸当だなと思って、一体何を話し込んでいるのだろうと1分少々耳を傾けてみたのです。

その結果、日本語としては勿論聞き取れるのですが、何を会話していたのか私の中に響くものが何もなく、結局何を聞いていたのかも分からず仕舞い。

何であれだけ途切れることなく話し続けることができるのか?本当に分からない。しかも当然のことですが、無意識状態なのだろうなと。

自分が話をしているということに意識を向けるということがないのでしょう。他人のことは、本当によく分かるものですね。

自分自身も無意識に話し続けることもあるのだろうなと思って、一定時間経ったら我に戻って会話をほんの少し中断して、意識を自分に向けるようにしなければなと。

他人の振り見て我が振り直すじゃないですが、改めて自己想起の大切さを痛感しましたね。みなさんも忘れずに、自己想起、自己留意を心がけてみてくださいね。

カラダさん、ありがとう!

目に見えない精神は崇高なもので、物質的なカラダは低俗なものという考えは、とても馬鹿げたものだと気づかなければならないですね。

カラダを痛めつけて修行をする行者の姿をイメージできますが、それはあまりにも理不尽な感じがしてしまいます。

自分を生かすために、カラダが瞬間瞬間どれほどの過酷な仕事をし続けているのか、それをつぶさに見ることができたら、きっと圧倒されてしまうはず。

どれほど鈍感な人でも、感謝の念を禁じ得なくなってしまうでしょう。一つひとつの細胞の中に繰り広げられる奇跡の連続。

それを普段全く気づくことなく、当たり前のように生活してしまっているのです。そればかりか、精神のストレスをカラダに横流しまでしているのです。

精神的ストレスがカラダを無惨に痛めつけてしまうことは、薄々誰もが気づいていることでもあるのです。

例えば、ストレスは胃を収縮させてしまうばかりか、他の臓器にも多大な負荷を与えてしまうのです。ストレスは毒化してカラダ中を駆け巡るのです。

それは血管の中に入り込み、カラダはそれを体外へ出そうとあらゆる努力をしてくれます。肺からは咳によって、腸からは下痢によって、皮膚からは様々な炎症として。

可哀想な腎臓は普段の解毒仕事に加えて、その何倍もの負荷を与えられてしまうはず。それを考えたら、やはり瞑想することが大事かなと。

ストレスがやってくるのは仕方がないとしても、それをカラダにお願いするのではなく、精神のレベルで解放してあげることがとても大切なのでしょうね。

身体は正直に反応する

この一週間というもの、朝昼晩と毎日欠かさず血圧を測るようにしていて分かったことがありました。

それは、今朝ちょっとえっ?と思うようなメールをもらって、なんだそれと若干憤慨したのですが、それでも気を取り直してまあいいやと。

その直後に測った血圧がけっこうな高血圧レベル。このところずっと正常値をキープし続けていた優良血圧君が急上昇してしまったのです。

そんなはずはないと思って、再度測定したらもっと上がってしまう始末。気を取り直して、瞑想すること5分。

ああ、セロトニンが分泌されてきたかもと思ってから、もう一度血圧を測ったらありがたいことに正常値に戻っていました。

戻ってくれたのは嬉しかったのですが、あの程度のほんの些細な事象でストレスを感じ、それによってあっという間に高血圧に変身してしまうとは。

ストレスへの耐性があまりにも低すぎではないかと。表面的には、自分はそんなに弱いマインドの持ち主ではないと思いたいので、ショックを抑圧してしまうのでしょうね。

ところが身体は正直に反応してくれていたのです。教えてくれた身体に感謝をすると共に、なるべく身体からのサインを注意深く見守るようにしたいと思った体験でした。

ゾルバ・ザ・ブッダが理想

かつての仏教徒などの出家者が行う修行として、托鉢と言って信者の家々を巡って食料などを乞う、いわゆる乞食行というのがあったのですね。

人間の欲というものを完全に否定して苦行を積むといった感じで捉えているのですが、私はそういうのが本当に苦手なのです。

欲を抑圧したところで、いつかは反逆に合うのが関の山なのです。それは不自然極まりない生き方ですし、まるで人生を楽しむことが悪のように思えてしまいます。

だから禁欲的なガンジーの生き方には興味がないのです。美味しいものを食べずに我慢し、貧しいことを良しとするのは馬鹿げています。

精神性だけを高めた聖人が、物質的なことを価値のないことと見下しているように感じられます。osho はそれに対して真っ向から反対しました。

それがゾルバザブッダという生き方。ゾルバという男は俗な生き方、物質的な欲を解放して好きに生きた人の代表なのです。

その一方でブッダとして最高の精神性も兼ね備えている、これこそが理想だということです。誰もが本来当然のこととして持っている、物質的な豊かさの中で生きるとともに、内面はブッダとして生きる。

これって理想ですね。身体と心と本質のどれも大切で、どんな価値の上下もないということです。だからみなさん、自由に気ままに好きに生きて人生を楽しんでくださいね。

ストレス(思考)から離れるメソッド

自分の内面を見つめようとしている人であれば、もうお分かりだと思いますが、マインドは暇さえあれば何かを考え続けようとするのです。

それはもう明らかに、考えるのをやめたら大変なことになると言っているのが伝わってくるようです。

考えることで活動しているので、考えなければ活動が停止してしまい、パソコンで言えば電源をオフにさせられてしまうのに似ています。

それはマインドにしたら、少し死ぬことに似ているのです。自分がいなくなることと同じようなものなのです。

だから自分が自分であり続けるためにも、思考を止めるわけにはいかないのです。それが私たちのマインドの実態です。

そして今この瞬間のことを考えることはとても難しいので、大抵は過去か未来のことをネタにして思考し続けようとするわけです。

この一ヶ月の間、ずっと続いていた地味なストレスから今日解放されたのですが、ストレスがかかっていた間中、過去と未来を行ったり来たりしていたのに気づいていました。

このようにして、この状態は本当に嫌だなと感じながらも、思考が止まらずにいることでマインドの一部はしてやったりだったのです。

そういう時には、自分の身体、内臓や細胞などに意識を向けることで、そのストレス状態を回避できることを知ったのは、大きかったですね。

やはり何か困ったことがあった時の方が、気づきを得るチャンスが到来するのだなということを、改めて実体験することができました。

内臓や細胞の一つひとつに謝罪と感謝をするメソッド、ご興味があればぜひ試してみてくださいね。

セラピストは待つ

「俺は俺自身のことを誰よりも分かっている!」とどこかのおじさんが豪語しているのを聞いたことがあるような気がしますね。みなさんはどうですか?

それは物凄く笑えるのですが、気持ちはよく理解できます。自分は人が知らない自分のことを誰よりも知っていると感じているからです。

実際、朝から晩まで生まれてこのかたずっと自分と一緒に生きてきたわけですから、他人などよりも自分のことをよっぽど熟知しているのだと。

また確かに誰も知らない自分だけの秘密があるなら、そのことは自分が一番よく知っているのは当然のことです。

けれども、自分のことは自分が一番よく分かっていないという面があるのも皮肉なことに事実なのです。それはなぜでしょうか?

理由はいたって簡単。自分では自分の都合の悪いことからいくらでも目を背けていられるからですが、他人はその都合の悪さを持っていないのでズバッとそのまま見てしまうからです。

その上、セラピストというのはどんなクライアントさんであれ、利害関係が一切ないので、プロの目はクライアントさんの内面を細かく見通すことができるのです。

どのようにして癒されていくのかを、およそ見渡すこともできるのですが、それはクライアントさんの協力なくしては全く意味をなさないのも事実。

そんな時、セラピストは無理強いしてもいいことはないと知っているので、ただひたすら待つことになるのです。待つことも仕事の一つですね。

真実は見つけられない

真面目な修行僧は、一生をかけて真実を探求するのです。究極の存在である神を探求するといってもいいかもしれません。

それがどれほどバカバカしいことかというと、海を探求する魚のようなものだからです。魚にとっては、あまりにも全てが海に囲まれ過ぎているので、海を探すことができないのです。

どこに海があるのだろうという発想では、決して見つからないのは明らかですね。それと同じように、真実はあまりにもあらゆる物過ぎるので見つからないのです。

神をどこかに探そうとすれば、それが対象物としての様相を呈してくるので、それがどれほどお門違いのことなのかが分からないのです。

真実、神を外側のどこかに見出そうとしても無駄な努力です。私たちの内側にこそそれは隠れているのです。

本当は隠れてもいません。自分自身の本質なのですから。全てであるということは、どこかに見つけることはできないという単純な理屈です。

それは見つけるものではなく、ただ単に気づくことができるだけ。目を閉じてしばらく静かに内側へと入っていけば、フワッと広がる感覚がやってくるはず。

その全体性こそが、神であり真実であり、私たちの本質であるということですね。こんな感覚は、自我が活性化していると邪魔されて分からなくなってしまうものですね。

なので、自我がちょっとお休みしているわずかな間がチャンスです。そのスキを使って、自分の広がりを体感できるといいですね。