今この瞬間にあるために何の努力もいらない

今日は珍しく、身近にパソコンがない状況なので、仕方なくスマホで文字を打っているせいで、時間がかかっています。超面倒臭い。

若い人が物凄いスピードでケータイのキー入力しているのを見ると、自分には絶対に無理と思うと同時に、世代の違いを感じてしまいますね。

かつては、IT業界に身を置いていたこともあって、少しはパソコンのことも分かっていたのですが、今ではトラブルがないことを祈りながらパソコンを使っているのが正直なところです。

こうした傾向は、今後ますます様々な分野にも広がって行くのだろうなと思うのです。

とにかく、細かいことにエネルギーを向け続けることがドンドンと億劫に感じられるようになってきたのです。

根気が続かないというのか、飽きっぽくなってしまったようで、適当なところでOKを出してしまうのです。

たった一つだけ、例外があるとすると、今この瞬間に意識を向けるということです。

これは、集中力もいらないし、エネルギーも努力も何もいらないからですね。つまりは、何もしないということなのです。

何もせずに、一日中心の中でじっとしているというのは、幼い頃からの私の得意技なのです。

変なクセでも、いつかは役に立つこともあるのですね。

欲望にいいも悪いもない

クライアントさんも含めて、私の知人にはいわゆる「スピリチュアル」が好きという人が大勢います。といっても、この「スピリチュアル」というのをどう定義すればいいか、イマイチ曖昧なんですが…。

何か精神的なもの、あるいは本屋さんなどでは「精神世界」などという言葉で関連する書物が陳列されていたりしますね。何となくニュアンスは伝わります。

ところで、この世界でお金儲けや名声、地位などを求めて生きるよりも、精神性の高さを求める方がレベルが高い、あるいはより進化した人間の姿だと思い込んでいる人がたくさんいるようです。

この世界の教えに従って、一生懸命努力して立派な人物になろうとしたものの、いつまでたっても心が満たされないということに気づいて、今度は「スピリチュアル」へと求めるものを変えるのです。

けれども、これって求める対象が変化しただけで、根っこにあるものは同じ。つまり、今のままの自分ではダメなので、何とかして理想とするところまで自分を高めたいという気持ちなのです。

お金持ちになりたいのと、高い精神性を身に着けたいというのとは、本当は何も違いがないのです。後者は一見無欲な感じがするかもしれませんが、欲望を満たそうとしていることに変わりはないのです。

欲望は決して悪いものではありません。ただし、自我を無くして、欲望を取り去りたいなどという願いほど、エゴエゴしい欲望はありません。

物質的な価値観も精神的なそれも、単なる好みの問題であって、殊更「スピリチュアル」などという括りで特別視する必要もないということです。

無欲に生きるということが、崇高なわけでもありません。ただし、心を愛が満たしている時には、自動的にそのような状態になるかもしれませんが、目指すものではないのです。

欲望の中で私が一番好きなもの、それは真実を知りたいという欲求です。この欲求にしたがって、何か練習したりするのは結構楽しいのです。

けれども、忘れてはならないのは、その欲求は小さな子供が飴玉を欲しいと願う気持ちとそれほど違いはないということです。

人はいつまでも欲望を捨て去ることはできませんし、そんなことをする必要もないのです。ただ、その気持ちを今この瞬間の自分が、丸ごと受け止めていればいいのです。

我が家の非常識

子供は、好むと好まざるとにかかわらず、生まれた家庭の影響を色濃く受けて成長していきます。自分の家のルールや家族関係などがその子にとっての標準となるのです。

私が小学生のときに、友達の家で初めてカレーライスを食べたときに、他の家ではソースをかける習慣があるということを知って、本当に驚いたのも当然なのです。それまで、我が家では何の迷いもなくカレーには醤油をかけると決まっていたからです。

友達の家で遊んでいるときに、友達のお母さんがあまりにもやさしいので、びっくりしたという話しは今までに何度もセッションで聞いたことがあります。

それくらい、自分の家の様子が子供にとってはふつうになっているということです。勿論、年齢とともに次第に外の家がどうなっているかということに気づいていくため、社会の標準というものを知るようになっていくのです。

そうなって初めて、自分の家が特別だったのだということに驚かされるわけです。けれども、子供が家の中でとても大きな恐怖を親との関係に感じていると、自分の家を客観視することが遅れてしまうのです。

なぜなら、外の世界をありのままに知ってしまうと、自分の親を否定するような心が芽生えてしまうため、それは本人にとって生きていくのに都合が悪いからです。

だからこそ、自覚のないままに自分をだまして、外の常識を見ないようにして、自分の家や親が普通なのだと思い続けようとするのです。

そうした自分騙しは、思いの外強力であって、大人になってもそうした洗脳は残っていることが多々あるのです。セッションなどでするどく指摘されて初めて、自分の生まれ育った家を正直に見ることができるようになるのです。

そして、ようやくそこから癒しを進めていくチャンスが生まれるのです。癒しとは、ある意味偏向した見方をしてきたことに気づき、どんな色眼鏡も少しずつはずしていって、あるがままを受け止められるようになることだとも言えます。

この世界を司っている「舞台」とは

沢山のクライアントさんの中には、たまに舞台俳優をされている方がいらっしゃいます。舞台の上に立ち、大勢の観客の前で劇を演じるのは、とても魅力的なことでしょうね。

私は小学校を卒業するときに、謝恩会というのがあって、そこで友達と二人で自作の西部劇ふうコントをやったのですが、とても楽しかったのを覚えています。

ところで、私たちは役者さんたちが演じる役柄に、自分たちの人生を重ねてみることで感情移入するのですね。そうやって、物語の中に入り込んで、ひと時を楽しむことができるのです。

つまり、役者さんが演じる人生は、私たち自身の人生であり、その劇の舞台装置というのは、私たちの人生を取り囲むこの世界だとも言えるわけです。

そしてそこには、役者さんと舞台装置をいつどんなときにも支えてくれる「舞台」があることを忘れてはなりません。ただし、演劇を見ている観客は、舞台そのものを意識することは通常ありません。

劇に夢中になればなるほど、舞台そのものは全く意識から外れてしまいます。逆に、舞台そのものを思い出すようでは、すぐれた劇とは言えないでしょうね。

私たちのこの生身の人生においても同じことが言えるのです。私たちのこの人生において、「舞台」に対応するものとはいったい何でしょうか?

残念ながら、人生という物語の中に100%組み込まれている限りは、それに気づくことができません。それは、肉体の眼で見つけることができないからです。

でもそれは、確かに在るのです。思考に巻き込まれていることに気づいて、そこから静かに今この瞬間を感じることができるとき、それこそが真実という「舞台」なのだと分かるのです。

この宇宙に遍在して、この宇宙を宇宙たらしめてくれている「舞台」、それこそが私たちの本質である真実なのです。あなたには、それが見えますか?今見えなくても構いません。

いずれは、見る(直接体験する)ことになるのですから。なぜなら、それはあなた自身だからです。

毒出し体験のご報告

みなさんは寝つきがいい方ですか、それとも悪いほうでしょうか?どこでもすぐに寝れる人と、神経質で枕が変わっただけで眠れなくなるという人もいますね。

私は、大抵はすぐに寝付ける方なのですが、夕べはずっと眠れずにとうとう朝7時くらいになってしまいました。貫徹状態で午後からの仕事をするのはイヤだったので、そこから10時半までは寝れたのでよかったです。

ちょうど気持ちよく寝入るときに、騒音などで起こされてしまうと、どうもそのあとの寝つきが悪くなるという面倒なクセがあるのですが、夕べのは全く違うことが原因でした。

ちょっと不思議な体験をしたので、書いてみます。きっと、ウトウトし出した頃なのでしょうね。階段を下りている夢を見たのです。暗闇の中を慎重におりていき、階段の終わりを足で確認したのを覚えています。

そして、平な空間を歩きだしたのですが、そこは完全なる真っ暗な場所で、これは困ったなと感じた瞬間に、見えない自分の身体が拡張しだしたのです。

言葉で表現するのは難しいのですが、全方向に一斉に身体が広がっていく感覚です。身体がなくなっていく感覚というよりも、とにかく半端ないくらいに膨張していくのです。

それと同時に、真っ暗な眼前に光の模様のようなものが見えました。恐怖感はまったくありませんでした。何だろうと思っているうちに、次第に身体の拡張感が小さくなっていき、そのまま目覚めたのです。

目覚めたあとも、拡張感がはっきりと残っていたのですが、それは時間と共に薄れていき、最後には消えてしまいました。何だか、身体が熱くて寝苦しいと思いながら、朝まで寝付けなかったというわけです。

横になりながらも、その体験について考えていたのですが、どうやらある種の毒出しだったのではないかと思えるのです。今までに、私にはいろいろな毒出し体験があるのですが、共通するものがあったからです。

一つは、光が見えるということ、そして身体の感覚に異変が起きるということです。夕べのものは、それほど激しいものではなかったですが、これまでに体験した中には相当にびっくりするようなものも実はありました。

何でストレスもないのに毒出しなの?とも思うのですが、自覚のないところで身体は酷使されているかもしれません。特に寒い時期には、解毒力が下がっていますので自動的に身体が自らを癒したかったのかもしれません。

眠れなくなるのは困ったことですが、またあれがやってきてくれたら嬉しいのにと思いながら、今日もベッドに着くことにします。

思考の上手な使い方

私たちの精神活動のほとんどすべてが、思考によって成り立っているということはご存じだと思います。記憶を思い返したり、未来を予想したり、パズルを解いたり、誰かを否定したり…。

多くの人にとって、思考が止まる時などないのだろうと判断してもいいくらいです。勿論、そうした判断も思考によってなされているわけですね。

思考は何も人間だけの専売特許ではありません。犬や猫などの動物であっても、思考を働かせていることは伺い知ることができます。

けれども、動物の思考と私たち人間の思考にはとても大きな差異があるのです。それは、動物の思考はただ周りの状況に反応するために思考が使われるということです。

私たちもそのような思考の使い方はするのですが、それ以外の思考がほとんどだからです。それは、自我によって毎瞬ごとに生み出される思考なのです。

思考ほど、強力なツールは他にありませんが、それは自分が能動的にツールとして思考を利用しているときに限られるのです。逆に思考に操られてしまうと、人生が台無しになってしまうかもしれません。

私たちが思考の主人でいる場合、たとえば将棋のプロが一心不乱に集中して将棋の試合に臨んでいる時、最大限思考を有効活用していると言えます。

けれども、自我が「この試合に勝ったら、自分の名声が高くなる。」という思考を送り込んできて、一たびそれに巻き込まれてしまったなら、試合への集中が途切れて結果に悪影響を与えることになるのです。

最も悪いケースは、悩み事をグルグル考え続けてしまい、こんなことをしていても何も解決しないのにと自覚しながらも、そこなら抜け出せずにいるような時です。

こうしたことは、誰にでも一度や二度経験があるはずです。そんなときにはすかさず、「今自分の頭の中にどんな思考がある?」と質問し、思考を見る立場になることです。

そうすると、一瞬にしてグルグル回転していた思考は力を緩めて静かになってくれます。そんなに簡単に思考から抜け出せるはずがないと思うなら、試してみて下さい。きっとうまくいくはずです。

あなたは、思考の主人でいることが多いですか?それとも、やってくる思考に巻き込まれてしまうことが多いでしょうか?そこのところをよく、見つめて自覚することが必要です。

上手な思考の使い手になれたら、あらゆる思考を貫いてずっとそこにある自分の本質にも気づくことができるかもしれませんよ。

この世界に順応できずにいることは大切なこと

世の中には、上手にこの世界に順応して快適に過ごしている人もいれば、なかなかうまく順応できずにもがき苦しんでいる人もいます。

全ての人をそのどちらかに真っ二つに分けるのは、勿論粗っぽ過ぎるのですが、一応そのどちらかに属すると考えてみると、あなたはどちらのグループに入ると自覚してますか?

私の場合は、確実に後者のグループに入るという自覚があります。そのことは、第三者が私のことをどのように見ているかということとは、全く関係ないことです。

なぜなら、この話し自体が100%自覚によっているからです。どう自覚しているかがすべてであることは、分かっていただけると思います。

後者の人たちは、みんながごく普通にやれていることを自分はうまくできないと感じていたり、それをするのにとてもエネルギーを使うので、心が疲弊してしまうというように思っているのです。

うまく人生を生きている人たちのことを、少なからず羨ましく見ているのです。前者の人たちは、はっきりとした目的を持っていて、自分が何をしたいかも分かっている。

なぜ自分はこの世界に生まれたのかとか、人生の本当の目的とは何なのだろう?などといった実質的には意味のない疑問が頭をもたげてくることもないのです。

なるべくなら、早くこの人生を終わりにして楽になりたい、などと考えることもない幸せな人なんだろうと、前者の人のことを見ているのです。

けれども、自分のことを後者の人間だと思っているあなたに、是非お伝えしたいことがあります。人生がうまく行っていないと感じることは、とても大切なことなのです。

なぜなら、それこそが自分の本質に気づく最大のチャンスをもたらすからです。順風満帆な人生がもしあるとしたら、その人は本当に大切なことを何も気づかずに死んでいくことになるはずです。

この世界など理解不能であって、自分はまったく何もかも分からない、そういう思いこそが真実への扉を開くきっかけを作ってくれるのです。

そしてもしも、本当にあなたが心から真実を知りたいと願うなら、それは必ずや叶うときがやってきます。真実はいつもあなたに語り掛けているのですが、そっぽを向いてきたのはあなたの方だと気づくことになるからです。

イベント嫌いの私

根っからのズボラのせいもあってか、最近ではもう年賀状を出すということもなくなってきてしまいました。自分のところに届いた年賀状には、とりあえず忘れない限りは遅ればせながら出すようにはしているのですが…。

少し前に知ったのですが、年賀はがきを購入して自分で印刷したりすることなしに、すべてパソコンやスマホ上からネット経由で本物の年賀状を届けるというサービスができたんですね。

何と便利なことか。これだったら、さすがの自分にもやれるんじゃないかと思うのですが、今度は実物を見ずに相手のところに送られてしまうのが、何となく不安な気持ちになってしまって。

まだ出しそびれている方々のところに、とりあえず意を決して試してみようと思っています。クリスマスとか、お正月とか、年賀状といったふつうの毎日の生活とは異なる、いわゆるイベントごとが好きな人とそうでない人がいますよね。

女性は大抵がイベント好きではないでしょうか。誕生日とか結婚記念日などを忘れられると、それだけで悲しくなったり怒ったりする人もいるでしょうから。

それに比べて、特にマメではない男性というのは、どうも日常が好きのようなのです。私は、そのタイプの筆頭のようなものなのです。

早く年末年始のお休みが終わって、正常な状態へと戻って欲しいと切に願ってしまっています。それにはそれなりの理由がちゃんとあるのです。

例えば、スポーツクラブがお休みになってしまう、毎日のリズムが崩れてしまう、朝からお酒を飲んだり、普段食べなれないおせちやお餅を食べ過ぎて体調を壊す、等々。

会社員の頃は、お休みが命の次に大事だったのですが、今は普段の生活が何といっても一番自分にとって快適なのですから、イベントは不要なのです。

みなさんは、まだ正月ぼけの状態でいるのでしょうけれど、私は今日からもう仕事も始めたし、ごく普通の生活に戻りましたよ。

毎日がそれなりにイベントだと思えば、活き活きした人生を生きられるかもしれませんね。本当は、時間の流れというものはなく、瞬間瞬間があるだけなのです。

だから今この瞬間というイベントを都度楽しめばいいのですね。

諸行無常を支えるものに気づく

毎年毎年、その年の初めになると、多かれ少なかれ「今年こそは…」という期待に胸を膨らませるのですが、結果としては期待通りのことがやってきたり、こなかったりしますね。

どちらにしても、物事は一瞬たりとも止まっていることができません。私たちは、常に変化の中に晒されているわけです。そのことを、諸行無常などと言いますね。

辞書によれば、『この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。』とあります。

これを違う言葉で、『時間』というのです。時間と変化は、一つものです。時間があるから、変化が起きるとも言えるし、変化がなければ時間は存在できないのです。

けれども、決して変化することのないものが在るのです。どれほどの壮大な時空をかけた物語の映画であったとしても、決して変化しないものが一つだけあります。

それが、その映画を映し出すスクリーンですね。スクリーンは映画の中には決して発見することができないのですが、常にその映画を支えているのです。

そこにどんな物語が繰り広げられようと、永遠にそれが存在することを許しているのがスクリーンなのです。それとまったく同じことが私たちのこの世界についても言えるのです。

時がどれほど経って、どんな変化が起きようと、それを永遠に可能にしてくれているもの、それが真実です。私たちの本質は、時空が起きるその前提なのです。

この世界を肉体の目で見ている限り、諸行無常しか見ることはできませんが、純粋な意識だけで全体性を見るとき、そこにこの世界のスクリーンである永遠性を見出すことができるのです。

あなたは、もうすでにずっと前から自分の本質に気づいているのですが、それを一瞬見ただけですぐにこの世界で起きつつあるもののほうへと意識を向けてしまうだけです。

集中せずに、肉体の目で一点をただ見ているうちに、自分が何をしているのか曖昧になると同時に、意識の目で全体性を見ていることに気づくはずです。スクリーンに気づくことです。

自分の不可能性に気づく

新年、明けましておめでとうございます!!

みなさん、さわやかなお正月を迎えておられることと思います。今年は、昨年にも増してたくさんの新しい出会いが待っていてくれると思うと、すごくワクワクしますね。

私が思うに、人は出会うべき人と出会うべき時に出会うことになるということです。ただ起きているという偶然性と、必ず起きるという必然性が同時に満たされているのです。

真理とはいつもそうした矛盾を持ってしか、捉えることができません。だから、私たちの思考では理解することが不可能なのですね。

あなたが、自分のことを自律的に生きている存在ではない、という真実を見破ったとき、つまりあなたには自由意志がないということを知ったとき、真の自由と出会うことになります。

言葉を変えれば、すべての不可能性を看破したときにこそ、完全なる自由をそこに見出すことができるのです。もしも、分かりづらければこう考えればいいのです。

例えば、私たちの誰もが未来を過去のように知ることはできませんね。その不可能性の中に私たちは生きていますが、だからこそあなたは未来に対して完全に自由でいられるのです。

もしも、あなたの自由な意思の力で未来を変えることができるとなったら、それこそ最大限の苦しみがやってくることになるかもしれません。

なぜなら、誰かが怪我をする未来を見て、その人を守ることができたとしても、それ以外の地球上の多くの人を助けてあげることができなかったと分かって、罪悪感に苛まれることになるからです。

自分の不可能性に気づくことができるなら、そこには落ち着いた静かで深い喜びがあることにも気づけるはずです。そしてさらに言えば、苦しみがなくなり、痛みの種類も変わってくるはずなのです。