家庭内パワハラを受けた結果は?

子供の時にコントロールの強い親に育てられると、どうしても人の期待に応えようとする傾向が大きくなってしまうのです。

コントローラーというのは、社会の中ではパワハラとかセクハラという形で表面化しているものと基本的には同じです。

それが家庭の中で起きている、つまり家庭内パワハラというのがコントローラーの親のことです。

子供はペットではないので、初めのうちはそれなりに抵抗もするのでしょうけれど、すぐにそれが危険なことだと分かって従順になっていくのです。

その生き方が、後々親以外の他人に対しても使われるようになるため、結果として相手の期待に応えようと頑張ることになるのです。

自分が本当は何がしたいのかということよりも、期待に応えるために頑張る、無理をするという人生になってしまうため、自分の好みなどが分からなくなりがちです。

こうなってしまうと、シンプルな生き方とは正反対の複雑な人生が待っていることになります。

最終的には、自己犠牲の蓄積によって何らかの爆発、あるいは定常的な問題行動を繰り返すことになってしまうのです。

人の期待に応えようとすることの何が悪いのだ、と思うのでしたら要注意です。あなたは、誰かの期待に応えるために生まれてきたのではないのですから。

繰り返し読んで理解を深める

10年くらい前だと思うのですが、ある文章の中に「自分はイメージだ」という部分を見つけた時に、急に涙が出て楽になったことがありました。

要するに、本当の自分は身体でもなく、マインドでもない。一方で、この自分は思考がでっち上げた一つのイメージに過ぎないということです。

今思えば、その頃もうすでにそういったことは知っていたはずなのですが、それがその文章が飛び込んで来た時に、どこかで腑に落ちたのでしょうね。

知っていることと、腑に落ちるということがこれほどまでに違うのかと思い知らされたわけです。

だから知らないことはいいのですが、かえって知っていることというのは要注意だということです。

知っているということで、それについてはそれ以上に得るものがないと思い込んでしまう恐れがあるからです。

私の本を読んで下さっているクライアントさんには、気がついた時にあの本は繰り返し読んで下さいねとお願いしています。

というのも、読むだけならスルスルっと終わってしまって、確かに書いてあることを理解できたと感じるのです。

けれども、それはあくまでも表面的な理解なのです。読んでは実践して、しばらくしてまた読むことによって、理解がより深まるのです。

同じ文章を何度も読むのは気が進まないというのは分かるのですが、それなら何が書いてあったかあまり思い出せなくなったときにでも、また読んで欲しいのです。

理解が深まってからまた読めば、それまでとは違う理解の仕方が必ずできるはずだからです。

マインドの中の沢山の本音

春夏秋冬のうち、どの季節が一番好きかと聞かれたら、間違いなく夏と答えます。過ごしやすいのは、勿論春だったり秋なのですが…。

そういうこととは関係なく、好きなものは好きなのですね。今年の夏は、異常に暑いのですが、それでもフーフー言いながらも夏はいいなと感じます。

朝起きてカーテンを開けて、窓から外気の熱気が伝わってくるとなんだか嬉しくなってしまうのです。

当然、理性の自分はおいおい今日はこれから仕事にでかけなくてはならないので、猛暑はしんどいぞと思っているのです。

けれども、利害をとっぱらったところで「夏全開!!」と言って喜んでいる自分がはっきりといるのが分かるのです。

こんな感じで、いつも自分の中にはいくつもの考えや感性があって、互いに対立しているわけです。これが人間のマインドなのです。

どれもこれも本音です。本音が一つしかないなどというのは妄想です。たくさんの本音が乱立していると認識した方がいいですね。

マインドにどんな奴がいようと、無視したり隠したり、また抑圧したり否定することなく、そのままに見てあげることです。

しっかり見てあげればあげるほど、人生を邪魔されることが少なくなってくるはずです。

執着と欲望が苦悩の原因

ハートはずっと今この瞬間にいて、ここから離れずにいることができます。ところが、マインドはちょうどその反対。

マインドは思考の集合であるため、常に過去か未来に飛んでいるのです。なぜなら思考そのものは今この瞬間に起きているけれど、思考の中身は過去か未来のどちらかだから。

思考が過去へ向かえば執着になるし、それが未来へ向かえば欲望になるのです。思考はそれが活動するための時間と空間を必要とするのですね。

だから時空のない状態を私たちは想像することができないのです。思考の外に出てしまえば、時空は消えてしまいます。

あ、今書いたことをもう訂正したくなりました。執着は過去だけでなく、未来へと向かうこともありますね。

私たちの苦しみの多くは、執着と欲望がその原因であると理解することはとても大事なことです。

そしてその両方共に思考が活躍しているということです。だからといって、思考は決して悪者ではないのですが、思考に飲み込まれてしまうことが問題なのです。

そうならないためには、できるだけ意識的であることですね。

背景が「在る」ことに気づく

他に言葉が見当たらないので、「背景」とか「土台」とか言うしかないのですが、要するにどんなものにでもそれが存在するための「支え」のようなものがあるということです。

テレビ画像には、液晶や最近では有機ELといった画面があるし、映画上映にはスクリーンがあります。

演劇をするには、舞台という土台が必要だし、絵画にはキャンパスが必要なのです。そのことに普段から気づいているかどうかが大切なのです。

あらゆる音、音楽には静寂という背景が必要です。静寂から、すべての音が立ち上がってくるのですから。

そして私たちのこの世界、この宇宙にも背景があります。そのことを昔から「無」とか、「空(クウ)」などと呼ぶのです。

空(クウ)といっても、空っぽというニュアンスよりも、「無(何もなさ)」で満ちているといった方が近い感じがします。

この現象世界のすべてが、「無」という背景から立ち上がってくるのですね。私と一緒にエクササイズしませんか?

ほんの10秒程度でも大丈夫です。背景に意識を向けてみてください。最初は分からなくてもいいので、真似事で構いません。

そのうち、その無限性、全体性がドーンとやってきて圧倒されるかもしれません。そして、それこそがこの自己の本質だと気づくことになるのです。

自由の感覚を手にする

観照し始めてごらん。通りを歩くとき、観照者になるのだ。身体が歩いているのを見守ってみなさい。もっとも内なる核心から、ただ見守り、観照し、観察する。突如として、あなたは自由の感覚を手にするだろう。

by osho

1日に1回でいいから、歯磨きをするときにそれを観照してみることです。そうすると、それは自動的に起きていると分かります。

あるいは、1日に1回でいいので、街を歩いているときにそれを観照してみると、歩いているのは身体だと分かります。

ほんの少しでいいので、そうやってテレビを観ているとき、食事をしているとき、ちょっと難しいですが誰かと話しをしているとき、それを観照するのです。

そうすると、観照されるあらゆる出来事は、それ自体がただ起きていることだということに気づけるはずなのです。

そこにいつもの自分が介在する必要はないということに気づくのです。そして元々誰も介在していなかったと分かるのです。

これがなぜ自由の感覚なのかというと、本当の自由とはマインド、自我から離れることだからです。

観照といっても、最初は自我が見ているだけなのですが、それでもほんの少しはこの自由の感覚がいずれはやってきてくれるはずです。

そしてどんな瞬間でも、ほんの数秒の間であれ、この自由の感覚を手にすることができれば、生きている感覚が違ってくるのです。

<全体>を信頼すること

信頼

われわれがシュラッダと呼んできたもの–

生を信頼すること

自分の個的な心を信頼するのではなく

<全体>を信頼すること

部分を信頼するのではなく、全体を信頼すること

心を信頼するのではなく、存在を信頼すること

by osho

昨日のブログで、自分の変化について書いたのですが、受け入れることと意識的であろうとすることが主な変化だということを書きました。

たしかにそれは間違ってはいないのですが、もっとシンプルに言えば、↑この osho の言葉になるなと思ったのです。

<全体>を信頼すること、個人としてのマインドは決して信頼することができません。なぜなら、それは思考の産物だからです。

真実はそこからはるかに離れたところにあると分かるのです。そのことに気づいたことが最大の救いであり、拠り所になっているということです。

マインドとの同化を続ける限り、本当の救いはありません。というより、元々救われていることに気づくことがないと言った方が正しいのです。

マインドには信頼が分からないのです。マインドは二元性を生み出し、信頼はその外にあるものだからです。

マインドが消え失せた時、ずっとここにあった真実が見えてくるのでしょうね。

生きる上での拠り所

社会人になってからのキャリアで考えると、実はまだ会社員時代の方が長いのです。会社員は22年くらいやってましたから。

セラピストになってからは、今まだ17年半というところなので、会社員の頃の夢をいまだに見るのは当然かもしれません。

仕事の変わり目が人生の大きな節目になったことは確かなのですが、果たして自分はどれだけ変化したのだろうかと、ときどき考えることがあります。

そうすると、正直に言えば人間としての人格だったり、性格、あるいは主義主張などの傾向はほとんど変わってないのです。

結局人間てそんなに大きくは変わることはできないということですね。ただし、奥の方では確実な変化も実はあるのです。

それはほぼ間違いなく他人からは気づかれないようなものです。ざっくり言って、変化は次の二つだと言えるかもしれません。

一つは、物事を受け入れることができるようになったこと。といっても、それまで受け入れられなかったものが受け入れられるようになったということではありません。

表面の自分はそれまで通り受け入れないとしても、その奥に隠されたところでは何であれ受け入れないということがなくなったということです。

他人からは見えない深い層の部分ができたということかもしれません。そしてもう一つの大きな変化は、意識的である練習をするようになったこと。

そして深いところには真実が在るという感覚を常に持っていられるようになったことです。ここが非常に自分としては大きいのです。

人間的には相変わらずヘラヘラしていて、優柔不断で、努力ができず、大抵は無気力な感じで生きていますが、真理というとてつもない拠り所ができたのですね。

みなさんは、どんな拠り所を持っていますか?

期待に応える人生から足を洗うべし

他人の期待に応えることをやめるがいい、それはあなたが自殺することになり得る唯一のやり方だからだ。

あなたは誰かの期待に応えるためにここにいるわけではない。そして他の誰かもあなたの期待に応えるためにここにいるわけではない。

決して他人の期待の犠牲になってはいけない、そして誰もあなたの期待の犠牲にしてはいけない。

by osho

なぜ私たちは、気がつくと誰かの期待に応えようとして我慢したり無理したりしてしまうのでしょうか?

相手の期待に応えることで、相手の人生がより良いものになると信じているのでしょうか?

あるいは、相手の期待に応えなければ、否定されたり嫌われたりすると思い込んでいるのでしょうか?

どんな理由があるにせよ、相手の期待に応えようとする前に自分はどうしたいのかをしっかり見ることです。

自分が本当にそうしたいのであれば、それが結果として相手の期待に応えることになったとしても問題はありません。

相手の期待に応えずに、関係性が悪化するのであれば、それは元々良好な関係ではなかったとあきらめることです。

相手の期待に応えようとすれば、必ず自分を奴隷にしてしまうことを忘れないこと。それでも構わないというなら、どうぞ奴隷の人生を満喫してください。

ただし間違っても、自分はこれだけ期待に応えてあげたのだからと、その見返りを要求するようなことがないように。

もしもあなたが、なんだか生きづらいと感じているなら、人生が奴隷化していないか要チェックですね。

「自分」に個別性はあるか?

朝目覚めたときに、あれ、ここは一体どこだ?とならないのは、昨夜寝るときに見ていた部屋の記憶を瞬時に使って、それと照合するからでしょうね。

周りの部屋の景色が記憶と違っていたらびっくりしてしまうはずです。記憶と照合しつつ、連続性を感じながら生きているわけです。

このことは、自分自身についても同じことが言えるように思うのです。今朝起きた自分が昨日寝たときの自分と同一人物だとどのように判定しているのか?

私たちは、これが自分なのだという印みたいなものを予め持っていて、それによって確かに自分だと判断するのでしょうか?

その印と照合することで、自分という個人の連続性が維持されているように感じるものなのでしょうか?

ここを突き詰めて見ていくと、どうやら自分自身についても結局は記憶を使うことになるのだと分かります。

私たちは、夜寝る部屋の記憶を溜めるだけでなく、その部屋で寝入る自分という記憶も同時に蓄積するのですね。

もしもその記憶を使わずにいるなら、昨日までと同じ自分がここにいるということをどのようにしても知ることができなくなるのです。

結局のところ、この自分というのは記憶の集合に過ぎないということになってしまいます。エゴとしては、どうも寂しい限りですね。

自分とは、そんな記憶データの塊などではない、特別な存在なのだと思いたいのですから。自分をデータだと見なしている人はいないはずです。

けれどもこの受け入れがたい真実を真正面から見ることができるなら、これまで持っていた自分という概念が間違っていたと認めることができるのです。

自分という一つのまとまった独自の存在などはないということ。マインドは思考の塊ですが、それは記憶データなしではとても使い物にならないのです。

自分という概念はあるのですが、「この」自分といった個別性を持った実体はないということです。

それを拒絶するか、心地いいと感じるかはあなた次第ですね。