マインドの罠を見抜く

私たちのマインドの原動力は愛だと思われているかもしれませんが、実際にはその逆です。なぜなら、マインドには愛が分からないのですから。

マインドの原動力になるのは、困難、苦しみ、痛み、混乱、戦い、こういったものばかりです。ちょっと信じられないかもしれませんね。

けれども、マインドの生い立ち、マインドの原理、マインドの仕組みなどを深く見ることができると、残念ながらそうしたことを認めざるを得なくなるのです。

マインドは何らかの問題を見つけてはそれに対処しようとすることで、自らの存続が可能になると考えているのです。

勿論それは最も深いところに隠し持っているので、簡単に自覚することはできないようになっています。

私たちが自覚しやすいのは、自分は幸せになりたいと願って生きているのに、なかなかそうはならないという不思議です。

勿論一過性の喜び、一時的な幸福感を感じることはありますが、それも長続きはせずに、次なるものを求めることになるのです。

本当は、幸福になって満ち足りてしまったら、マインドの原動力が失われてしまうというのが隠された理由だったということです。

自分のマインドの本性は、満ち足りることを恐れているという受け入れがたい真実を真正面から見つめること。

マインドを熟知すること以外に、その罠から抜け出す方法はありません。満ち足りるという現象は、マインドの外に立つときに初めてやってくるのです。

死は安全、生は危険

生きて死ぬ、これが誰にも平等に起きていることですね。死は限りなく安全であり、逆に生は危険なものです。

これが自然の摂理であり、これに逆らうことはできません。ですが、人間だけが生を安全なものにしたいと常に望むのです。

他の動物にはない未来という概念を人間が持っているためなのでしょうね。予期不安を払拭したいがために、安全を求めることになるわけです。

それを私は心理的自己防衛と呼ぶことにしています。つまり、私たちのマインド、エゴというのは自己防衛こそがライフワークとなっているのです。

けれども、どれほど知能が発達したところで私たち人間が自然の摂理を変えることはできませんし、それに逆らうことは理に反したことなのです。

それならば、今一度「死は安全、生は危険」ということを思い出し、そこから逃げられないことを認めること。

もしも安心安全ばかりを求めるなら、それは生きているように見えて、実は死んでいることになってしまうのです。

危険は決して悪いことではなく、危険から逃れようとして生を台無しにしてしまわないようにすることが、大切だということですね。

ハートには時間の感覚がない

YouTube で昔よく聴いていた音楽を見つけて、たまにその頃を懐かしく思い出して聞いたりすることがあるのですが…。

懐かしいと言っているのはマインドであって、音楽を純粋に楽しんでいるハートの方は、決して懐かしいとは感じていないのですね。

というより、ついさっきもこれ聴いたし、同じものを今また聴いているといった感覚で、決して実際の数十年の年月の隔たりを感じないのです。

それはきっと時間というのは思考の産物だからなのでしょうね。ハートには思考がないので、時間経過というものがそもそもないのです。

だから30年ぶりに聞いた曲であったとしても、その当時と変わらない感覚で聴くことができるのだと思うのです。

であるなら、懐かしいという感覚はハートにとっては不純物が混じったことになると言えますね。

何かを懐かしむのは別に悪いことではないですが、マインドを使わずにハートを全開にするなら、懐かしいは消えて過去も一緒に消えて行くのです。

そこにあるのは、ただその曲に聴き入るハートがあるだけなのですね。

存在の中に深く入って行く

ただ在ることの中に深くくつろぐことができると、本質的には「するべきことは何もない」ということが分かるようになります。

人生で本当に大切なこととは、こうしたことに気付くようになることなのです。それは、自分の存在に意識が向くようになるかどうかにかかっているのです。

ところが残念なことに、大抵の場合は目の前に繰り広げられる人生という物語にばかり目が向いてしまうのです。

そうして少しでも価値ある自分になるべく頑張るのです。努力して結果を残して、周囲から認められて初めて価値ある自分になれると勘違いしているのです。

どれほど目に見える成果を成し遂げたとしても、悲しいかな価値の低い自分に価値ができたとは思えないのです。

価値判断できるものは、いつでもすぐに当たり前になってしまうからです。存在とは価値判断の外にあるもの。

外側に向いている意識を、少しずつでも内側に向ける練習をすることです。この地道な努力を毎日繰り返しているうちに、言葉を超えた何かを感じるようになれるのです。

勿論それでも、人生物語は淡々と続いて行くのですけどね。

五感の背後にあるものに意識を向ける

自分が何かを一生懸命考えているときこそ、意識的だと勘違いしていることが多いものです。そういう人にとっては、瞑想ほど非生産的で馬鹿げたものはないと感じるでしょう。

考えることが何か建設的だと思っているわけですが、実は考えている時というのは、逆に無意識的な場合が多いのです。

人は考えているときにはその中にはまり込んでしまって、そのことに意識を向けることができなくなるからです。

一方で、思考の代わりに五感の方に注意を向けることは、うまくすれば意識的であることに通ずることができるのです。

心静かに感覚を研ぎ澄ませて、外から入ってくる視覚、聴覚などの情報に意識を向けることはそれほど難しくないはずですね。

例えば、自然のなかにいて非常に小さな鳥の鳴き声に耳を澄ましているとき、聴覚に集中することができます。

それと同じ方法で、どの五感も使わずにいるというやり方があるのです。あらゆる感覚はそのままにして、そのどれでもない背後にあるものに意識を向けるのです。

この方法は、日常のあらゆる場面で実践することができますので、是非試してみて欲しいと思います。

自己否定から抜ける最大の方法

他の動物にはない、人間だけに特徴的な精神活動があるとすれば、それは自己否定だと言えますね。

つまり自己否定ほど人間らしい精神活動はないとも言えるわけです。自分で自分のことを否定するのですから、なかなかどうして不思議な状況なのです。

自己否定にもいろいろなレベルのものがあって、ちょっとしたミスをして「俺ってバカだな〜」というような軽いものであれば問題ありません。

一番困るのは、ダメ出しの理由をいくら追っていっても実はよく分からないところで自己否定をしている場合なのです。

このレベルの自己否定は自己存在の否定なので、理由がいらないのですね。それだけに、一度この否定を作り出してしまうと、簡単には取り外すことができなくなってしまうのです。

やっかいなものですね。けれども、所詮は人間としての精神活動、つまりマインドの働きの一つに過ぎないということを理解できるなら、それは自動的に落ちて行くのです。

マインドの仕組みを理解すれば、自己否定をする理由がはっきり分かるのです。そもそも、マインドというのは精神活動そのもののプロセスのことであり、これと言えるような実体があるわけではありません。

そのために、自己否定などの面倒な問題を持つことによって、それ自身の活動を続けることができるわけです。

もしもしつこい自己否定感に悩んでいるという自覚があるのでしたら、是非一度マインドを深く理解することにチャレンジされるといいと思います。

みんな見てる世界が異なる

上の画像は何だと思いますか?先日、うだるような暑さの中、母親の散歩に付き合ってとある植物園に行ったときに撮った写真です。

この木はヒマラヤスギなんですが、何と松ぼっくりがあったのです。松ぼっくりは茶色だと思い込んでいたので、何か得体の知れないもののように見えたのです。

まだできたてなのでこんな草色をしているのです。これがいずれは茶色になってバラバラと落ちて行くのです。

さらに言えば、実はヒマラヤスギと言っても杉ではなくて、松なんですね。だから松ぼっくりがあって当然なのです。

ところが、誰かが翻訳ミスをしたおかげで、松なのにスギという名前がつけられてしまったらしいのですが、よく見れば松だとすぐ分かります。

それなのに、スギと書いてあるだけでそれを安易に信じてしまうのです。このようにして、松ぼっくりに対して先入観として持っている「色」と「名前」に影響されてしまって訳が分からなくなったいい例ですね。

私たちはしっかり対象物を見ているようでいて、本当は9割方決めつけた見方をしているということです。

この決めつけこそが、あるがままを見ることを妨害しているのです。そして内的に作り上げた物語をあるがままの上に被せてしまうわけです。

そんなことを誰もが別々にやっているため、互いに同じものを見ても、異なって見えてしまうことになるのです。

だから互いの主張がぶつかり合うことになり、自分は正しくて他人は間違っていると思うことになりやすいのです。

自分が見てる世界と人が見ている世界が違うということを深く理解すれば、そんなに争いごとは起きないはずだと思いますね。

自分が誰かを見てみると…

1日1回でいいので、思い出したら次のことをやってみてください。それは、今この瞬間の生身の自分とは一体誰だろう?と見てみるのです。

具体的にどうすればいいかというと、いたって簡単。それは、あらゆる記憶を使うことを少しの間やめて、その状態で自分は誰か?と問うてみるのです。

あなたはきっと、自分のことを単なる記憶の蓄積だとは思いたくないはずです。であれば、記憶を使わずとも自分が誰かを知ることができるはず。

このブログを読んだだけで終わらせるなら、まったく何の意味もありません。10秒でも20秒でもいいので、実際に試してみることです。

するとどうでしょう?私の場合ですが、自分が誰かは全く分からなくまってしまいます。それが「誰でもなさ」なのです。

自分が知っている自分というのは、残念ながら記憶を総まとめしてでっち上げられた架空の存在だったのです。

だとすると記憶以外で残るものは一体何でしょう?それが意識なのですね。今この瞬間に気づいているということ、それが意識です。

それこそが本当の自分の本質だということです。瞑想のやり方というのは、それこそ無数にあるのですが、この方法も立派な瞑想法の一つですので、是非日頃から実践してみてください。

テニス観戦の心構え

今年もウィンブルドンテニスの開幕を迎えました。といっても、自分がテニスが上手というわけでも趣味というのでもないのですが…。

ただ錦織選手を応援していたら、一年通してテニスの試合を観るようになったというだけなのです。

ウィンブルドンは歴史と伝統のある格式ぶった大会で、選手も特別な気持ちで臨むようで、見る側もテンションが上がるのです。

ただどうかなと思う点もあって、それは試合に出場する選手のドレスコードというのですか、上下ともに「白」でなければならないという規則があるらしいのです。

最近では、選手がどんな格好で試合をするのかというのも、見る側にとっての一つの楽しみだったりするわけで、それがなくなってしまうのは残念なのです。

それとコートの表面が芝なのですね。初めのうちは緑がきれいですが、ツルツル滑りやすいし、そのうちには土が剥き出しになったりして、汚くなります。

ハードコートで育ってきた錦織選手にとっては、かなりハンデを背負うことになったりするのですが、それも含めて試合に勝たなければなりません。

プロ選手はどんな言い訳もできない辛さがありますね。試合中、つい応援に熱が入って、身体が火照ったりするのです。

そういうときこそチャンス。そんな自分に意識を向ける練習を、できるだけ忘れずにやるようにしています。いつもうまく行くわけではないのですが…。

楽しみ方をマスターする

もしどうやってハッピーにしているかを知っていれば

あなたは悲しみのときをもたのしむことができるだろう

それは楽しむに値する

その中には何かがある

というのも

生の中に貴重でないものなど何ひとつないからだ

ただ、どうやってそれを楽しむかがわかればいいだけなのだ

by osho

↑これによると、悲しみであれ何であれ、それを楽しむことは可能なのだということですね。たとえ痛みであれ、どんなに苦手なことであっても…。

自分が苦手だと思っていることを挙げてみると、真っ先に浮かんだのがクルマの渋滞、あるいは行列の中で待つということ。

日曜日ともなると、事務所がある吉祥寺の街は人人人で溢れかえって、なおかつ猛暑の中であちこちのお店の前で行列ができているのです。

自分には到底耐えられないと思いながら、白目でちょろっと見てそこを通過するのが精一杯なのです。

いつ自分の番が回ってくるかもわからない行列を待ち続けることを、一体どうやったら楽しむことができるのかと考えて見ました。

きっとディズニーランドでアトラクションに並んでいる人は、平気で1時間2時間待てるのでしょう。

というよりも、待つことを楽しんでいるということかもしれません。初めてのデートで好きな人と待つのであれば、ちょっと気分が違うかもしれないですね。

この先に楽しみがあるから耐えられるという感覚よりも、それ自体を楽しむということの方が本質的な気がします。

ならば、どんなことであれそれ自体を楽しむということを意識的にやってみる、ということ自体を楽しむことができればいいのでしょうね。