自己否定を受容する

昨日のブログでは、自我を見守るというお話をしました。自我を見守る立場になることで、自我から離れて自我が持っているあらゆる苦悩から解放されるのです。

より具体的に言えば、世界で一番身近なこの自我の思い、気持ち、感情、その他の全てをつぶさに見るのです。

その嫉妬深さをみるのです。その愛嬌のなさ、その惨めさ、その意地汚さ、それが離そうとしない憎しみ、だらしなさ、くだらなさ、不機嫌さ等々。

そういったものをしっかりと見守るのです。特に自我がやっている自己否定、自己嫌悪、自分いじめ、そういったものを見守るのです。

これが一番重要かなと思っています。とにかく自我というのは、そういった否定的な部分がこれでもかとてんこ盛りなのです。

それはどうしようもないものと理解することで、ただ見守ることができるようになるはずです。

逆に、肯定的な部分や誇らしい部分もそれなりにあるのですが、それを褒めることはしません。それもただ見守るのです。

自我からの超越は、自我をどのようにも判断せず、裁かず、肯定も否定もせず、賛成も反対もせずに、ただ見守ることですね。

自我を超越する

昨日のブログでは、人生のあらゆる問題の根っことなる二元対立からどうすれば解放されるかということを書きました。

二元対立がなぜ問題を引き起こすことになるかというと、自我はそのどちらかを選択しようとするからなのです。

憎しみと愛なら愛を選ぼうとするし、怒りと慈悲であれば慈悲の方を選ぼうとするわけです。

ところが現実はどうかというと、憎しみの方を選んでしまうし、怒りの方を選んでしまうことが往々にして起きるのです。

これが問題となるわけです。選ぼうとした方を選ぶことができなかったという否定が入り込むからです。

私たちは思考が作り出した二元性の世界で暮らしているので、あらゆるところに二元対立が起きているのです。

その両方を受容すること。もしもあなたの身近に味方と敵がいるのであれば、味方を選ぶ代わりに、双方を受容するということ。

これが超越を起こすことになるのです。戦えば、必ず勝つことを選んでいるわけで、それでも負けることも起きるのです。

ここから解放される唯一の方法は、どちらも受容するということ。勝敗から解放されるためには、受容しかないということです。

自我と戦う代わりに、自我を受容することができれば、自我を超越することになり、生の問題は消えていくことになるのです。

自我を受容することでそれを超越する方法は、それを観照するということ。見守ることに徹するということ。これ以外にありませんね。

二元対立から解放される

月並みな表現ですが、怒りは悪いものだと思っている人いませんか?強欲もみっともないものだと思っていませんか?

逆に、慈悲深さは素晴らしいし、非暴力も良いものだと思っていませんか?その気持ちは充分に理解できます。

私自身の中にも同じように思ってるマインドの部分があるのを知っています。けれども、それだけではありません。

私の中のどこかには、これはもう非常に明確になっているのですが、そうした全てを善悪や美醜に分けて考えるのを、もうやめようぜという部分があるのです。

もう少し解像度を上げれば、悪いものと良いものがあると考えている部分についてもそれをそのまま受容するということです。

そうしなければ、またいつものように改善病にはまり込んでしまうからです。自我としての「私」が持っているものをそのままに見守るのです。

そうすると、自我からの距離を保つことができて、結果として善悪や美醜のようなあらゆる二元対立からも解放されることになるのです。

「私」を優しい眼差しで見守ることができるようになれば、解決しなければならないことが消えていくのが分かります。

習慣は人を無意識にさせる

私たちは「習慣」と共に生活しています。良い習慣もあれば、悪い習慣もあるのですが、習慣そのものについて深く考えたことはあまりないかもしれません。

早寝早起きを習慣にしている人もいれば、夜更かしを習慣にしている人もいますが、ここでの主題はどちらが健康にいいかと言うことではないのです。

習慣というのは、いちいち意識せずとも身体が勝手に動いてしまうということもありますね。

例えば、朝起きて歯ブラシを手に取って、歯磨き粉をつけて歯を磨くという動作をしているときに、どれほどの人が意識的であるのか?

毎朝の習慣になってしまっていると、完全に無意識状態で上手に歯を磨き終えることができてしまうのです。

もっともっと身近な例で言えば、歩くときに私たちはほとんど無意識で歩いていると思われます。

ひとりでに右足が前へ出て、そのあとすかさず左足が出るという具合に、完全に自動的に歩くことができるし、ほとんどがそのようにしているはずです。

ああ、今右足が前へ出た、今度は左足という具合に意識して歩いている人は少ないはずです。

このように習慣というのは、日常生活の上では非常に便利なものですが、その一方では意識的であることを忘れさせる大きな要因の一つになっているのです。

習慣そのものが悪いということではなく、どれほど習慣づいていたとしてもできる限り意識的であり続けるように訓練することが大切なことなのですね。

信頼により全体が味方だと気づく

宗教といえば信者さんがいるわけですが、信者というのは教祖や教壇のことを信じている人のことを言うわけですね。

信じなければ信者にはなれません。けれども、そこに信頼があるかどうかは全く別の話になるのです。

信じることと信頼することとは、ある意味次元が異なるくらいに違うものだと言ってもいいくらいなのです。

信じることはたやすいことです。なぜなら信じることで、もう思考停止状態になってその先のどんな検証も何もせずに済むからです。

自分に都合のいいことを言ったりやったりしてくれる人のことを私たちは信じてしまうのです。

だからこそ、その人が自分にとって都合の悪いことを言ったりしたりした場合には、あっという間にひっくり返って信じないと言う状態になるのです。

信じることと信じないことは、このようにしてコインの表と裏のように一対になっているのです。

それに対して、信頼はまるで別次元のようなものです。信頼には理由(思考)が必要ないのです。

都合の良し悪しも関係ないし、ただただ信頼するのです。だから自我からすると信頼は不思議なものに映るかもしれません。

どんな理由もないと言う点では、愛と同じようなものです。もしもこの生を信頼することができたら、一瞬にして全体が味方をしてくれていることに気づくようになるでしょうね。

自我を見守ると上手く行く

ちょうど5年前の2月1日に、突然ホームページが閲覧できなくなったことがあって、調べたら借りていたサーバーが使えなくなることを知らずにいたのです。

大慌てで別のサーバーを契約してホームページは閲覧できるようにしたのですが、アドレスが変わってしまったために皆さんからはホームページを探せなくなってしまったのです。

あんなことはもう二度と起こしたくないと思っていたのですが、今日ホームページの一部を改訂しようと思ってサーバーにアクセスしたところ、index ファイルが壊れてしまい、またもやホームページが閲覧できなくなってしまいました。

現在調査を依頼しているのですが、自分ではどうすることもできないのが何とももどかしいですね。おまけにコロナ禍で電話相談も不可。

考えてみると、2月の初旬はあまり良いことがないようです。22年前に癌の手術をしたのも2月7日でしたから。

私の自我の立場からすると、非常に嫌な感じが続いていて、きっと波動がずっしりと下がっているだろうなと思うのです。

こういう時こそ、自我をしっかり見守るという実践をして、その効果を実感する大切なチャンスだと思い直しているところです。

ホームページのトップのページからこのブログを読みにきて下さっている人は、ブログにもアクセスできないことになりますね。

ご面倒をおかけします…。

…と思ったら、ダメ元でipadにftpを入れて試して見たところ、復旧してくれました。助かった〜。

動物に自我はあるか?

ある人に動物にも自我(あるいは自我らしきもの?)があるのではないかと聞かれて、即答してしまったのですが、その人はどうも納得していない様子でした。

私の答えは明確で、人間以外の動物には自我はないというものです。そこで私なりに考えて見たのです。

なぜ動物にも自我があると思ってしまうのか?それは、賢い動物はまるで人間がするような反応をすることがあるからです。

イタズラをした犬を叱ると、ごめんなさいという表情をすることもあるし、僕やってないよととぼけた表情をすることもあります。

あるいは、ご主人様が帰宅すると待ち焦がれてたよ、と言わんばかりの動作をすることもあるし、出かけるときには行かないで、という態度を取るのです。

危ないところには近づかないし、ご主人様に自分以外の誰かが愛されている姿を見ると、嫉妬もするのです。

私は以前いとこの家に遊びに行ったときに、いとこと話に夢中になっていたら、ペットのワンちゃんが私のズボンの裾を噛んで、出ていけと引っ張られた経験があります。

オオカミに育てられた少年が保護されて、さまざまな研究対象になってしまったことがあって、そのときある実験をされたのです。

それは、何も悪いことをしていないのに、お仕置きと称して部屋に閉じ込めるのです。そのときにどんな反応をするのかを見るのです。

すると、悔しがって、僕は何も悪いことをしていないのにどうして閉じ込めるんだという表情をして訴えるのです。

それでも自我は育つことがなかったのです。生後数ヶ月から1、2年の大事な時期に自我を持つ人間に育ててもらわなければ、自我は永遠に造られないということです。

自我がなくても、まるで自我があるかのような言動はいくらでもできるのです。けれども、自我があることにはなりません。

自我の特徴は、どれほど少なくても目覚めた意識の状態を持っているということです。平たく言えば、自覚があるということですね。

自我という言葉の定義をもともと明確にしていなければ、動物に自我はあるか?の答えが一つにならないのも当然かもしれません。

一つのシーンから多くを読み解く

誰であれ子供の頃に親に叱られた、あるいは怒られた経験というのがあるはずですね。何処にでもある日常的に見られる風景ですね。

クライアントさんとの初回のセッションでは、大抵子供の頃に親に怒られたエピソードを思い出してもらうようにしています。

なぜかというと、親が子供を叱るシーンというのは、実に様々な親子の関係性を見せてくれる大事な情報だからなのです。

例えば、親は冷静に叱っているのか、あるいは単に怒りをぶつけているだけなのか。それだけでも親の精神状態を推し量る事ができます。

また子供の側に立った時に、怒られた理由が明確であって、怒られて当然と理解できている場合は、なんの問題もないのです。

逆に怒られた理由が分からない場合は、問題が出てきます。子供が正常に育っている場合であれば、理不尽に感じるでしょう。

けれども親が怒っているのだから、自分が悪いに違いないと思い込むなら、もうその時点でその子は病んでしまっているという事です。

このようにたった一つのエピソードを見せていただくだけで、そこから多くの事を読み取る事ができるのです。

もしも気になる事があるのであれば、子供の頃に怒られたシーンを思い出して分析してみる事をお勧めします。