自分の本質を探る

私たちは自分の本質について真実を知る必要があるのです。この自分とは身体なのか、あるいは心なのか、心のうちの考えが自分なのか、あるいは感情が自分なのか。

気持ちや気分といったものも自分に属していると感じているかもしれません。あるいは、そのどれでもない意識が本当の自分なのか。

精神世界に興味がある人は、自分は身体であるとは思っていないかもしれませんが、それでもまだ多くの人が自分は身体だという感覚を強く持っているはずです。

なぜなら、「私」という自我が生み出されるときに、身体が大きな役割を担った時期があるからです。

人から見られる対象はいつも自分の身体だし、親の愛情表現として抱きしめてもらうのだって具体的には身体だったわけです。

だから「自分=身体」という感覚が強烈に植え付けられたとしても、何ら不思議なことではないと分かります。

ところが、成長するにつれて色々なことを考えるようになるにつれて、考えているのが自分なのではないかと思うようになるのです。

いくら身体がいつも身近にあっても、考えることを抜きに自分が存在するとは思えなくなるのです。

そうして、「自分=考える存在」という感覚が身体に代わって大きくなるのですね。つまり、肉体的な物質的なものというよりも、目には見えない精神的な存在だというわけです。

ところがまだ先があったのです。もしも自分が考える存在であるなら、瞑想などによって思考が消えてしまったら、自分も消えてしまうことになります。

確かに、深い瞑想状態においては「私」という自我は用をなさなくなります。けれども、それでも残っている何かがあることに気づけます。

それが意識なのですね。考える存在である自我が消えた後に残るもの、それこそが意識としての自分の本質だと言えるのです。

自分のことを人間だと信じているのは自我であり、そのバックに在る意識こそが本質だと気づくことで、何かが大きく違ってくるはずなのです。

なぜなら、自分は身体でもなく、人間でもなく、心でもないということになるのですから、この世界の見え方も変わらざるを得ないですね。