「信頼」の入手法

昨日のブログでは、苦しみから解放されるために最も必要となるものは、「信頼」であるということを書きました。

自分が毎日生きているこの生とそのバックにある見えざる何かを信頼することで、起きてくることを判別することなく受容できるようになるということ。

受容してしまえば、つまり拒絶したりそれと闘ったりせず、逃げずに向き合うことができるようになるので、苦しみからは遠ざかることになるのです。

それでは肝心の信頼を入手するためにはどうしたらいいのかについて、私なりの考えを述べてみたいと思います。

信頼への道の大前提として、自分という存在をできる限り研究する必要があるということ。

外側に広がるこの世界をどれほど探求しても、信頼はやってくることがないということに気づくことです。

信頼は外からやってくるのではなく、自分の内側に湧き出てくるものだからです。従って、日夜、自分を見ることを続けること。

自分とは本当は誰なのか、あるいは何なのか。ある時突然この世に産まれ出て、しばらく生きてただ死んでいく儚いものなのかどうか。

自分は一人の人間として生活してはいるけれど、その正体は身体なのか、あるいは思考なのか、それとも意識なのか。

私の場合は、本当の自分に一番近いのは意識だろうという判断のもと、意識的であることで自分の本質に気づけるのではないかと考えたのですね。

そして私の意識のバックには、全体性としての無限大の意識があり、私の意識はそれとつながっているという感覚に気づいたのです。

内面を静寂が占めている時、この感覚がやってきてくれるとそこからものすごく大きな信頼もやってきてくれる感じがするのです。

まだまだこの感覚は普段は忘れがちなのですが、少しずつ自分の中で大きくしていけたら、もっともっとどっしりとした信頼が定着してくれるのではないかと思っています。

「信頼」こそが一番大切

私たちの苦しみの多くがどこからやって来るのかというのをしっかり見据えることはとても大切なことだと思います。

なぜなら、闇雲にその苦しみから逃れようとしたところで、決して成功するはずもないからです。

苦しみの原因がわかれば、それを何とかすれば言い訳です。苦しみは都合のいいことと都合の悪いことを区別することから起きてきます。

つまりは、都合の悪いことがやって来るからこそ苦しむのであって、都合のいいことばかりが起きるのであれば、苦しむ人はいなくなるはずです。

当たり前のことではあるのですが、都合の悪いことを誰もが拒絶しているということです。もしも、拒絶をしないのであれば、苦しみは起きません。

ということは、都合の悪いことがやってきたとしても、それを拒絶し、否定し、逃亡するということをしないでいられればいいのです。

都合の悪いことと戦わずにいるためには、それを受け入れる、あるいは受容するということです。

では、都合の悪いことを受容するためにはどうすればいいか?私たちが大きな勇気を持っているなら、それが可能なはずです。勇気は逃げずに向き合うことを手助けしてくれます。

けれども、もっと大切なことがあります。それは大きな勇気を持っていなくても受容する方法があるのです。それが「信頼」ですね。

ここまできて、やっと話しが見えてきたのですが、苦しみから逃れるためには「信頼」があればいいということになります。

目に見えないこの世界のバックに在る、神でも全体でもどんな呼び方でも構いませんが、それを信頼するのです。

そうすると、勇気がなくても都合の悪いことを受容することがたやすくなるのです。その結果、苦しみから解放されるということになるのですね。

この、「信頼」が一番大切だし、最も必要なものだということを深く理解することが、大きな助けになるはずです。

正しさを教える困った親

大切な我が子に、自分達の正しさを教え込もうと頑張る真面目な親が、思いの外たくさんいることをこの仕事をするようになって知りました。

親自身が正しさを身にまとって生きてきたので、子供にもそれを伝えて間違った人生にならないようにということなのでしょう。

子供が未成年の間は、しっかりと正しさで躾をして、場合によってその正しさの枠から外れるなら愛の鞭と称して怒りをぶつけるのです。

子供の側は親が怖いというのと、親が正しいに違いないという洗脳によって、自己表現も抑え込まれることになるのです。

子供は自分が怒りを感じたり、言いたいことがあるということ自体を否定してしまうのです。この否定は子供の中に作られた親2世がやるのです。

親は自分の正しさの中にいてくれさえすれば子供を可愛がるのですが、正しさから逸脱しようものなら、徹底的に否定するのです。これはペットと同じ扱いです。

そして子供が成人すると、これも親の正しさからなのですが、今度は急に子供を大人扱いするようになって、自由に生きろ!と言い出すのです。

未成年の間ずっと親の正しさの中でコントロールされてきた子供が、いくら20歳になったからといって、自由に生きていけるはずもないのです。

子供は親によって自由を与えてもらえずにいたので、自由のなんたるかを知らずにきてしまったのです。そうすると、親はそのことも責めるようになるのです。

親の身勝手さにも程がありますね。非常に面倒なことに、そうした親は自分が正しく子育てをしてきたと信じていることが多く、その場合には早めに親から離れることが必要ですね。

自分を楽しむ人生

昨日のブログでは、防衛が小さい人ほど人生を楽しんでいる、あるいは楽しもうとしている、ということをお話ししました。

ところで人生を楽しむと言っても、具体的にはどういうことかを少し細かくみていくと、大きく二つに分かれることに気づきます。

一つ目は、楽しいことを自分に体験させてあげることです。映画を観る、デートをする、友人たちと飲食をする、カラオケに行ったりライブに行ったり。

家族旅行に行ったり、趣味に励んだり、要するに自分の外側に楽しそうなことがあって、それを経験することで楽しい人生を生きるということです。

それに対して二つ目は、楽しむターゲットを自分にするということです。こちらは少し説明が必要かもしれません。

楽しむ題材が自分自身なわけですから、自分を見て楽しむもう一人の自分がいるということですね。

例えば私の場合で言うと、バリバリのエンジニアだった会社員生活から突然のようにセラピストになったりして、その変化の有り様を見て楽しんでいる自分がいるのです。

つまり自分を楽しむと言うのは、やはり意識を自分に向けると言うことが絶対的に必要ということになります。

この二つ目の楽しみ方を覚えると、自動的に視線が内向きになって来るので、一石二鳥のご利益がありますね。ぜひ試してみてください。

自己防衛の大小の違い

毎度繰返しになるのですが、自我というのはその素性からして自己防衛をし続けることで自らの存在を安定させようとするのです。

従って、自己防衛を全くしない人はいないのです。人による違いは、その自己防衛の強弱(あるいは大小)があるということです。

自己防衛の強い(あるいは大きい)人は生き方が固定していて、それはどうしたら安心できるのかということを絶えず求めているのです。

安心しようとして、正しいか正しくないか、あるいは勝つか負けるかのようなことにばかり目を向けてしまうことになるのです。

正しさをまとうことで自分を守れると思っているし、勝負に勝つことで同じようにして自分を守れると信じているのです。

一方で、自己防衛の弱い(あるいは小さい)人は、楽しいか楽しくないか、自由か自由でないかなどに目が向くのです。

自由で自然で楽しければ、安心しようとすることは2の次3の次という生き方になるわけです。

多くの人は、自己防衛の強弱の中間的なところで生きているのですが、セッションに来られるクライアントさんは、往々にして自己防衛が強い状態に近いでしょうね。

結局癒しというのは、自己防衛をより小さく、より弱くしていくことでしかないのです。シンプルに、楽しい人生を生きようと決意すれば、自動的に防衛は小さくなるはずですね。

他者の為にも自分を満たす必要がある

先日、動画サイトのお勧めに上がってきたとある動画を観たのですが、これがどうしてどうして泣けてくる内容でした。

明日にでも殺処分になるという保護犬を見に行って、その中の一匹を引き取る事になるのですが、その犬の怯え切った姿があまりにも痛々しいのです。

檻の一番奥の隅で全身で震えながら、頭を深く垂れて上目使いで、何とも頼りなく悲しそうにこちらを見ているのです。

ところが不思議なことに、飼い主さんが連れて来た一匹のワンちゃんを見るなり、檻の柵のところまで寄ってきて、二匹が鼻と鼻をくっ付け合ったりするのです。

飼い主さんは、この子を連れて帰れということなんだね、と飼い犬ちゃんの気持ちを察してあげるのです。

ちなみにその飼い犬ちゃんも、かつて殺処分になるところを救ってもらった元保護犬なんだそうですが、今では幸せいっぱいに暮らしている事が伝わってきます。

引き取って数ヶ月が経ち、新入りの方のワンちゃんが、次第に慣れて来てようやく散歩ができるようになってきたのですが、いざ身体にハーネスをつけようとすると、急に怯えてしまうのです。

散歩に行くことは喜んでいるのに、どうしてもハーネスが怖くて、震えて逃げてしまうので、飼い主さんも困ってしまうのです。

きっと何か身体を縛られるような辛い体験をしたのでしょうね。それがトラウマになってしまっていて、ワンちゃん自身もどうにもならないのです。

それを見ていたもう一匹の先輩のワンちゃんが、「この子は怖がっているから代わりにそのハーネスは僕がつけるよ」、とばかりに飼い主さんの手にあるハーネスの中に自分の頭を突っ込んでくるのです。

そんなことってあるんだろうか?飼い主さんに「あなたは自分のハーネス付けてるからいいの」とはずされても、しばらくするとまたハーネスに頭を入れようとするのです。

「代わりに僕がつけるから、怖がっているこの子を許してあげて」と一生懸命身体で訴えているのでしょうね。

こうした他者に対する優しさというのは、きっと人間だろうとその他の動物であろうと本来持っているものなのですね。

但し、それを使えるのは自分自身がある程度満たされている必要があるのだろうと思います。だとすると、私たちは自分のためにも他者のためにも、自分を満たしてあげる必要があるということですね。

自己防衛を忘れるとき

20数年前のことですが、東京狭山市の入間基地に戻ろうとしていた自衛隊の練習用ジェット機が墜落した事件がありました。

操縦していた二人は、相当地位の高いベテランのパイロットだったのですが、脱出を試みたにも関わらず助からなかったのです。

事故を詳細に調査した結果分かったことは、二人はもっと高度の高いところで脱出することもできたのに、わざと遅らせたらしいのです。

なぜなら、その墜落現場周辺は入間川の河川敷近くで、家屋や学校が密集している地域だったのだそうです。

そこで墜落させるわけにはいかないと思って、自分達が助からないことを覚悟の上で高圧線にぶつかるような超低空で河川敷に接近したらしいのです。

ジェット機を墜落させても大丈夫なところまで操縦した上で、ほんの少しの可能性に賭けたということですね。

つまりは、自分達の命よりも周辺住民の命を守ることを優先したわけです。どれほど訓練していたとしても、本当にそんな犠牲的行動を取れるのか?

私は人間とは本来そういう生き物であるように感じています。追い詰められた究極の状態では、自分の本質である愛が発動するのだと。

普段の自己防衛を忘れてしまうとき、その時こそ真の自分のエネルギー、つまりは愛が発動するように、私たちは作られているということですね。

死という超常現象を見届けたい

私が10代の頃ですが、ユリゲラーという超能力者がやってきて、テレビで盛んにスプーン曲げを披露して見せたものでした。

そういう類の話にとても興味があって、UFO や宇宙人を扱っている番組もとても楽しみに観ていました。

いわゆる超能力とか、超常現象といった普通ではありえないような出来事や奇跡と呼ばれるようなことに、惹かれるものがありましたね。

物理学的なことにも興味があったのですが、同時に非科学的なことを疑うことなく楽しむことができていました。

そして今はどうかというと、一番興味深く見ているのは死ぬということです。死というのは、一種の超常現象だと思うからです。

その最も魅力的な超常現象である死を体験するのに、それを自覚できずに通り過ぎてしまったとしたら、これほど残念なことはありません。

ちょうど素晴らしいUFO と遭遇しているのに、居眠りをしていて気づかなかったというのと同じだからです。

一生で一番貴重な体験を見逃さないようにするためには、普段から意識的であることを練習しておく必要があるのです。

そうしておけば、いざ死にゆくときにもしっかりと意識を持ったまま、眠りこけたり危篤になったりせずに死を通過する様を見届けることができるはずです。

だから今日も何をしていようとも、意識的であろうとする練習をしつつ、眠りにつこうと思います。

分裂&成りすまし

このブログ内において、「親2世」で検索すると、過去に書いた3つの記事が出てきます。何のことなのか、ご興味があれば是非検索してみてください。

ところで、この「親2世」が作られる幾つかの理由の中で、最も強力で圧倒的な力を持つのは何かというと、「分裂&成りすまし」なのです。

理屈は至って簡単です。例えば、イジメに遭っている子がそのイジメから脱出するために取る方法として、イジメる側に回るというのがありますね。

それと同じことを自分自身で、つまりは一人二役でやるのです。一人二役なので、自分という一人を二つに分裂するのです。

そうして、片方をイジメられているままの自分として残しておいて、もう一方の自分がイジメる側に回る(成りすます)ということです。

こうして自分一人の中で、イジメられる子とイジメる側の子とに分かれてしまうのです。もちろん人生の主役は、イジメる側の自分にします。

イジメられる自分は都合が悪いので、無意識の中へと抑圧してしまうわけです。こうして◯◯2世が誕生するのです。

◯◯の中には、あらゆる人物が入ります。親でもいいし、父、母、兄、姉、その他全ての自分を否定したり裁いたりイジメたりしてきた人物です。

大人になっても自分をずっと酷く否定しているなら、幼い頃に作り上げた◯◯2世と一体となって生活していることを物語っているのです。

癒しを進めていって、2世との距離を取ることができるようになったら、かつて分離されて潜在意識の中に抑圧されてしまった、あの可哀想な子と会える時がやってくるでしょうね。

そうなったら、否定的な自己イメージは小さくなって、あるがままの自分を丸ごと認めることができるようになるはずです。

遠心的 or 求心的?

感度の良し悪しはあるにしても、私たちは誰もがアンテナを持っています。それは、外向きに情報をキャッチするためのアンテナです。

視覚は外側にあるものを見、聴覚も外側からやってくる音を拾い、嗅覚も触覚も味覚も全ては外向きのアンテナです。

そのように生まれながらにできているので、知らず知らずのうちに外側からやってくるさまざまな情報を収集することを当然のこととしているのです。

そしてそれに連動するように、内側で作られたあらゆる思いや感情を外向きに放出するのです。つまりは、遠心的な流れができてくるのです。

ところが、どうしたわけか人によっては遠心的だったエネルギーの流れを内向きに変えて、求心的になることがあるのです。

この変化がとてもとても大切なのです。充分に意識的になっていくことで、エネルギーの向きが求心的になるのです。

あらゆるものが内側へと吸収されるようになるのです。そうなったら、そこに個人はいません。

全体性が入り込んでくるのに、個人などはお門違いもいいところ。その結果、誰もいないということに気づくようになるのですね。