逆らわないように生きる

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。何か凄く有難い言葉のように感じるかもしれません。

けれども、頑張ったおかげで幸せになるということはありません。それは一つの幻想に過ぎないのです。

自分が頑張れば、その頑張った分だけ何か良いことが起きると思えば、どこまでも頑張ろうとしてしまうのです。

私の最近の生き方は全く逆かもしれません。やれることはやる、やれないことはやらずに済ます。

お腹が空いたら食べる。空かなければ、なるべく食べない。眠くなったら我慢せずに寝てしまう。

つまり、逆らわないように生きるということです。人事を尽くしたと思っても、世界が提供する結果はまた別のもの。

そうでなければ、我々は自分の頑張りのおかげで何かを変えることができると信じてしまいます。

これは非常に危険です。この生き方を続けていくと、気付かぬうちにとんでもない荷物を背負い込むことになってしまうのです。

頑張る代わりに、世界の自然な流れに逆らわないように自然体で生きること。これが今一番のお勧めですね。

苦しみも執着の対象になる

仏教では、我々の苦しみの根源は何かに執着することだと言っているらしいですね。それは、最もなことだと思うのです。

どんなことでも、どうでもいいと思うなら、どうなろうと苦しむ理由が無くなってしまうからです。

ところで、執着という言葉から連想されるのは、何かを絶対に欲しいと思っていたり、あるいはそれを手に入れた時に決して無くしたくないと思うこと。

つまり自分にとって欲しいもの、都合のいいものに対しての執着をイメージするのですが、実はその逆の場合もあるのです。

例えば、私たちは都合の悪いもの、苦しみなどは排除したいと願いこそすれ、それに執着するなどとは思えないわけです。

けれども、実際には苦しみも執着の対象になり得るということです。それは一体どういう心の仕組みなのでしょう?

例えば、子供の頃に親から虐待されたとしたら、そんな都合の悪いことは一刻も早く手放してしまいたいと願うはず。

ところが実際には、虐待されて少しも反抗できなかった悔しさや辛さを握りしめているのです。

その時の苦しい感情、怒り、悔しさ、悲しみなどをおいそれと簡単になかったものになどしたくないのです。

簡単に言えば、その満たされない気持ちを握りしめておいて、いつかチャンスがあれば晴らしたいと願うのです。

そうやって苦しみも執着の対象となってしまうということです。インナーチャイルドが握りしめている感情はまさにこれなのです。

ここを癒していくことなしに、仕返しができない状態のままでは、死ぬまでその苦しみと共に生きていく羽目になるのですね。

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知りたい、分かりたい、を諦める

我々人間に特有の欲望かもしれませんが、とにかく知りたい、分かりたい、が強くあるのですね。

それを知識欲と呼べば、そのおかげで人は成長していくこともできるのですが、実はこの欲望は何から生まれるのかというと。

それは、分離感からやってくるのです。個人として広大な世界から分離してしまった自分に残されたのが欠乏感なのです。

この欠乏感を補おうとして、外側から足りないものを手に入れようと頑張るわけです。そしてそれには終わりがありません。

なぜなら、欠乏感は分離しているという妄想からやってくるからです。つまりは、個人として生きている限り、不足感は消えないのです。

そして、知りたい、分かりたい、という欲望の一つの形として探究があります。非二元の探究も結局はこうした欠乏感からやってくるのです。

だから探究を続ける限りは、分離の世界、つまりはこの二元の世界から抜けることはできないのです。

もしかすると、どんな探求もその探求自体が邪魔をすることになるという、どうしようもないパラドックスに気づくためにあるのかなと。

コントロールできないものを放っておく

今朝遅く、家を出る時にはもう雨は止んでいたので、ラッキーと思いながらクルマで事務所に向かったのです。

事務所側の駐車場に着いて、クルマのドアを開けた瞬間に、待ってましたとばかりに雨が降り出したのです。

そんなイジワルってないだろう?と思いながら、常備していた日傘をさして早足に事務所に向かったのです。

その駐車場から事務所までは、歩いて5、6分かかるし、結構な雨足と風の勢いで、靴は濡れてしまうし、吹き付ける雨のために肩掛けバッグも濡れるしで、散々。

事務所に着いて、いったいなんだったんだろう?とひとしきりそのタイミングの悪さに悪態をついていたのです。

ところが、いや待てよと。もしも、歩いている途中で急に雨が降り出したなら、もっと大変なことになってたなと。

引き返して日傘を取りに行くのも嫌だし、かと言ってそのまま事務所に向かえば、全身が濡れてしまうことになると。

そう考えた時に、ああ、あれはあれで良かったのかもしれないと思ったのですね。

要するに、全てはどう考えるかで決まるのです。そして、最終的には何も問題はなかったということです。

そもそも、全くコントロールの効かない空模様に対して、ああでもないこうでもないと不満を感じることが馬鹿馬鹿しいことだなと。

やっぱりコントロールできないことに対しても、それなりの期待値があってそれが期待通りにいかないと不満が噴出するわけです。

ということは、コントロールできない事柄に対して、期待を持つということが間違っていると気づけばいいということですね。

本当の自由に気づくには

昨日のブログでは、何かと不自由さを抱えていた子供の頃から大人になって、いろいろなことができるようになったのですが、未だにまだ不自由さを感じているということを書きました。

最近特に、本当の意味ではまだ自分は自由になってはいないということを、つくづく感じるようになったのです。

欲しいものを手に入れて、好きなように生きているはずなのですが、どこかで制限を受けているような感覚があるのです。

その正体を暴こうとしたのですが、自分で自分を縛っているということは明白なのです。なぜなら、誰からも制限を受けているとは思えないからですね。

となると、この問題はかなり厄介です。そして、実はどこまで行っても真の自由を得ることは逆に不可能なのではないかと。

それは、人生で起こることを100%コントロールできないからです。100%どころか、実は全くコントロール不能なのだろうと。

コントロール可能だと思っていれば、コントロールができないと分かればそれは不自由極まりないのは当たり前のこと。

であるなら、あとは簡単。コントロール可能だという偽りの思い込みに気付いて、それを訂正すること。

本来は何もコントロールなどできないと見抜くことさえできれば、あり得ないくらいの自由の中に初めからいたことに気づくのでしょうね。

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本当の自由にはまだ遠い

子供の頃は、財布も何も持たずに外に行っていました。小遣い制ではなかったので、お金を持つ機会がなかったからです。

それでも別に不自由を感じていたということもなかったのですが、中学生くらいになった時に初めてお金を持って外出したいと思ったのです。

それで何の用事もないのに、小銭を持って自転車で出掛けて、自宅から少し離れたところに小さなお店を見つけて、そこでコーヒー牛乳を買って飲んだのです。

特別喉が渇いていたわけでもないのですが、自分はいつでも好きな時にフラッと立ち寄ったお店で買い物ができるんだと。

そういうちょっとした大人の気分を味わいたかったのでしょうね。だから、そのあとはそう言ったことは一度もやりませんでした。

あと、中学3年生の時に、初めて一人で池袋まで出掛けて、デパートでちょっとお高めな靴を買って、そのあとレストラン街でグラタンを食べて帰ってきたことがありました。

今でも覚えているということは、これもやはり自分が大人のような自由を得た印象深い体験だったのかもしれません。

そうやってできなかったことができるようになって、少しずつ自由を得ていくわけです。

ところが、そういったことがなんでもできるようになった今でも、なんとなくの不自由さを抱えているのです。

それは何らかのルールや常識に制限されているような感覚なのか、その辺のことは定かではないのですが。

一つ言えることは、より自由になろうとして大人になってはみたものの、やはり自分が思っていたような自由にはまだ到達していないという感じがあるのですね。

明日に続く

感覚は変容しない

一昨日のブログで、私たちの認識の仕方、特に視覚による物の見方には特徴があって、そのおかげで普段の生活ができるということを書きました。

本当にただあるがままを見るのであれば、そこにモノという存在を認識することは難しくなってしまうのです。

視覚の中に現れている色の変化を輪郭として判断するという機能によって、モノの形を捉えることができるのですから。

これは二元の世界で言えば、私たちの脳の働きによるものだとも言えますね。特にそれは左脳の機能であることが分かっています。

よく聞かれる非二元への質問としてあるのは、非二元に気づくと世界はどのように見えるようになるのか?というのがあります。

世界が物質と空間でできているという嘘を暴き、単なる現象の現れに過ぎないと気づくと、見え方はどうなるのか?

実は非二元に気付いたとしても、私たちの感覚は何も変わらないのです。急にモノがなくなったように見えるということは起きません。

空間がないと気付いても、視覚に奥行きがなくなってしまうわけでもないのです。

ただし、その変わらない感覚の中で、同時にやってくるものがないわけでもありません。今はこれ以外の表現ができないのが残念。

自由に生きるにかぎる 

父親の実家が千葉県にあって、東京の我が家からそれほど遠いということもなかったので、ちょっと長いお休みがあると家族で遊びに行っていたのです。

田舎ということもあって、広大な敷地の中で自由に遊ぶのがことのほか楽しかったのを覚えています。

今ではとても考えられないような危ない遊びをたくさんしましたね。例えば、空気銃を実際に弾を込めて撃ってみたり。

空気銃と言っても、人に当たったら大怪我するようなものですから、小学生の自分が扱うには危険過ぎました。

また、その家には50ccのカブと言われる原付二輪バイクがあって、最初は敷地内を走って遊んでいたのですが。

そのうちには飽きてきて、公道を走ってそのカブで買い物に行ったりしていました。小学5、6年の頃ですよ。

大人がたくさん周りにいたのに、私の両親も含めて誰も本気では注意しないのがびっくりです。

あるいは、父親の母校の校庭でクルマの運転の練習をさせてもらったこともありました。これも小学生の頃です。

父親が助手席に乗って、細心の注意を払って補助してくれていたのは勿論ですが、今ではあり得ないですね。

こういうことを思い出してみると、うちの親というのは私を甘々に育ててくれたのかなと。

なので、私自身も自分の子供たちが小さい時に、一切の制限をしたことがありません。なんでもやっていいよと。

大抵のことは大目に見ていたと思います。人間の心というのは、抑圧されたものはいつか必ず仕返しにやってくるものです。

だから、いつどんな時だってあなたの好きなことを自由に思い切りやってみることをお勧めしますね。

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認識の嘘を暴く

横に一本直線を描いてみると、その線の上と下が分たれたような印象を受けるのです。

あるいは、縦に直線を引いてみると、今度はその線の右側と左側に領域が分割されたように感じるわけです。

また、円を一つ描いてみると、その円の内側と外側という具合に面がはっきりと分かれます。

けれども、こうした感覚というのは単なる感覚であって、実際にはそうしたことは起きてないのは明らかですね。

この感覚があるおかげで、私たちはあらゆるモノの形というものを認識できるのです。

逆にもしもこの感覚がなくなったとしたら、何を見ていいのか分からない状態になってしまうはずです。

この二元の世界、分離の世界で生きるためには、こうした特別な能力が必要となるのです。

ただし、それはただあるがままをそのままに認識することができないとも言えるわけです。

非二元の立場に立つとは、こうした認識の嘘を暴いていくことをやっているだけなのですね。

自分が消えれば世界も消える 

人生というのは、生まれた時からずっと何が起こるか分からないし、誰も何も保証してはくれないのです。

確実なことは全くなくて、明日がどうなるのかを知っている人は一人もいないというのも事実です。

そんな中で、たった一つだけ絶対的に確実なことがあるのです。それは、必ずいつかは死を迎えるということ。

つまり、生まれた瞬間から、1日また1日と死に向かって進んでいっているということです。

それなのに、これまでいつだって死が訪れたのは自分以外の誰かにだったので、自分はまだ死なないのだと。

けれども、この死ぬことを忘れて生きるということができるのは、若い頃だけなのかもしれません。

私のように、残り時間の方が圧倒的に少なくなったと感じるようになれば、いつだって死は身近なものとして感じるようになるのです。

まだやり残したことがあるとか、もっともっと何かを楽しみたい、などがないので、そういう意味では死に対して抵抗する気持ちは少ないのかなと。

それに最近では、自分が死を迎えたとしたら、同時にこの世界も消えていくだろうと思えるので、それも気持ちが穏やかでいられる助けになっていますね。