体験を見守るもの

昨日のブログでは、知識よりも体験であり、さらには体験よりも深い理解ができればいいというお話をしました。

そして実はその先もあるのです。体験がどれほど知識に比べて貴重であるとしても、どんな体験もそれはすぐに過去のものになってしまうのです。

つまり体験が起きて、それが去っていく。この繰り返しでしかないという当たり前の話ですが、過去は記憶というイメージ(思考)に変換されてしまいます。

体験がどれほど強烈なインパクトを与えるものであったとしても、所詮は過ぎ去ってしまうものなので、それは消えていく運命にあるのです。

それなら一体何が本質的なものなのだろうというと、一過性ではないもの。つまりは、体験がやって来ては去っていくその全てを見るもの。

それは自我という体験者ではありません。自分こそが体験者だと信じている「私」という自我も、いずれはこの世を去っていくのです。

体験者というのは一つの幻想であり、ただ体験が起きると捉えるとよりシンプルになりますね。

そしてその体験を見守るものこそが永遠のものであり、それだけが実在であるという理解です。この感覚は自我を溶かしていってくれる感じがしますね。