概念は思考の作り物

このブログの初期の頃の記事を読んでいる方はご存知かも知れませんが、以前私は「奇跡のコース」という本を勉強していました。

月に一回勉強会を開いて、みんなで一緒に学ぶということを続けていました。そのころは強くこの本の内容に傾倒していたからです。

その本の大きなテーマの一つに、「罪はない」というのがあるのですが、それは罪を赦すというのとは違うのです。

本の中では「赦し」がテーマのようにされていますが、実際は罪など元々ないので赦す必要もないということだったと思います。

今考えてみると、それは自分の中では当たり前のことになっています。なぜなら、罪というのは単なる概念であり、つまりは思考が作り出したものだから。

罪以外にも思考によって作り出したもので私たちが大切にしている概念は、たとえば「意味」、「価値」、「善悪」、「正不正」などがありますね。

そうしたものは思考が考え出したものなので単なるイメージなのですが、だからと言って都合よく無視していいということではないのです。

なぜならそのような概念にどっぷり嵌りこんで生きているのが自我だからです。実際のところ、無視できるようなレベルではなくなっているのです。

だからそうした概念は実在するものではないことを忘れずに、ただ見守って飲みこまれずにいるという態度が大切なのだろうなと思うのです。

「分離」を見破る

私たちはこの世界を分離という概念によって見ています。あらゆるものが個別に存在していると感じるのです。

それは、自分という存在がそもそも個人であると思い込んでいるために起こる、妄想に過ぎません。

思い込みということは思考なのです。だからその思考が停止してしまえば、一瞬にして分離は消えてなくなります。

それが全体性と私が呼んでいるものです。その全体性を感じると言っても、五感を使っているわけではないので、何とも表現ができないわけです。

言ってみれば、一人称でも二人称でもない、これとかあれのように指差すことができない、そういう世界。

思考さえなくなれば、すぐさまその世界に戻ることができるので、この全体性こそが真実の姿だということが分かります。

ところがそこに戻らないように必死に抵抗しているのが自我なのです。それはそうでしょう、全体性(真実)の中では自我はその存在の虚偽性がバレてしまうから。

そして私たちはその自我こそが自分なのだと信じて疑わないのです。こうしたことを腹の底から見破れるなら、生と死が一つとなる非二元の世界が現れてくるのでしょうね。 

自分の事を他人事のように見る

母親が子供に絶対言ってはいけない言葉というのがあります。子供がそれを聞くと、自分という存在を否定することになるような言葉です。

たとえば、産まなければよかった、いらない子、男の子(女の子)が欲しかったのに、産んだせいでこんな目に遭った等々。

上記のような発言をする親はもしかすると少ないかも知れませんが、それに準ずるような言葉や態度をする親は少なからずいるものです。

幼い頃のそうした体験というのは、いつまでもマインドの奥にあって、生きる土台となっているのです。

もちろん他人の事として見れば、親の心が病んでいたせいでそんなひどいことを言われたけれど、その子には何の罪もない、という理解はできるのです。

けれども、それが自分自身のこととなると様相が変わってきます。というのも、子供の頃に作ってしまった自己イメージが岩よりも堅い信念として残るからです。

大人の理性と子供の信念では、後者の方が圧倒的に強い力を持っているため、いくら理性を働かせて公正に判断しようとしてもダメなのです。

自分のことを客観的に見ることが難しいのは、そうした理由があったということですね。

何につけても、自分のことを客観的に、あるいは他人事としてみることができるようになるまで、癒しは必要だということを忘れないことです。

本質への信頼を育てる

子供の頃の記憶ですが、何かが欲しいとなったら物凄く欲しがる子供だったようで、親は面倒臭かったでしょうね。

たとえば覚えているのですが、自転車が欲しいとなったらずっとそれを思っていて、夜寝るときには必ず自転車のカタログを眺めてから寝るのです。

流石にそれをずっと続けているのを見ている親が、若干不憫に思ってくれて仕方ないので買ってあげようかという気になるのです。

そうやってどうにかこうにかして、最終的には欲しいものを手に入れるわけです。その傾向は大人になっても残っているようで。

自分のこれまでの人生を思い返してみると、なんだかんだで欲しいものは手に入れてきたように思うのです。

ところがこの仕事をするようになって、どうやら欲しいものが手に入ったところで幸せにはなれないということに、気づいてしまったのです。

満足している期間が非常に短くなってしまって、そのあとは特別変わったこともなく、しばらくするとまた欲しいものがやってくるのを繰り返すだけ。

こうなると、私の自我はだいぶ追い詰められた状態になってきています。期待することができなくて、要するに絶望するしか残っていないのです。

あとできることといえば、自我の奥に潜んでいる自分の本質への信頼を大きく育てていくということなのかも知れませんね。

クライアントさんとの信頼関係

子供の頃の記憶ですが、各クラスに一人くらいは注射を異常に怖がる子がいましたね。普段はごく普通の子なのですが、注射となると大泣きしてしまうのです。

幼い子供は、とにかく自分が痛がるようなことをしてくる大人は怖い人と思ってしまうものです。

そうなると、もう白衣を着た人を見ただけで怖い、悪い人だと決めつけて泣いて嫌がることにもなるのです。

だから病院や歯医者さんではいつも幼い子の必死の泣き声が聞こえてくるのですね。可哀想ですが仕方がありません。

我が子が危険なおもちゃで遊んでいたら、親は当然それを取り上げることになりますが、そんな時にも子供は必死で抵抗してくるはずです。

こうしたことは、クライアントさんとのセッションにおいても起きる可能性があるのです。それは、セラピストとクライアントさんでは見ているところが異なる場合があるからです。

セラピストの仕事は、クライアントさんに気づいてもらうこと。辛いかも知れないけれど、これまで見ないようにしてきたところを見てもらうこと。

だから当然クライアントさんは抵抗するだろうし、嫌な気持ちにもなるのです。否定されたように感じることもあるかも知れません。

プライドを傷つけられたと思うこともあるかも知れません。けれども、危険なおもちゃを取り上げる親の気持ちと同じなのです。

セラピストは、たとえクライアントさんから一時的には嫌われても、あるいは否定されても構わないという覚悟をしています。

耳障りのいい言葉を言っているだけでは、クライアントさんにとって新しい気づきや発見をすることができないからですね。

癒しを目的としたセッションとは、そうしたことがいつも起きています。これを乗り越えるためには、やはり互いの信頼関係がとても大切な要素になってくるのですね。

自然体で生きる

私たちは自然が好きです。この場合の自然というのは、空や海のような大自然を指すこともあるし、自然体のような状態を意味することもあります。

自然体でいるというのは、人為的なものや強制を排除して、ただあるがままでいるというような意味ですね。

緊張して身体のあちこちに力が入ってしまったり、引きつったような作り笑いをするのは不自然な感じがしてしまいます。

自然体でいられない理由は様々あるのですが、その一つが心理的自己防衛です。いつも怒鳴られている親の前に来ると、緊張してしまうとか。

ただし、高いところに連れて行かれて身体が震えてしまうのは、防衛本能なので不自然ではないと考えられます。

偏った考え方が原因となって自然体でいられないという場合もあります。例えば、親に逆らってはいけないというルール、あるいは正しさを信念にしてしまった場合。

その子の生き方はもう決して自然体ではいられなくなってしまいます。当然無邪気さなどは真っ先に使えなくなってしまうでしょう。

もっと居心地のいい人生にしたいと願っているなら、自分がどれだけ自然体でいることから離れて、不自然な人生を生きているのかを見ることです。

そしてその原因を暴き出して、癒しを進め少しでも自然体に近づけるようにすることですね。

ただ真実だけが在る

愛と恐怖だったら、私たちは愛を好みます。光と闇だったら、光の方を好みますね。それはきっと、恐怖よりは愛、闇よりは光こそが実在だとどこかで知っているからです。

愛の欠如が恐怖を作り出し、光の欠如が闇を生み出すのですから。それなのに、恐怖や闇と親しい人生を生きている人が私も含めてたくさんいます。

また受容性の欠如が欲望を作り出すのです。そして欲望こそが、人生を生きる原動力になってしまっているのです。

だから受容性こそが真に満たされるために必要なものだと理解できても、それが人生のど真ん中になることが難しいのですね。

更に言えば、全体性の欠如が個別性を生み出すのです。真実は全体性なので、個別性(分離)という概念は作り物です。

つまり「私」という個人というのは本当は存在しないということですね。これで分かったと思うのですが…。

私たちが自分だと信じている自我という個人は、まがい物だからこそ、同類である恐怖、闇、欲望を選んでしまうということです。

けれども安心してください。偽物はどこまでいっても偽物なので、在るように見えるだけで存在しないのですから。

真実に気づいたとき、恐怖は消え、闇も消え、欲望も個人も全て一瞬にして消滅してしまいます。たとえ気づかなくても、真実だけがただあり続けるのですから。

催眠療法の二つの効果

催眠療法というのは、決して魔法の癒し術のようなものではありませんが、癒しにとってとても大切な主に二つの効果が期待できるのです。

その一つが、十分に感じることができなかった過去(特に幼い頃)の感情を、その現場に戻ることでしっかり感じることができるということ。

感情というエネルギーは、一般に知られている以上に残っているものなのです。そして古くもならないので、今でも新鮮な状態で残っているのです。

そのエネルギーが多く残っていると、それだけ強く、さまざまな点で未来の自分に影響を与えるのです。

そしてもう一つの催眠療法の効果としては、大人の見識を持った自分が過去に戻り、その当時とは違う見方で過去を見直すということです。

子供の頃というのは、非常に思考が偏っているのです。それは、家族というとても狭い世界で育てられてしまうからです。

当然親の正しさや物事の見方、あるいは考え方などが中心となり、それが家の常識となって子供に植え付けられるのです。

そこにメスを入れることで、なんだそんなことだったのかと理解することで、気持ちが楽になるのです。

そして、これまで自分が囚われてきた考え方などに気づいて、それを修正してより中立に生きていけるようになるわけですね。

体験を見守るもの

昨日のブログでは、知識よりも体験であり、さらには体験よりも深い理解ができればいいというお話をしました。

そして実はその先もあるのです。体験がどれほど知識に比べて貴重であるとしても、どんな体験もそれはすぐに過去のものになってしまうのです。

つまり体験が起きて、それが去っていく。この繰り返しでしかないという当たり前の話ですが、過去は記憶というイメージ(思考)に変換されてしまいます。

体験がどれほど強烈なインパクトを与えるものであったとしても、所詮は過ぎ去ってしまうものなので、それは消えていく運命にあるのです。

それなら一体何が本質的なものなのだろうというと、一過性ではないもの。つまりは、体験がやって来ては去っていくその全てを見るもの。

それは自我という体験者ではありません。自分こそが体験者だと信じている「私」という自我も、いずれはこの世を去っていくのです。

体験者というのは一つの幻想であり、ただ体験が起きると捉えるとよりシンプルになりますね。

そしてその体験を見守るものこそが永遠のものであり、それだけが実在であるという理解です。この感覚は自我を溶かしていってくれる感じがしますね。

体験せずとも理解できる

社会の中で生きていくためには、知識を蓄えることはとても必要なことですが、ただ知識というのは誰か他の人から聞いた情報でしかありません。

地球は丸いという情報は知っていても、普段は地面は平らだと感じているので、それを身を持って知ることはできません。

飛行機に乗って高度1万メートルくらいから地球を見れば、ある程度は確かに丸いかもと分かるのです。

一番いいのは宇宙旅行に出かけて、大気圏外から地球を見ることができれば、知識ではなく実体験として「丸い」が分かるのです。

体験することこそが、知識を超える唯一の方法だと思っても不思議ではありません。だとすると、生きている間にどれだけの体験を積めるかが重要になってきます。

けれども一生のうちに体験できることなど、たかが知れています。人類全体の体験が丸ごと自分の中に入ってきてくれるならいいのですが、そうはいきません。

となると、体験していなくとも自分のこれまでの体験などを使って、類推することができたらいいわけです。

たとえば、このブログで何度もお伝えしている、「自我は何を手に入れても満たされない」ということを知識としては知っていたとします。

でも本当の理解に至るには、自分で実体験するしかないのだとしたら、あらゆることを手に入れることは不可能なので、結局限られた人生という時間の中での理解も不可能ということになります。

でも賢い人であれば、何度かそれを体験することで推論することはできるのです。これまで繰り返し欲しいものを手にしてきたのに、思っていたような満足は得られなかった。

であれば、この先何を手に入れたとしても結局同じなのではないか、このような推論ができれば体験せずとも理解に至ることができるのです。

そしてさらに言うと、この推論を後押ししてくれるのがマインドについての理解です。マインドの仕組みを深く理解すれば、推論がより容易になるのです。

マインドの仕組みとして、真に満たされたならマインドはもたないということを深く理解することで、違った角度から体験なしの理解を得ることが可能なのですね。