訴えたい気持ち

随分と昔のことですが、仕事でアメリカに滞在していたときに、夜暇なのもあって英会話教室に通っていました。

自分の希望で毎回同じ先生に来てもらってほぼ毎日のように一対一の授業を受けていました。その時に、アメリカの訴訟社会の実情をいやというほど聞かされたのです。

アメリカでは購入したものは、お客が気に入らなければどんなものでも返却できるというのです。使用してしまったCDであれ、読んだ本であれ、何でもです。

お店側は理不尽だとしても、文句を言えないということでした。消費者側が国によってかなり守られているわけですね。

マクドナルドだったか、そういったファストフードのお店のドライブスルーで購入したコーヒーを運転者が膝にこぼして、その熱さでやけどをしてしまい、当時100億円くらいの賠償金が支払われるという事件がありました。

腕のいい弁護士がつくと、そういうことが可能なわけです。訴える相手が大きな企業なので、そんな大金を払っても大丈夫だからなのか、それにしても常識をはるかに超えていますね。

英会話の先生の話しに戻りますが、彼女のご主人が理髪店に行って眠ってしまった間にあまりにも髪を短くされてしまったといって帰宅したそうです。

彼女はご主人に再度その理髪店に行かせて、散髪代をただにさせたといって喜んでいました。この逸話は以前にもコラムで書いたことがあったと思います。

こうした文化というのは、人が根深くもっている訴えたい気持ちの表れなのです。それは求める心であるとも言えます。

求める心が全開で生きているのであれば、当然与える心は影を潜めてしまっているはずです。それは間違いなく愛のない殺伐とした社会になってしまいます。

社会や国や会社、あるいは周りの人たちに何か訴えたい気持ちを沢山持っているという自覚がある場合には、求める心が優先されていることに気づくことです。

そして、忘れてはならないことは訴えたい気持ちを優先させて生きていると、訴える必要があるようなことが身の上に起きてしまうということです。

たとえ訴えたことが周りに受け止められたとしても、それは一過性の安心を得ることができるだけで決して幸せにはなれません。

訴えたい気持ちは、自分自身の中立な心でそれを受け止めてあげればいいのです。充分にそれができれば、その気持ちは静かになり、与える心が優勢になってくるはずなのです。

その先にしか幸せは待っていてはくれないのです。