他人から見られることの不可能性

私たちの不安がどこから来るかと言うと、自分と同じように他人を評価する目を持った誰かに見られているという感覚からやってくるのです。

身体のどこかを見られても、それほど反応をすることはないのですが、目を見られたときだけ心の奥まで見透かされているような心許ない感覚になるのです。

目は心の窓というだけあって、自分の心の中をそこから覗かれてしまうという恐れがあるのでしょうね。他人にじ~っと目を見られたら、いたたまれない感じがするのはそうしたことが原因なのです。

けれども、本当の自分は肉体ではないのなら、つまり肉体との同化を解除することができるなら、そのときには他人から見られる客体としての自分はいなくなるのです。

そのことがどれほど自分を気楽にしてくれるのか、想像しただけで嬉しくなってしまいます。身体の内側に自分がいるという、この間違った感覚が邪魔なのです。

意識としての自己の本質は、決して客体になることはできないなら、他人から見られるということが完全に不可能なこととなるわけです。

そしてもう一つ、自分が身体の内側にいないのなら、一体どこからこの世界を見ているのかを検証する必要があるのです。

それについては、自分の外側に世界があるという間違った見方を捨てて、自己の本質が現象化したそれ自体にただ気づいていると分かればいいのです。

そうなったら、もう自分も自分を見つめてくる他人も誰もいないというところに行きつくのです。それは途方もなく穏やかな静寂の世界になるでしょうね。