自己改善では救われない

何とももどかしいなあと思うのは、絶対に救いがないところに、それと気づかずに救いを求め続けてしまうことです。

自分をもっと良くすれば救われると思い込んでいる人はたくさんいます。というのも、自我とはそういうものだからです。

自我の改善計画は、目標に向かって邁進している間はとても充実感を味わえるのですが、いずれはそれが無駄骨だったと気づくことになるのです。

そうなったらすぐに、今度は違う目標を自分に与えて、今度こそと奮い立たせてまた改善の道を歩み出すのですが、結果は同じこと。

なぜなら、自己改善という発想そのものが愛の原動力ではないからです。それはまさに自己否定からやってくるものだからです。

自分を改善しようとする努力を手放すことです。どれほど自我を磨いたところで、個人という分離感は消えないのですから。

救いはといえば、分離が消えてしまうこと。そのためには、真実の自己に気づいて、その視点からこの世界を見つめること。

それもできるだけ継続して、繰り返し練習することが必要ですね。

救いは頭をなくすこと

頭(マインド)は社会が私たちに植え付けた思考群で成り立っています。幼い頃は両親からそれを洗脳されるのですが、その元は社会なのです。

ある程度の年齢になった頃、何か嫌なことがあったときには「無」になってみることをよくやっていました。

最初はただの現実逃避なのかなと思ったりもしたのですが、そのうちそれは違うということを発見したのです。

要するに、私たちが事実だと思っていることの大半は思考が作っているのです。だから瞑想状態になった途端に、多くの物事は消えてしまいます。

これは大変な救いでした。現実逃避ではなく、思考が作り上げた物語からただ抜け出すということだったのです。

更に言えば、わざわざ瞑想をするまでもなく、ただ単に頭がないことに気づけば、自分と外側の世界との分離が消えてしまいます。

その状態で街を歩くと、風通しがいい感じがして気持ちが良いのです。身体の中に幽閉されているという洗脳から解放されるからでしょうね。

決め事は単なるルール

昨日のブログでは、あらゆる常識、深い思い込み、洗脳を傍に置いて、赤子のような新鮮な眼差しで物事を見るといいという話しをしました。

今日はその補足のような内容になるのですが、小学校で直角というのを習いますが、あれはどういうわけか90度と教えられるのです。

90という数字はちょっと中途半端な感じがしたでしょうか?それとも何も考えずにああそうですかと受け入れてしまったでしょうか?

疑い深い私のような少年は、なぜだろうと思うわけです。一体全体どんな理由で直角は90度ということになっているのだろうと。

すると、一周が360度だからこそ、その1/4 の直角は90度だと理解できます。となると、今度はなぜ一周が360度なのかが疑問として残ります。

ここからは聞いた話しですが、地球の公転一周が365日だと知っていた5000年前の人類は、そこから近い数字である360を採用したのだとか。

でも単にそれだけだと理由としては弱いのですが、実際にはこの360という数字にはとても便利な数学的な力があるのです。

24個もの約数を持っていること、7を除く10までのすべての自然数が約数になっていること、このような数学的な利点が沢山あるのです。

このほかにも、様々なそれなりの理由があり、要するに人類の叡智を結集した末に、一周は360度が1番いいと決められたのです。

理由はともかく、ここで強調したいことは一周は360度というのは単なる決め事であって、真理ではないということです。

決め事とはルールであり、真理とは何の関係もありません。他人から教えられたことを一旦傍に置いて、この世界を眺めることですね。

常識を傍に置く練習

普段私たちは、自覚のないままに常識の中で生きているのです。なぜ自覚がないかというと、当たり前過ぎてしまっているために、疑うことがないからです。

例えば、30cmの物差しは誰がどのように測ろうが、30cmのままだと勝手に信じ切っていますので、それが29cmになったり31cmになったりはしないと思っています。

ところがこの常識は相対性理論によって覆されてしまいました。物差しがある速度で自分の前を通り過ぎる時、進行方向に向かって縮むのです。

理論上では、光の速度に限りなく近づいたとしたら、物差しの長さは限りなくゼロに近づくのです。そして質量は限りなく無限大になってしまうのです。

時間の進み方も一定ではありません。その物差しに小さい人が乗っているとしたら、こちらから計測すると彼の1秒は遅く経過するのです。

また、量子力学によって、物質の存在は見る(観測する)ことによって確定するということが分かっています。

つまりは、あなたが今認識していないものは、あなたにとってはその存在の有無を判断することができないということです。

上記したようなことは、日頃の生活には全く影響しないレベルなので、知らなくてもいいのですが、とはいえ知っている人にとっては物事の見方が変わります。

自分の常識、生まれてから培ってきた当然だと思い込んでいることも、その全てを傍に置いてただ見ることは、相当に難しいことだと分かります。

私たちは、周囲からこのように見なさいと教えられたように見てしまっているのです。このことに気づくと、本当にびっくりすることになるのです。

自分がここにいるという常識も、疑ってみることをお勧めします。あらゆる常識を使うことなく、全てを疑って新鮮な赤子のような目で見てみるのです。

あなたの周りにこの世界が広がっているのか、あなたの内側にこの世界が広がっているのか、あるいはどちらでもないのか。

あなたにとっての世界のことを決められるのは、あなた以外にはいないということも知る必要があると思いますね。

信じるものは救われない

もしもあなたが幼い頃から、実の親から自分は見離されている、放って置かれていると感じていたとしたら、その後の人生をどのように生きればいいでしょうか?

無力な子供時代は、全力で親から守ってもらわなければ安心して生きていくことなどできるはずがありません。

であれば、親からそっぽを向かれた子供は、大切な拠り所がないので自分の家に居場所がないと感じるはずです。

そしてこの親なら仕方ないとして諦めるのです。その結果、成長するにつれて、家の外部に拠り所を求めることになるのです。

それはもしかしたら、愛するパートナーかもしれないし、宗教かもしれません。そして、どちらにしても満足をもらえることはないのです。

特に宗教を選んでしまった場合には、その人の波動に近い波動を持った教祖様のところに行ってしまうでしょうね。エネルギーは友を呼ぶからです。

そうなったら、その依存心を利用するだけ利用されるようになるのです。その実態は搾取と奴隷であり、人生を乗っ取られてしまうことにもなるのです。

信者は非常に危険なのです。信じることで心の拠り所を見つけたつもりになるので、今度は教祖様の言いなりになることが正しいことだと思い込むのです。

そのあとどうなるのかは、想像に難くありません。何事も信じないことです。信じる代わりに、検証する態度を身につけることですね。

苦しみはマインドが作る

このブログを長く読まれている方はご存知だと思いますが、「マインド」という単語が耳にタコができるくらい、繰り返し出てきます。

それはなぜかと言うと、どんな問題であれその根本となる問題はマインドにあるからです。だとしたら、マインドのことを知らずに生きることはとても損ですね。

私たちが苦悩する時、その理由を外側で起きている物語のせいにしがちなのですが、それが大きな間違いなのです。

すべての苦しみはマインドがあるからです。こう言われてしまっては、元も子もないと思われるでしょうけれど、これが本当のことです。

例えば、誰もが認めたくない自分の惨めさは、実はマインドがそう考えない限りは、どこにも存在しないものです。

マインドが期待と現実の落差を判断することで、そこに惨めさというものが生み出されるのですから。

人間の苦しみとしてある、嫉妬、ひがみ、劣等感、罪悪感、孤独感、不安感、悲しみ、貪欲、こうしたあらゆる苦の種はマインドからやってくるのです。

だからマインドについての深い理解が、生きる上での非常に大切なキーとなることも頷けるはずです。

できることなら、マインドとして生きるのではなく、マインドを監視しつつ生きるようにすること。これができたら最高ですね。

しがみつきが自由を奪う

もしもあなたが自由を求めてやまないのであれば、あらゆるしがみつきをできるだけ小さくすることが必要です。

シンプルに、自由とは何にもしがみつかないこと。つまり、自由は無執着を意味するのです。

それは当たり前のことですね。何かに執着してしまえば、そこで流れが滞ってしまうのですから、あなたは縛られることになるのです。

自由というのは、イメージで言えば川の流れに無抵抗になって、ただ流されるがままでいることです。

もしも、今通り過ぎた景色をもう一度見たいと思ってしまったら、川の流れに逆行しようとするかもしれません。

岩場にしがみついて、流れないようにするかもしれません。川はドンドン流れていくのですから、過ぎ去ったことに想いを馳せるだけでも執着が生まれます。

そしてこの先どんな流れになるのだろうと未来を心配するだけでも、そこにも別の種類の執着が生まれるのです。

緩やかな流れが来て欲しいなとか、こんな景色のところに行きたいと願えば、つまりその期待が自由な心でいられなくしてしまうのです。

無執着は未来に対しては期待がないことを意味します。さあ、どんなことにどれほどのしがみつきをしているのか、じっくり自分の内面を見てあげることです。

そして気がついたものから順番に、少しずつでも握っている拳の力を緩めてあげるようにしてみることですね。

自然の摂理 その2

昨日に引き続き、今回は昨日の宝石蜂よりももっと小ぶりな体長数ミリのとある蜂の生態についてです。

この蜂は、ある蛾の幼虫(イモムシ君)の体内に直接卵(80個程度)を産み付けるのだそうです。ここまでは、寄生蜂のごく普通のやり方だそうで。

イモムシ君の体内で好きなだけ新鮮な内臓を食い尽くして、スクスクと成長していった蜂の幼虫は、サナギになるためにイモムシ君の体外へと出てきます。

と、ここからがこの蜂に特有なことが起こります。何とイモムシ君をギリギリ死なないようにしておくのです。

そして何と、サナギを狙って昆虫などが近づいてくると、イモムシ君が身体を揺すって昆虫を振り払ってくれるのだそうです。

つまりは、イモムシ君は自分の内臓を食い荒らされた挙句、彼らを残り少ない命を使って懸命に外敵から守ってあげるわけです。

サナギから成虫になった蜂たちが飛び立って行った後に、ようやくイモムシ君は静かにその息を引き取るのだそうです。

いつも穏やかなイモムシ君が、なぜサナギのボディガードのような振るまいをするのかの詳細は分かっていないそうですが、一つのヒントがあるのです。

それは、蜂の幼虫のうちの数匹は、イモムシ君の体内に残って何やらやっているらしいのです。この子たちは、サナギになることを諦めた勇気ある子たちなのですね。

きっとイモムシ君の筋反射を操って、外でサナギになった兄弟たちを守ろうと頑張っているのでしょうね。

とはいえ、散々な目に遭ったイモムシ君が一方的に一生を台無しにされたことは確かなのです。

こうした自然の摂理が作りだした物語が、今この瞬間も地球上では無数に起きているのです。やはり、神の摂理と呼びたくもなりますね。

自然の摂理ってエゲツない?

毎年気候が暑くなると台所などで遭遇してしまう、あの素早く動く黒光りした虫(以後「G」と表記します)がいますね。

多くの(特に)女性が異常とも言えるような怖がり方をしてしまう例の奴ですが、聞くところによると数億年間あの形でずっと生き抜いて来たそうです。

それにはきっと明確な理由があるはずで、一言で言ってしまえば生物としての完成度が非常に高いということだと思っています。

それと比べたら、人類なんてほんの産まれたての赤ちゃんのようなものです。ただそんな「G」にも天敵のような存在がいるのだそうです。

それは世にも美しい色をした宝石蜂で、彼らは自分よりも大きくてすばしこい「G」に針を刺して、前足を少し麻痺させるのだそうです。

「G」の動きがゆっくりになったところで、今度はもっと正確に決まった部位に再度針を刺して、彼らを従順な性格に変えてしまうのだとか。

奴隷と化した「G」は、蜂に連れられてその巣穴の中に誘導されるのです。そこで主人となった蜂は、「G」の足の付け根に卵を産みつけるのです。

そして蜂は外から穴の入り口を塞いでしまいます。穴の中では蜂の卵が孵化すると、「G」の体内に入り込んでその新鮮な内臓を食い尽くすのです。

蜂の幼虫がサナギになる頃、ようやく死んだ「G」の身体が今度は硬いヨロイのようになって、無防備なサナギを守ることになるのです。

サナギから成虫になった蜂は、「G」にお礼も言わずにその殻を突き破って立派に巣立っていくのです。そしてまた、新たな「G」の生捕り&奴隷作戦が始まるのです。

自然の摂理には善も悪もありませんが、「G」の立場から見れば、理不尽極まりないのです。一方で、全体性で見ればこの完璧なプロセスを驚嘆するのみですね。

役割を重くみないこと

この世界は、とかく役割でできているのです。人間だけに限らず犬でも番犬と言われるし、猫ならネズミを取る役目が昔はありました。

ただし、動物は自分に与えられた役割を自覚してはいません。そこは私たち人間とは根本的に違うところですね。

私たちは、幼い子供の頃であろうと何かしらの役割を担ってきました。それは家族から与えられることもあるし、自ら役割を作ってしまうこともあるのです。

親を喜ばせる役割、親に世話をさせてあげる役目、家族の不仲の間を取り持って一家離散にならないようにする役割。

それ以外にもありとあらゆる役割を担って生きてきたのです。そして社会に出れば、それがもっと明確になってくるのです。

役割が悪いということではないのですが、あまりにもそれを重く受け止めてしまうと、人生が不快なものになってしまいます。

家や墓があってもそれに執着せずにいて、気持ち的には家なしで生きること。社会の中にいて、社会に染まらずに生きるのです。

群衆とともに行動をする一方で、決して群衆に巻き込まれない生き方をするのです。どんな役割もあなたを自由にはしてくれないからです。

役割を放棄するのではなく、あたかもひとりであるかのように生きること。このバランスはとても難しいかもしれませんが…。