全体性についての補足

昨日のブログでは、全体性の感覚のことについて書いたのですが、もう少し補足しようかなと思います。

より具体的なことで説明することができれば、分かりやすくもなるのかなと思ったので。

例えば、『空っぽで、自由で、そして自然でありなさい』と言われたら、ものすごく気持ちが楽になるのですが、すぐにそれだけでは生きていけないという考えがやってきます。

もしも誰かに理不尽なことをされたり、搾取されるようなことがあれば、そんな呑気なことを言ってられないとなるのです。

この場合、自分の立場で考えるから自分を守らなければいけないとなるのですね。この「◯◯の立場」というのが問題なのです。

寄生される生物の立場になったら、とんでもない理不尽な目に遭ったことになるのですが、寄生する生物の立場に立ったら、そうする以外生きる道がないのです。

ライオンに追われて食べられてしまうシマウマの赤ちゃんを見たら、シマウマの立場になったら酷い仕打ちだけれど、ライオンの立場であれば生きていくために必要なことです。

そして野生動物の生態系という全体で見たら、何も問題がないということになるのです。それが全体性の感覚とも言えるのではないかと思うのです。

結局、全体性とは個別的などの立場にもならない時の感覚だということ。一見すると、すごく冷たいような感じもしますが、確かに全体性には感情がないのかも。

感情だけでなく、思考もないのです。全体性とはただ見ることだからですね。だから、空っぽで、自由で、自然であることになるのです。

全体性という感覚

osho が次のように言っているのを知って、少し驚きました。

『私はあなた方に、分割されていない―<全体(whole)>の感覚を与えようとしているのだ。科学は片割れだ。哲学も片割れだ。どうしたらいい? どうやってあなたにその<全体>の感覚を与えよう?』

ここで言っている<全体>というのは、このブログで時々出てくる全体性のことだと思って間違いありません。

それってどういう感覚ですか?とクライアントさんから聞かれることもあるのですが、言葉で説明するのは難しいのです。

さらに、それを感じられるようになるにはどうしたらいいですか?と聞かれたところで、osho と同じで分からないというのが正直なところです。

私自身の場合についても、どこかの時点でそれを知るようになったのか、それとも初めからそれを知っていたのか、どちらなのか確信が持てないのです。

だから全体性を体感するようになる方法なんてものが、本当にあるのかどうかも分からないのです。

この感覚を味わっているときには、じっとしてどこを見るでもなく静かにしていることが多いのは事実です。

そして、究極的には自分しかいないという感覚と近いかもしれません。この場合の自分というのは個人としての自分ではないのですが。

もしくは、自分はどこにもいないという感覚とも近いですね。そうしたものの総称が全体性なのかなと思っています。

不安の根っこを見極める

私たちの自我(マインド)というのは、いつも様々な不安を抱えています。失業してお金がなくなったらどうしよう。

重篤な病気に罹ったらどうしよう。好きな人に裏切られたらどうしよう。みんなから否定され非難されたらどうしよう。

こういった不安のネタというのは、日々無限に出てくるのですが、その根っこにある誰にでも共通の不安というのは、たった一つです。

それは、個人として生きているということ、外側の世界とは分離していることからやってくる不安なのです。

この不安は原理的なものなので、分離しているという思い込みが消えない限りは、決して無くならないのです。

そこで私たちは、この不安を何とかして誤魔化して感じないようにするありとあらゆる方法を編み出したのです。

それをこのブログでは自己防衛と呼んでいます。防衛によって、刹那的な安心を得ることで大元の不安を隠そうとするわけですね。

けれども、不安を一瞬覆い隠すだけのことなので、分離からくる不安がなくなることはありません。

ではどうしたらその不安から逃れることができるのか?自我にとって、真に逃れることはできませんが、方法がないわけではないのです。

一つあるとすると、その不安から逃げないように練習するのです。不安をしっかり見つめて、それが一体どんなものなのかを知るようにするのです。

そうすると不安は無くならないのですが、不思議なことにその不安があっても大丈夫という感覚がやってきてくれるのです。

自我ができるのはそこまでですが、それでもその効果は絶大なものになると思います。その一方で、根本的な方法もあるとしたら…。

それは、やはり自己の本質に気づくことですね。個人という自我は一つの思い込みだと見極めて、自己の本質から自我を見ることができれば、そこにはどんな不安もないと気づくことになるのでしょうね。

遊び心を思い出す

「遊び心」の対義語は何でしょう?ピッタリ嵌るかどうかはわかりませんが、意味合いとしては「深刻さ」だと思っています。

遊び心満載で生きている人に、深刻さは似合わないですよね。どちらの人がエネルギー的に気持ち良いかも、明確だと言ってもいいと思います。

深刻になっていると、ワクワクやウキウキも消えて、ドーンと沈んだ気持ちになってしまうことが多いのは誰でも経験しているものです。

社会というのは、遊び心を嫌い、逆に深刻さを歓迎する傾向にあるのです。なぜなら、遊び心の人は決して誰にも支配されないからです。

真面目で融通が効かずに深刻になっている人ほど、社会からしたら好きなように支配することができるのです。

遊び心は何にも統制されることがありません。誰の心の中にも、あのピカピカだった幼い子供が潜んでいます。

その子は死ぬまで消えることがないし、あの遊び心は必ずそのままの状態で温存されているのです。

それなのに、深刻さがそれを危険因子だと決めつけて、社会に迎合させようとして抑え込んでしまったのです。

もう一度、遊び心を持ったその子のことを思い出して、光のなかへと連れ出してあげられるといいですね。

過去と未来をシャットアウト

このブログに何度も登場する私の母親のことですが、短期記憶の能力が明らかに落ちてきてしまっていて、デイサービスから戻ってきた瞬間に、どこに行っていたのかを忘れます。

それだけならまだいいのですが、今日は踊りから帰ってきたようなことを言うのです。30年以上前に日本舞踊を習っていたことがあったので、その時の記憶のようなのです。

一つひとつ丁寧に記憶の問題だと言うことを説明するのですが、最終的には互いにどうでもいいことにしようで終わらせるのです。

今日を無事生きるのに必要な物理的な全てが揃っていることを伝えて、できるだけ安心してもらうようにするのですが、それもすぐに忘れるのです。

ふと、自分がその年齢になったときに同じような状態になる可能性が高いと思い、自分だったらどのようになるのかを想像してみたのです。

あくまでも想像なので本当のところは分かりませんが、きっと自分の短期記憶が曖昧になった時点で、過去と未来をシャットアウトするはず。

思い出そうとすれば、苦しむだけだと分かっているし、過去と未来へ想いを馳せることをしないような生き方を練習してきているからです。

母親には、考えても解決しないことは考えるのをやめてしまおうと伝えています。本人もそうだねと言うものの、またすぐに過去のことを思い出そうとするのです。

長年の生き方のクセが取れない限り、この状態は続いてしまうのかもしれません。それは助けてあげられないのが、何とも歯がゆい限り。

でも仕方のないことですね。高齢になれば誰にでも起きうることなので、記憶力が正常なうちから過去と未来をシャットアウトする練習をしておくことです。

それには、瞑想や意識的に生きることが絶対的に役立つはずです。そしてもう一つ、自分の本質から見る事を練習すればいいのです。そのどれもが記憶を使わずにいられるからです。

海の一滴

私たちはとかく他人と自分を比較しては、喜んだり悲しんだりして生きています。人間とは、そもそも不平等だと感じているのです。

けれども、いずれ確実にやってくる死は全くもって平等なのですね。それだけは変わらぬ真理なのです。

人生の最大のイベントは、誕生と死です。その間に挟まれてしばらくの間、生があるのですが、時間のない無からやってきて、無へと帰還するのです。

だから生の長さの違いなどは何の意味もありません。どんな生であろうと、永遠の無へと戻っていくのですから。

ちょうど海面が荒れて、その飛沫の一滴が空中にやってきて、しばらくの後に海面へと戻っていく様と同じようなもの。

その一滴が空中でどうあろうと、それはまさしく海の一部であることに違いはないのです。別の一滴との違いを見て、喜んだり嘆いたりの無意味さ。

その一滴が海に戻ることを恐れて、海の中に溶けて消えていくことを怖がっているのです。それが自我という幻想がやっていることです。

どの一滴もその成分は、海の成分と全く同じにできているのです。丸みを帯びたその形があたかも海とは分離したものだと思わせるのです。

私たちの成分も無でできています。身体を持っているので、分離した存在だと勘違いしているだけなのですね。

身体の中に閉じ込められて…ない

私たちの大多数は、自分の本体は自分の身体の中に入っている、あるいは閉じ込められて外に出ることはできないと思い込んでいます。

もちろん例外もあって、体外離脱といった離れ技ができる人、あるいはそれに近い体験をしてしまった人もいます。

けれども、そういった人であっても、基本的には身体の中にいたものが身体の外に抜け出たという認識なのです。

だからどうしても身体の内側に閉じ込められている感は拭えないわけです。その一方で、身体の中をどれほどくまなく捜したところで、自分を見つけることなどできないことも知っています。

じゃあ本当は自分はどこにいるのだろう?身体の中に閉じ込められている感覚というのは、実は教え込まれたものに過ぎません。

自我ができ上がるときに、この身体の内側が唯一の自分の領域だと思ってしまったのです。それ以外のどんな理屈もありません。

だとしたら、その馬鹿げた思い込み、刷り込みを全力で捨てる必要があるのです。なぜなら、身体が自分を縛る監獄のような息苦しさを感じてしまうからです。

本当のところ、私たちの本質はただ見るという意識なので、身体の内側とか外側といった概念とは無関係のものです。

意識であれば、大きさも位置も何もないのですから。ただ、いつも両手両足が同じところに見え隠れするだけ。足よりも手の方が見える頻度は高いですが。

ベッドに仰向けになり、手足が見えない状態になって、身体が見えないように工夫することで、意識と身体が無関係だと気づきやすくなるかもしれません。

どんな方法でもいいので、身体に閉じ込められている最悪な感覚から抜け出せる方法を試してみることですね。

あくまでもそれは単なる感覚であって、真実ではないということも見抜けると、思い込みから抜け出す助けになると思います。

不安が不安を生み出す

30分くらいの間に、例えば5人の人から次々に「顔色が悪いから病院に行ったほうがいい」と言われたら、どうなるでしょうか?

きっと誰でも本当に具合が悪くなってしまうはずです。そのくらい、人間というのは他人からの働きかけに影響を受けるものなのです。

幼い頃からものすごく心配性の母親に育てられたとしたら、その子は安心して生きていくことなどできるはずがありません。

自分は人を心配させてしまうような奴なのだと思い込むからです。そうなったら、自分自身への評価が高くなることはありません。

コロナ騒ぎが勃発してからつくづく思うのですが、気持ちが不安側に向きやすい人とそうでもない人に別れるものだなと。

そして不安といつも一緒にいる人は、テレビを観てその内容を鵜呑みにする傾向が高いのだろうと思います。

日本のテレビ放送は、とにかく視聴者を「煽る」のです。人をびっくりさせて、不安にさせて、深刻にさせるように煽るのです。

それが一番視聴率を稼げることになると熟知しているからです。不安症候群の人々はそうとは知らずにまんまと煽られる。

テレビのニュース番組では、いまだに感染者数ばかりを取り上げるのですが、数字が多いので煽るのには最適だからです。

その一方で、1日のコロナ感染による死亡者の数を出さないのは、数が少な過ぎるからで、そっちは累積した数を出すのです。

それに気づかずに一喜一憂させられているのは、本当にバカバカしい限りです。不安な人の特徴は無意識になりやすいということ。

そしてもう一つ、不安な人に共通のものは、人やテレビの内容をすぐに信じてしまうということ。信じることは、それ以上の疑問を持たなくなって、結局は無意識になるのです。

このように、ただでさえ人間は周囲からの影響をもろに受けてしまう動物なのに、その上に不安過多であればそれがさらなる不安を生むことになると知ることです。

人の話やテレビの内容も、話半分程度に聞いておくこと。信じることをやめて、自分の不安から目を逸らさずにいることです。そして、できるだけ意識的でいられるようにすることですね。

マインドに興味を持たないと…

人生山あり谷ありとはよく言ったもので、これは誰の身にも当てはまることです。どれほど平和な人生であろうと、そこにもちゃんと問題は発生するのです。

そうした一つひとつの問題を場当たり的に解決しようとしている人の何と多いことか。その気持ちはよくわかるのですが。

けれども、そうした取り組みというのは必ず失敗に終わります。問題の本質に気づいていないからです。

どんな問題であれ、それは自分のマインドにその起源があるということに気づかなければ、結局は解決には至らないのです。

マインドを深く知ろうとしない人は、こうした罠にハマってしまうのは確実なのです。なぜマインドに興味を持つことができないのか?

私が思うに、マインドを知ろうとすると自分がこれまでひた隠しにしてきたことに、光が当たってしまうことになるので、それを恐れているのではないかと。

問題の根っこにあるのは、他の誰でもない自分のマインドなのだと本当は気づいているのです。だからこそ、そこから目を逸らそうとしてしまうのでしょうね。

逆に、マインドの本性、働き、仕組みを深く理解することができれば、どんな問題であれその見え方が変わってきます。

問題を解決するという発想にも変化が出てくるのです。究極をいえば、問題はあなたのマインドが消えれば、それと一緒に消えてしまうということですね。

バカバカしさに気づく

小学5年生の頃に、それまで頑張っていた「正義の味方」、そして「正しい人」という生き方をやめてしまうことにしたのです。

何でかというと、そんなヒーローみたいな生活がバカバカしく思えて来てしまったからです。

毎日独りで夜布団の中でする反省会、自分にダメ出しをしたりして時々はシクシク泣いたりすることもあったのです。

そこに価値を見出していたはずだったのが、もうそんなことはどうでもいいと思えるように自然になったのですね。

そうしたら、不自由な感じがしていたものがまた自由を取り戻した感じにもなったのです。

今から思うと、バカバカしいと思えることがとても重要なことだと分かります。ふと、自分の周りを見回してみると、バカバカしいことがてんこ盛り。

そうなったらもう、1秒も握りしめていることができなくなるのです。あっという間にゴミ箱へ捨てることができるのです。

正義の味方、弱いものの味方、正しい人、不正を許さない人、今でも若干魅力的な生き方だなと思っている自分がいることはいます。

けれども、そこからやってくる自己犠牲にもううんざりなのです。人の期待に応えるために生きているわけではないし。

人の人生を幸せにすることは不可能だと深く理解できたおかげで、もう決して元に戻ることはありません。