覚醒を待つ

この人生に目的があるとすると、それはたった一つだけ。自分がナニモノなのかに気づくこと。覚醒するということですね。

ところが覚醒するためには、それを目的としていた自我が消えていかねばならないのです。こんな馬鹿にしたような話しがあるでしょうか?

この自己矛盾よりもふざけたことなどないですね。目的とか目標というのは、それを目指す自分があってのものであるはずです。

それなのに、目覚めるという目的は、それを目指す自分が消えることでしかないのです。自我が消えることと、肉体が死を迎えることとは全く異なることです。

肉体の死後どのようになっていくのかを知らないので、勝負は生きている間にということになりますね。

だとするとやれることは、絞られてくると思います。何でもそうなのですが、使われずにいるものは活気がなくなって萎んでいくのです。

つまりは、自我が活躍できないように注意深く生きる練習をすることです。例えば、瞑想をするとか、なるべく無防備になって、幼い子供のように無邪気に生きる。

社会の中にあって、外側ではルールを守り、内側では野生でいること。そしてより自然により自由に生きることです。

あとは、覚醒がやってくるのをただ待つということです。なるべく受け身であるということですね。