期待が人を不幸にする

このブログでは過去何度も話題に上がっているど定番とも言える「期待」にまつわることをまた性懲りもなく書きたいと思います。

私たちが日々、悲しくなったり怒ったりしてしまう原因というのは、それが全てとは言わないまでも意外にもシンプルな理由によるものなのです。

自分は惨めだなと思うことがあれば、それは悲しみという感情を生むのです。惨めさは単なる思考なのですが、そこから悲しみという感情が作り出されるのです。

そしてそれだけではなく、その惨めだという思いとそこからやってくる悲しい気持ちのどちらも非常に辛いものなので、直視したくないのです。

そのために今度は怒りという感情を生み出すのです。怒っていることで、惨めな思いも悲しみも蓋をされて気づけなくされるのです。

だからあなたが何であれ怒りを感じているなら、その下には惨めさと悲しみが隠されていると思って間違いありません。

ではこうしたことの根っこにある惨めな思いというのは、どのような時に起きるのかが重要なことになるのです。

それは、期待値と現実との落差なのです。自分が⚪︎⚪︎に違いないという期待を持っていると、それに対して現実はこうだったという時の、期待はずれ感こそが惨めさなのです。

それなら何事にも期待をしなければいいだけだということになるのですが、理屈としてはそうなのですが我々の自我というのは、何事に対しても必ずや何らかの期待値を持ってしまうのです。

これはもうどれほど気をつけていようと、避けることは難しいでしょうね。やれることとしたら、何に対してどういった期待を持っているのかを注意深く見つめることです。

そしてその馬鹿馬鹿しさに気づくこと。その期待値が当然だと思う限りは、その期待が消えてしまうことはないからです。

それと、期待を減らすことの難しさの原因のもう一つ大きなものは、期待することも期待されることも良いことだという思い違いが根深いからです。

自我というのは、期待をエネルギーにして頑張れるという面もあるでしょうね。期待されることが本当に自分の喜びにつながるのかも、しっかり見つめる必要があるのです。

また自分が日頃誰に対して、何に対してどのような期待をしているか、それに都度都度気づくように練習することですね。地道な訓練だと思います。