過去誰かの弟子だった記憶?

人のマインドの一番奥底には、無数の誰かの人生の記憶が、いにしえの記憶が隠されています。それを私たちは自分の過去世と思ったりするのですが…。

その記憶は、何かのきっかけによって表面に上って来ることもあるでしょうね。場合によっては、夢の形となって顕われることもあるかもしれません。

私の中にもそれを感じることがたまにあります。私はこの人生においては、どんな宗教とも無関係の人生を生きてきました。どちらかといえば、科学よりの考え方がベースにあるのです。

ところが不思議なことに、導師(マスター)と弟子の関係について思いを巡らすと、突然ものすごく熱いものが込み上げてくることがあって、自分でもびっくりするのです。

導師と弟子などというものは、この人生では全く縁のないものであり、少し前まで全くそんなものに興味も持ってはいませんでした。

けれども、この数年の間に、どうもそれに関係するような記憶らしきものが奥深くに眠っているのではと感じるようになったのです。どこかで知っているのです。

導師を完全に信頼している自分をイメージし、それを見つめていると、何とも言えない深い愛の中でくつろいでいる感覚がやってきます。

それと同時に、またそれを体験したいという強い衝動のようなものがやってきます。この人生では、自分が誰かの弟子になるということはなさそうですが…。

一体どんな導師の弟子だったのだろうと思いをめぐらしていると、とても暖かな気持ちになれます。きっとその時の記憶のおかげで、今内面への探究が起きているのだろうなと思うのです。

無防備な生き方を発見する

クライアントさんとお話しをしていると、本当にどうやって生きて来れたのだろうと思ってしまうこともあります。ご本人は極めて淡々とされているのですが。

かえってそれを伺っている私の方が、ハートが苦しくてどうしようもなくなってしまうこともあります。私が一人で泣いても仕方ないのですが、どうしようもない場合もあります。

そんなクライアントさんは、大抵が人生と闘っているのです。そうでもしなければ、やはり生きては来れなかったからなのでしょうね。

その闘いによって、生き延びることができたその一方で、繰り返し自分自身に犠牲を強いることにもなってしまったのです。

子供のころには選択肢はありませんでした。だから過去を悔いる必要はまったくないのですが、少しずつでも闘うことから足を洗っていくことが大切なのです。

闘っていることに気づいていなければ、まずはそのことを認識することが癒しの第一歩となりますね。気づいている場合には、どうしてそれがやめられないかを見ること。

すべては子供の頃に必要に迫られて、無自覚に作ってしまった自己防衛の回路を発見して、それを緩めていくことです。

そして、その回路を稼働させている原動力となっている、過去のネガティブな感情を真正面から味わって、消化してしまうことです。

新しい無防備な生き方を一瞬でも体験することができたら、もうその味わいを忘れることはできなくなるはずです。

できないよりできるに価値がある?

何かをやり出すと、そのことに夢中になるあまりに、自分がどれだけ無理をしているのかということが分からなくなって、後でそのツケがやってくるという人がいます。

もしも、それが本当にやりたいことであるなら、後でやってくるツケは単に身体の疲労だったりするわけです。たとえば、じっと凝視するあまりに目が疲れるなど。

けれども、その一方で精神的な無理がそこにある場合には、間違いなく精神的なツケがやってくることになってしまいます。

たとえば、あまり気乗りしないことだったり、仕方なくやることになったことなど、普通なら嫌だなということが頭から離れずにいるはずなのに、それを忘れてしまってやってしまうと、その無理は内面を傷つけることになるのです。

それはきっと、自分の能力が存分に発揮されている、自分はきっと誰かの役に立っているという思いが価値を生み出して、その安心感に後押しされて頑張ってしまうのでしょう。

私たちのエゴは、できないよりもできるということに価値を見い出す性質を持っているからですね。できてもできなくても、どちらでもいいという本質に気づくことができるなら、この問題は起こりません。

そして、いつも自分のマインドと行動を観ていることができるなら、やはりこのような問題からは解放されることになるでしょうね。

腹痛をただ見るのは難しい

今日は久しぶりに、なぜか腹痛がやってきて翻弄させられてしまいました。仕事を始めるまえには、ほとんど回復してくれたのですが、終わったらやや戻り気味になって…。

その腹痛の最中に、面白いことに気づきました。苦しんでいる自分をじっとただ見つめている存在がありました。それも、非常にはっきりと。

そのただ見ている自分の方に、普段はいられるようにしているのですが、その時ばかりはどうしてもそっちには行かないままでいるのです。

つまり苦しんでいる自分から抜け出せないままに、ただ見ている自分の存在も隠しようがないという状態だったということなのでしょうね。

苦しんでいる自分からすると、ただ見ている自分は助けてくれるでもなく、苦しみを分かち合おうとするでもなく、淡々と私の奥から私を見ているに過ぎません。

それが分かって、ちょっと憤慨してしまいました。なんて役立たずなんだと…。けれども、問題はそこにあるわけではなくて、そっちの側になることができないことこそが問題なのです。

で、頑張って腹痛の中、何度か観ている側に行くのですが、やっぱりすぐに戻されてしまうのです。誰かさんが、苦しんでいる側の方を好んでいるということなのかもしれませんね。

慢性的な酷い疲労について

他の人はみんな元気なのに、自分はどうも体力が続かなくて、いつも疲労気味だという自覚のある方はいらっしゃいませんか?

平日に仕事をするのが精一杯で、週末ともなると外に出ることも煩わしくて、一日中部屋の中で横になっているという方はいらっしゃいませんか?

もしもそのような症状があるのでしたら、それは体力の問題では決してないということに気づく必要があるでしょうね。身体が弱いのではありません。

疲労しているのは、あなたの内面なのです。自覚があろうとなかろうと、あなたは日頃からずっと精神的に無理を強いてきたということです。

無理が続くと、そういう極端の真反対である何もする気がおきなくなるという極端へと持っていかれるのです。それが、身体の疲労となって顕われたということですね。

問題を解決するためには、まず初めに自分は一体何を無理しているのか、どんな我慢を強いているのかということを、じっくりと見つめてみる必要があります。

そしてそれが自分を守るためにしていることだったと気づくことができるなら、そこから癒しを進めて行くことができるはずです。

ご自分独りでは時間がかかるようなら、専門家の力を借りることも検討することですね。

どこにも行先などない

きっと2~3歳の頃、私たちは親によって間違った方向へと引っ張られ、間違った方向へと自ら進みだしてしまったのです。その方向とは?

それは、自分から遠ざかる方向です。自分のままではいけない、もっと何かができる別の誰かに向かって突き進み出してしまったのです。

だから、進めば進むほど辛くなってしまったのです。誰かのようになろうとしたり、何かになろうとすればするほど、そのままの自分を否定することになるのです。

一度思い切って、ただ在るがままの自分に戻ってみようとすることです。これまで突き進んできた方向を180度変えて、振り出しに戻ればいいのです。

そこには、何者でもないただ在るがままの自己が残っているはず。それを真正面から見ることです。もしかしたら、それは物凄く怖いことかもしれません。

なぜなら、これまでの投資が全部無駄になってしまうかもしれないからです。それでも、起点に戻っていくなら、そしてあるがままの自分も通り越したその先には…。

そこには広大なる虚空が在ると分かるはず。その気づき自体が私たちの本質に違いないのでしょうね。私たちには、元々進んで行くような方向などなかったということです。

良い習慣と悪い習慣

健康にいいとされる早寝早起きとか、野菜をたっぷり食べるとか、毎日の軽い運動やストレッチなどは、きっと良い習慣ですが、そういう習慣というのはすぐにやめてしまうことが多いものですね。

その一方で、夜遅くに食べる習慣、食べ過ぎる習慣、寒い朝などはゆっくり寝ていたいからいつまでもグズグズしている習慣、こう言った悪い習慣は逆になかなかやめられません。

それならば、ずっと続けた方がいいと思っていることは、積極的に悪い習慣にしてしまえばいいのです。私の場合は、瞑想を悪い習慣にしてしまいました。

つまり、病みつきになったということ。何にせよ、病みつきになるということは悪い習慣ぽくないですか?そうなったら、もうなかなかやめられません。

病みつきにしてしまうためには、余程いいことがあればいいのです。私の場合だと、独りきりになって誰かのケアをしないで済む。

疲れた目を休ませることができる。身体が温かくなって、温泉に浸かっている気分にもなれるので気持ちがいい。あとは、言葉で表現できないアレがやってくるのが嬉しい等々。

こうなったらもう病みつきです。そうなってしまった瞑想は、自分にとっては悪い習慣なので人には積極的に言うことができなくなるという欠点もありますが…。

どんな条件付けもいらない

幼い頃に親からもらった条件付けというものが、その人のその後の人生にいつまでも影響を与えることになるということを、多くの人は知らな過ぎです。

たとえば、親の反応が次の二つであったとします。一つは、自分に都合のいい子供であれば優しく接するという面。そしてもう一つは、子供の言動が少しでも都合が悪ければ、烈火のごとく怒るという面。

この二面性で育てられた子供は、どうやっても親の優しい面を求めて、親の言いなりになるように仕向けられてしまいます。

親の気持ちを悪くしない、親の話しを聴いてあげる、親と一緒にいてあげる、自分の気持ちを親に言ってはいけない、そうしたルールを死守することで優しい親でいてもらうようにする。

こうした条件付けは、大人になってもはっきりと残るものです。そして、その条件付けのとおりに、今度は親以外の周囲の人たちに対して関係性を作ろうとしてしまうのです。

それがどれほどの自己犠牲を生むか、どれだけ怒りを蓄積することになってしまうか、それでもその条件付けはそう簡単にはなくならないのです。

それは、その条件付けによって人と関係を結ぶことしかできないマインドの部分が出来上がってしまって、それ自体が消えたくないと思っているからです。

条件付けは全く消し去ることは難しいことですが、癒して行くことでそれをできるだけ使わないような生き方に変えて行くことはできるのです。

人はどんな条件付けも絶対に必要ありません。

エゴは消えたくない

エゴが落ちたら、自分という個人は消えてしまいます。それは決してあり得ない話しではありません。なぜなら、自分という個人がいるというのは、単なる思い、思考に過ぎないからです。

ただし、その思いは物凄く固くて、本人にとっては動かしがたい事実のように感じているので、よほどのことでもない限りは、自分が消えるということはありません。

とはいうものの、自分が消えたらどんな感じなんだろうと考えてみたことはありますか?もしも自分がいなければ、当然のことながら相手もいないと分かります。

自分が居なければ、この地球上には他の誰もいないということが瞬時に分かるはず。私たちは、自分がいるので周りにも他人という個人がいると感じているに過ぎないからです。

自分がいなくなったら、きっと、それまで自分に起きていたあらゆることが、他人に起きているかのように感じられるようになるでしょうね。

それまでの自分の経験が、全部丸ごと他人のした経験であるかのように感じて、傍観することになるはずです。自分が怪我をしても、誰かが怪我をしたように感じる。

残念ながら、怪我による痛みはその肉体には自分がいたときと同じようにあるはずですが、それでもその痛みを感じている自分はいないのですから、楽なものです。

ただこの肉体のある場所に痛みという感覚があるということです。自分がいなくなると、個人的な欲望や望みのようなものは消えてしまうでしょう。

当然のことですが、守るべき自分がいないのですから、苦しみの根源である自己防衛の必要がなくなり、無防備になっていくはずです。

それは間違いなく愛が活性化することになりますね!自分がいないと、こんなにいいことばかり。それでも、私というエゴは消えたくはない、そう言っているようです。

気分を悪くしていたい奴

私は昔から、ちょっと体調が悪いなと感じると、すごく気分が悪くなるのです。子供の頃からそうした気分の悪さを隠すことができなくて、すぐに表へ出てしまうのです。

だから、大人になって失礼のないようにしなければいけないと思った相手の前で、気分の悪さを隠さねばならないのが、本当に嫌いなのです。

そして、この気分(機嫌)の悪さというのは、自分の中では絶対的なものであって、何よりもそれが優先されるようにできているようなのです。

それがやってきたら、もう大抵のことはおざなりになってしまうし、大切な人にも辛く当たってしまうことも多々あります。簡単に言えば、子供のままだということかもしれません。

けれども、そんな絶対的と思っていた気分も、何か物凄く嬉しいことなどが起きれば、たちどころに変化してしまうことも経験上知っているのです。

もしも、宝くじで一億円当たったとなったら、きっとあっという間に上機嫌になるだろうし、身体の具合の悪さなどどうでもいいと感じるはずなのです。

ということは、気分(機嫌)は変えられるということ。それが可能であるのに、なかなかそうしないでいるということは、そうしたくないという奴がいるということですね。

つまり、気分を悪くして、機嫌を悪くしている状態でいたいと思っているマインドの部分があるということです。きっと、彼は何等かの文句を抱えているのでしょう。

かといって、安易にその気持ちを受け止めようとしても、簡単にはその手には乗らないぞ!という意固地なところもあるようで、誠心誠意の対応が必要のようです。

手が焼ける内面なのですが、やはりもう少し手厚く見てあげることも大切なことなのかもしれません。気分が悪くたっていいよ、と言ってあげることにします!