自分の単純な存在を楽しむ

肉体を持って生きている個人としての私、つまりこの自我はある時間にある場所を占有して生きています。

いついかなる状態であれ、その時間とその場所を特定できるのですが、それと同時に全体性としての自分はそのどちらにも関わっていないのです。

自分自身や周囲の空間にしっかりと意識を向け続けていられると、全体性の感覚がやってきます。

それは何処というのを特定できないし、時間的な流れも消えてしまいます。自我であると同時に全体性を感じることは、難しいことではないのです。

問題はその両者の比率かもしれません。自我の感覚よりも全体性の感覚の方が上回ってくれると、至福感もそれに連れて増えていきます。

それはいっさい何の理由もなく、自分の単純な存在を楽しんでいるような感覚と表現できるかもしれません。

私の自我は貪欲なので、その全体性の感覚を一緒になって楽しんでいるのですから不思議ですね。

全体性でもいいし、真の自己でもいいし、自分の本質でも何でも言葉は構わないのですが、それは卑小な自我をただ見守ってくれているようです。

そして私の本質はあなたの本質と一つものです。なぜなら、宇宙で唯一のものだからですね。宇宙が消滅しても、それだけはいつも在り続けるのですね。

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