物語の中の自分を見る

私たちは、誰でも自分の国籍、自分の性別、自分の年齢について知っています。あまりに当然過ぎて、なぜ知っているのかということも考えたりしません。

けれども、もしも今この瞬間だけに限って自分を正直に見つめてみたら、自分にまつわることは分からなくなってしまうのです。

つまり、過去の記憶を辿っていくことで、そうした情報を獲得するだけなのです。その情報を読むことをせずに、自分の年齢や性別を知ることはできません。

実際、深く瞑想の中へ入っていくなら、自分が誰なのかというあらゆる情報がなくなってしまうと同時に、そうした情報について無頓着になってしまうのです。

なぜなら、そうした情報がただの情報であり、本来の自分とは無関係のものでしかないということが明らかになってしまうからですね。

目を開けて、自分の身体を見ればそのときには身体の性別を知ることは可能ですが、自分の内面においての性別は不定なのです。

あなたの身体の性別は○○で、内面の性別は○○で、好きになる人の性別は○○だとして、それが一般常識とずれているからといって、問題視する必要などないのです。

そのくらい、無頓着になって、世間の正しさから遠のいていることができるなら、何であれ自分を責めることもなくなっていくはずです。

自己探求によって、探究者を探究し続けていけば、より物語の中の自分の姿と自己の本質の違いが明確になっていくものです。

人生という物語の中で、自分がどんな肌の色をしていて、どこに住んで、どんな生活をしていようと、それをただ見ている自己に気付いているだけでいいのです。