最初で最後のステップ?

最初で最後のステップは、

自分が誰であるかを知ること、

目覚めることだ。

by osho

何で自分はいつもこんなことにばかりに、意識が向かってしまうのだろうとみてみれば、それはとてもシンプルなのですが、きっとこの世界に絶望しているからだろうと分かります。

ただその絶望が、完全なものではなくて、マインドの他の部分ではまだまだ根強い期待、きっともっとよくなるはずだという根深い希望も残っているのですね。

その両方が一つのマインドの中で拮抗しているから、ずっと今の状態のままでいるということなのです。希望を捨てきれずにいる側を見ると、あれやこれやを欲しがっているのです。

一方では、それが虚しいと感じるマインドも確かにあるのです。だから瞑想の方に逃げようとしているのかもしれません。そうだとするなら、瞑想もある種の自己防衛になってしまいます。

であるなら、瞑想や目覚めることへのどんな期待も消えてしまったときにこそ、本当に覚醒がやってくるのでしょうね。それをエゴの力で成し遂げることが不可能なのは明白です。

自分の本質と出会いたいという欲望、これも落ちていかなければ、自分が誰かを知るに至ることはないということですね。

目標が消えればエゴも消える

ひとたび理解したら、いっさいの目標は消える。

そしてそのすべての目標と共に、”あなた”が消滅する–。

その後に残るのがエンライトンメントだ。

目的はないと知ることが、すべてあるがままでよいと知ることが–光明を得るということだ。

私たちはみな同じ現実に参加している。

比較する必要はない。

by osho

私たちは、目標のない人生なんて価値がないと思ってしまうのです。価値がない人生なんて、無意味だから、それでは自分自身も無価値な、無意味な存在になってしまうと感じるのです。

だから絶対に目標をなくしてはいけないとばかりに、その目標にしがみついているのです。エゴと目標は一対だと思った方がいいのです。だから osho は、目標が消えれば、「あなた」が消滅すると言うのです。

無価値、無意味の感覚の中に静かにじっとしていることができるなら、それと戦わずにいることができるなら、それを怖がっていた自分もその感覚もどちらも消えていくのです。

けれども、その怖れに負けてしまい、気がつくとまた新たな目標を掲げて、自分には価値があるということを証明しようと頑張り出すのです。

この繰り返しを打開するためには、とにかく思い出すことです。思い出すたびに繰り返し、無価値感と無意味さの中に居続ける練習をすること。

とにかくそれと戦わずにいるクセをつけること。目標が薄れていくにつれ、夢や希望も小さくなり、それが全く違った心地よさをもたらすようになるはずです。

 

自分の先入観を見抜く

誰もが自分の肉体がどこにあるのかは知っているのですが、自分の本質、肉体とは違う自分そのものがどこにあるのかは知らずに生きているのです。このことは、ちょっとした実験によって明らかになります。

そして不思議なことに、自分がどこにいるのかが分からない、という感覚を素直に認めてしまうと、今度は突如として自分は全てなんだという感覚がやってくるのです。

どこにもいないことと、全体性とは全く同じものだったのだと気づくのです。自分の存在について、位置という概念がないのは、無か全体のどちらかであるとも言えますね。

それは言葉の上のことだけでなく、その両者は体験として一つだということ。この気づきは、自分を見つけられないということをどれだけ正直に受け止められるかにかかっているのです。

認めることができれば、すぐにでも全体性が向こうからやって来てくれます。全体性が何のことか分からないという人もいるかもしれませんが、これは能力の問題ではありません。

これまで培って来たどんな常識でも、どれほど当たり前と思っていることであれ、それらを潔く脇に置いて、今この瞬間に自分に見えていることを認められるかどうか。

蓄えて来た知識は、知っていることではないと見抜くことができれば、知識などすぐに脇へ置いておくことができるのです。知識ほどチープなものはありません。

人生には目的などないのですが、100歩譲ってもしあるとするなら、どんな先入観もなしに、目の前にあるものをあるがままに見ることではないかと思うのです。

そのためには、自分がどんな先入観を持っているのかを、しっかり見抜くことが必要なのですね。

良いことも悪いこともない

プロテニスプレイヤーの錦織選手が、利き腕である右手首の腱損傷により、今季絶望とのニュースを目にしました。応援していたので、本当に残念でなりません。

しばらくは彼の試合を見ることができないのも残念ですが、本人はもっともっと辛く、そしてきっとじくじたる思いもあるのではないかと思います。いつもギリギリのところで、満身創痍で戦っているのでしょう。

けれども、超一流の選手が大きな怪我をして、復活したときにいろんな意味でより大きな選手になって戻って来た姿をよくみるのです。人は苦境に立ったときに、何か大切なことに気づかされるのですね。

そういうチャンスが今、彼にも訪れているのだと思えばいいのだろうと。常に順風満帆では、気づくことのできないことが人生にはたくさんあります。

私自身も、大病をしたおかげで今の仕事を手にすることができたのです。辛いことの渦中にあるときには、心の余裕を失くしてしまいがちですが、そこから逃げずにいるなら、必ず人は一皮向けた生き方をするようになれるのです。

そして次第に、都合のいいことが起きても、都合の悪いことが起きても、それらにかかずらうことのない生き方ができるようになっていくのでしょう。つまり起きていることとは独立した自己がそこに在るという感覚。

人生を物語として見ることができるなら、起きていることから離れた自分の本質と一つになっていることができるのですね。

ずっと夢の中にいたい!

あなたは目覚めなければならない。

目を覚ましているのは骨が折れる。

なぜなら数知れぬ夢が打ち砕かれるからだ。

しかも、これらの夢には、あなたのあらゆる喜び、いわゆる野心や成功のすべてがからんでいる。

まさにあなたの自我全体がからんでいる。

その自我がこなごなになる。

by osho

つくづく思い知らされますね。自我はずっと目覚めることなく夢の中にいて、あらゆる願望、欲望を実現するべく、その未来に期待して生きているのです。

それがなくなってしまったら、エゴは持ちこたえることができないのです。だから目覚めたくないと分かっているのですね。

未来がなくなってしまったら、究極の絶望を味わうことになるのですが、それが「死」を恐れる本当の理由だとも言えます。

死はどんな夢を見ていることもできなくさせられてしまうからです。覚醒する、目覚めるとは未来がなくなるということ。

未来が消えれば、それとくっついて離れることのできない過去も一緒に消えてしまうのです。だから、目覚めれば「今」という実在を見ることになるのですね。

気が遠くなるほどの長い期間、それこそ何千年も何万年も、私たちは目覚めずに夢の中を浮遊しているのですが、それでもまだまだ夢の中にいたいのでしょう。

私は個人的には、目覚めなければならないとは思わないのですが、夢が永遠に続くようにと願うのも、夢の中でだけのことで、どうしたっていずれは目覚めることになるのです。

目覚めた時にはもちろん、どんな長い夢であろうと一瞬にして消えていくこと変わりはないのですね。

物語の外には何もない

人生の中には、たくさんのものが凝縮されています。それは人生の目的だったり、目標だったり、人生の意義、意味、価値、それらが複雑に絡み合って物語を作り上げているのです。

けれども、そうしたものは実在するものではなく、すべてが観念によってでっち上げられたものでしかありません。それは思考によって作り出された物語の中にだけ存在するのです。

その結果、人生の愛憎劇や、嫉妬、執着などが多発して、私たちはそうしたものに日夜翻弄され続けているのです。苦しみはそうした劇中の登場人物と同化することによってのみ起きるのです。

だから苦しみから解放されたければ、人生を物語として観る目を養うことです。物語の外には、ありのままの生だけが実在するのです。

そこには、どんな目的も目的地もありません。生はいたって単純明解なものなので、思考で理解することは不可能です。ただ観ることができるだけ。

エゴは物語の中に埋没し続けることで生き延びようとしますが、それは必ず苦悩と共にあるのです。

一方、生は幸不幸もなく、善悪も正不正も何もない無の世界。物語も消えてしまうので、そこには時間すらありません。真実という永遠だけが実在するということですね。

「昼下がりの背徳」って??

昔から気になっていたことの一つに、洋画の題名が内容とあまりに違うことがあるということ。洋画の場合には、勝手に日本語の題名が付けられてしまうんですよね。

原題がそのまま使われるケースもあるのでしょうけれど、原題とはかけ離れた題名になってしまっているケースが多々あるのです。

最近ネットである映画を観たのですが、自分としてはすこぶる気に入ったのか、珍しく観終わってすぐにもう一度、始めから見直したくらいの映画だったのです。

実はその映画の邦題は、「昼下がりの背徳」っていうちょっと怪しげなもので、これじゃあわざわざお金を払ってレンタルビデオ店で借りないでしょうと思うのですが…。

フランス語での原題をそのまま直訳すると、「美の王国」くらいになるのですが、それにしても題名によってあまりにも印象が違いますね。

私の見立てでは、原題でさえ本当に伝えたいことを表現してはいないと感じたのです。きっとそこには、隠された作者の意図があるのではないかと。

期待して解説文を読んでみたのですが、これまたひどすぎる。ただ、出来事を列挙しているだけで、これを読んで是非観てみたいと思う人は皆無なのではないかと。

この映画を見ながら最も共感したのは、人も羨むような生活を手にしたとしても、真に満たされることはないというところです。これが、人間の最も不幸な部分なのですね。

きっとこうしたことに人は気づきたくないのです。邦題を決めた人も、解説を書いた人も、作者の意図を汲み取らずに、上っ面をサラッと観ただけだったのかなと思うのです。

ハートがアートを創り出す

↑ これは、数日前に家の近くで撮った虹の写真です。クルマで帰宅途中に空を見てびっくり!思わずクルマを止めて、パノラマモードで撮ってみました。

虹を見たことはもちろんこれまでにも何度もあるのですが、虹の両方のふもとまでこれほど綺麗に見えたことはありませんでした。

写真では虹の径が小さく見えますが、実はすごく広くて、とても普通にシャッターを切っていたら、このようには写っていないはずです。

私が写真を撮り始めたときには、私以外にはその辺りには誰の姿もなかったはずなのに、数枚の写真を撮り終えてクルマに乗ろうとしたら、結構な人数の人たちが立ち止まって虹を見ていました。

誰でも自然が作り出すアートには、一瞬我を忘れて見入ってしまうのでしょうね。不思議なものです。

けれども、空にアートが描かれているのではないのです。実は、アートはそれを観る私たちの内側にこそあるということです。

どんなものにでも美しさを感じる感性があるなら、この世界が丸ごと美術館にでもなったように感じることもできるかもしれませんね。

何をどう感じるかは、私たち一人ひとりのハートがどれだけ開いているかにかかっているのです。

「ただ観る」ことの難しさ

夏のギラギラする太陽が雲隠れしている時を見計らって、近くの公園に散歩に行ったときのことです。池の周りをいつものように歩いていたら、足元の土にきれいなまん丸の穴が空いているのに気づいたのです。

↑ のような直径1cmもないような小さな穴なのですが、踏み固められた土にきれいな形であいているのです。それもあちこちに沢山あるのです。

最初のうちは、子供が傘の先端を突き刺して遊んだ後かなとも思ったのですが、それにしては丹念に開けたなあという感じがするのです。

何かの虫が出てきた後かとも思ったのですが、あれほど踏み固められた土の中に虫が入っていたとも思えないので、不思議に思いつつも分からずにいたのです。

散歩を終えて戻ってからネットで調べてわかったのですが、どうやらあの穴は蝉の幼虫が這い出てきた穴だったようです。

個人的には、もっと端っこの誰も歩かないような、比較的柔らかな土の中にいると想像していたので、びっくり。なんで土の中にいる幼虫は踏み固められた土の中でも潰れないのだろう?という素朴な疑問。

自然界で生きているものというのは、見た目以上に逞しくて強いものなのかもしれないですね。勝手にか弱い存在だからかばってやらねばと思うのは、違うのかもしれません。

私たちは、自分の思い込みで対象物を判断する習慣があるようです。例えば、子供は幼いので何も知らないものだと思っていても、場合によっては大人以上に気を使っていることもあるのです。

どんな先入観も持たずに、判断や解釈なしにただ観るということがどれほど難しいことか、思い知らされますね。ただ観ることができるなら、どんな疑問も起きることはないということです。

マインドが育ってない無邪気な幼子の目であの蝉の穴を見るとき、きっと疑問が生まれる代わりにただジーッと見るだけなのでしょうね。

エゴと問題は一卵性双生児

問題というのは実在するものではありません。問題について対処しようとすれば、問題はより確固としたものとして映るのですが、一方で問題を受け入れるなら、問題は消えて行くのです。

エゴの好みは、実在しない問題を見出してはそれを解決すること、それを乗り越えて行くこと。だからエゴは決して問題を受け入れようとはしないのです。

問題が実在しないのは、物語が実在しないのと同じことなのです。問題もエゴそのものも物語の中にしか、見つけることはできないということです。

したがって、問題から離れたければ、ひたすら物語をただ観るようにすればいいのです。物事が起こる様を、物語を観るように観るということ。

一つはっきりしていることは、実在しないものと戦えば、いつか必ず負けをみることになるということです。実在しないものに力を与えているのはエゴの愚かさです。

エゴと問題は一卵性双生児のようなもの。エゴあるところに問題があり、問題があるところにエゴがいるということです。だからこの世の中は問題だらけなのですね。

けれども、ひとたびすべては物語だと理解するなら、その時にはエゴからも問題からも離れていることができるのです。

自分で自分に問うてみてください。問題が好きかどうかを…。きっと何も問題が起きない人生なんて、退屈過ぎて死にそうだと気づくはずです。