タヌキ一家との遭遇

↑ これはご存知タヌキですね。ちょっと可愛らしい感じがしますが、みなさんはどう感じるでしょうか?実は先日、自宅の近くの路上でタヌキの家族と遭遇してしまいました。

あまりにも突然のことだったので、そのときにはタヌキだとは分からなかったのですが、とにかく犬でも猫でもない何か見慣れない動物を見てしまったという感じでした。

7〜8匹くらいの家族?で、私に見つかったとばかりに、大急ぎで逃げていくところでしたが、一番最後にいた小さめの奴がふと立ち止まって、私の方を振り返ったのです。

5秒くらいのことでしょうか?互いにじっと見つめ合った状態でいたのですが、先の方を走っていた大人のタヌキたちが戻ってきて、早く行くぞとばかりに促されて、その子は行ってしまいました。

自宅に戻って家人にそのことを話したところ、1匹だけだけど家にも来たとのことで、幸運にも説明するまでもなくタヌキとの遭遇を分かってもらえたのです。

きっと檻の中でペットのように飼われていたものが、全員で脱走してきたのだろうと思っていたのですが、ネットで調べてびっくりしました。何と、東京には沢山の野生のタヌキが棲息しているのだとか。

自宅近くでも目撃情報があったようで、これまでまったくそんな情報も知りませんでしたし、遭遇体験もなかったので、まさか東京の住宅地で野生のタヌキの家族と鉢合わせするなんて…。

タヌキなんて動物園かよっぽどの田舎に行かなければ見ることはできないと勝手に思い込んでいたので、ちょっとした衝撃でしたね。

自分の家と同じエリアにタヌキの家族の住まいがあるなんて、それを想像しただけでちょっといい気分になったのです。また会えないかな〜と思っているのですが、あれ以来見かけることはありません。

タヌキも可愛らしいのですが、タヌキになりたいと思う人は誰もいないでしょうね。なぜなら、タヌキにはエゴがないからです。一度エゴを持ってしまうと、エゴのないことを想像するのもいやなのです。

だから私たちのエゴは、決して動物になりたいとは思わないのです。どれほど人生が辛くても、エゴはエゴのままでい続けたいのですね。

だって、タヌキにはエゴの持つ苦しみはありませんが、苦しみがないという自覚を持つことができないのですから。

瞑想によって砂鉄がはずれる

 

↑こんなの見たことありますよね?これは、磁石とその磁力に惹きつけられた砂鉄の写真です。きっと小学生の頃に、理科の実験か何かで習ったはずです。

私は子供心に、磁石というものが不思議で不思議で仕方ありませんでした。目に見えない力が働いているということに、驚きを感じたのでしょう。

この写真から連想してしまうのですが、私たちが抱え込んでいる思考も、これと似たようなものなのではないかと思うのです。

磁石は、そこそこの年齢になるまでに凝縮した思考の塊であるマインドを連想させるし、そのマインドに引き寄せられた砂鉄は、日々抱え込んでいる思考をイメージさせます。

きっとこんな感じで、浮遊している無数の思考を引き寄せながら、生活しているのです。どんな砂鉄(思考)を引き寄せるかは、それまでに作り上げた磁石(マインド)によって異なるのです。

そこは磁石とマインドの違いですね。磁石は一律に砂鉄を引きつけますが、思考群であるマインドは、それに見合った、つまり同じ波動の思考(と現実)を引きつけるというわけです。

だから思考は自分のものではないし、独自の思考などというものもないということです。どこかに浮遊している思考をキャッチして、自分の思考だと思い込んでいるに過ぎません。

磁石にくっついた砂鉄は簡単に指で取ることができますね。同じようにして、静寂の時間を作ってあげれば、こびりついた思考をマインドからはずしていくことは、それほど難しいことではありません。

本当に難しいのは、自分はマインド(磁石)だという思考をはずしていくことです。これはもちろん、意思の力ではずすことは不可能です。

いつも言うように、意識的であり続けることによって、凝縮した思考(マインド)も少しずつ緩んでいき、終いには砂鉄と同じようにはずれていくのです。

そして後に残ったもの(何も残らないのですが)、その無こそが私たちの本質なのですね。

カラクリはいつか消失する

私たちはいつもカラクリを知りたがるのです。人間はなぜ生まれてくるのか?人生にはどんな目的があって、それにはどんな価値があるのか?

そもそも宇宙のカラクリはどうなっているのか?解明したくて、謎解きをしたくてウズウズしているのです。カラクリが分かったときのあの爽快感がたまらないのです。

それを探究心と呼ぶこともあるし、好奇心と言うこともありますね。とにかく知りたがり屋なのです。幼い頃は、きっとどんな子供でもその傾向が分かりやすく出ていたはずです。

けれども大人になっていくにつれて、日々の生活の中に没入することで、次第に謎解きに興味を失っていく人が多いのも事実です。そんな人でも、年老いてこれといった目標や生き甲斐などがなくなると、突然思い出すのです。

なんで生きてるんだろうって…。その一方で、生活の奥に隠しながらも、密かに継続してこの壮大な宇宙や自分という存在のカラクリを探究したいと思ってきた人もいるでしょう。

私はどちらかというと後者の部類だと思います。そして今は自分のそういう気質に感謝するようにすらなっています。というのも、年齢を重ねてから突然カラクリが気になり出しても、手遅れになるケースが多いと感じるからです。

最後の方で、宇宙のカラクリよりもそれを解明しようとする探究者を探究するというフェーズに来れたからです。そして最後の最後では、探究そのものが落ちることで、探究者そのものが落ちていく…。

カラクリそのものも消失していくということですね。

本当の自由とは?

私たちは、自分のことも他の人のこともみんなそれぞれに自律的な存在だと思い込んでいます。自律した存在だと捉えているということです。でも本当は、単に自律しているように見えるということ。

あたかも誰もが能動的に人生を生きている、他と連携をとりながらも、究極的にはそれぞれが別々の意思を持って、自由に動ける存在なのだというわけです。

誰からの圧力にも屈せずに、独自路線を貫き通せるなら、その人は本当の自由人だと思われるのです。確かに、誰かのいいなりになったり、自己表現もできないなら、それは奴隷のような人生になってしまいます。

そんな理不尽な牢獄にはまり込んでしまった人にとっては、もっと自由に生きていけるなら、夢のようだと思うでしょうね。あなたのエゴを表面に出しても生きていけますよと、伝えたくなります。

そのようにして、不自由の真っ只中からもっと自由で、自律した人生へと変えていくのが一般的にいう癒しなのですね。だから人は癒されていくにつれて、重苦しさが消えて、清々しい気持ちになっていくのです。

それはそれで素晴らしいことなのですが、完全に自律的に生きて、自分は自由だと感じたとしても、どこか真の自由ではないのではないかという、何か歯がゆいような物足りなさを感じることになるのです。

自律によって得られる自由は、まだ本当の自由ではないからです。真の自由とは、自分の中にいる「私」から自由になることだからです。

「私」というエゴから離れることによってしか、真の自由になることはできないということです。だから癒しの先にあるものは、癒しの延長ではなくて、癒す対象から離れることなのです。

それを覚醒と呼んだりするのです。

あらゆる物事はやってくる

この仕事をする以前から、ずっと女性の方が男性よりも優れているということに気づいていました。それは、男性性が攻撃型であるのに比べて、女性性は受容型だからです。

人間だけでなくあらゆる存在の本質は、受け身、つまり受容性なのです。だから女性の方が真実に近いということですね。いつも受け身でいなさいということを言いたいのではありません。

そのような「べき論」ではなく、ただ本質としてあらゆる物事はやってくるということに気づけばいいのです。自動的にやってくるものの中に、自分たちも含まれるのです。

ただエゴは、そうは思いたくないらしいのです。そのことを頑なに否定して、忘れようとしているのかもしれません。けれども、残念ながら私たちの本質に主体性というものはありません。

だってすべては向こうからやって来るだけなのですから。これに反することはすべて自然ではなくなってしまうのです。エゴは自然と対立し続けていたいのでしょうね。

物事の本質は、因果関係の中にはないのです。原因があって結果がやってくると思考することはできますが、本当はすべてが結果なのです。気持ち悪いかもしれませんが、原因というものはないということ。

ただただ結果がずっと起き続けているのです。あなたの意思も決意も感情も、すべてはただ起きていることの中の一つに過ぎません。

すべてを受容するとき、きっと自分は全体性の一部だということを思い出すことになるのでしょうね。

誰でもない自分に気づく

ときとして静かに坐ることがあったら
目を閉じて感じてごらん
自分が誰であり、どこにいるのかを–
深く進んでごらん
すると不安になるかもしれない
なぜなら、深く進めば進むほど
あなたは自分が誰でもなく
ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ

by osho

その不安は最初のうちだけで、何度も繰り返しているうちには不安よりも至福感の方が馴染んでくるかもしれません。そうなってくると、日頃自分は誰かだと信じて生きていることが滑稽に感じられるのです。

誰かのフリをして、平然とした顔で毎日暮らしているのですから。自分自身が誰かではなくなって、誰でもないただの存在だと気づくと、自分以外の誰かもいないと分かります。

つまり誰もいないのです。誰もいないのですが、全くもって満ち満ちているのです。誰でもない、何でもない、ただ実在が満ちている。平和な世界でも、ユートピアでもありません。

もちろん地獄などでもないし、すべてがただ在るということ。時々でいいので、少しの時間を利用して、こうしたことに意識を向けてみることです。普段は忘れてしまうかもしれませんが、それでも大丈夫。

私たちは修行僧ではないので、人生という物語がメインに据えられている感じは否めませんが、誰でもないに気づいているとき、超一流の修行僧であると言えます。

 

 

準備して待つこと

何であれ物事を深く見ることのできる人は、自分が何かを成し遂げたという感覚を持っていないものです。なぜなら、意思の力で成し遂げられるものなど、一つもないからです。

私たちが生まれてから死ぬまでずっと呼吸し続けているのは、決して意思の力ではないのです。どれほど努力しようと、自分の力で眠りに入ることも不可能なこと。

自分の力、意思の力ではどんなこともなし得ないということです。どれほど頑張ったところで、希望が叶う保証などできないことを見れば、結果は単にやってくるものだと悟るのです。

幼い頃に、一生懸命頑張って鉄棒の逆上がりを練習したとしても、それができるようになるかどうかは分からないのです。けれども、練習した結果、できるようになったと私たちはみなすのです。

もちろん、練習しなければいつまでたっても逆上がりはできないままであることも明白ですが、だからといって練習した結果としてできるようになるのではないということ。そんな保証はどこにもありません。

ここは深く理解する必要があるのですが、私たちにできることは練習すること、努力すること、そして結果がでるのを待つことなのです。努力と結果には実は因果関係はないのです。

ではなぜ努力するのかというと、結果がやってくる準備をしなければ、結果がやって来ない可能性が高くなるからです。もしくはやってきたとしても、そのことを取り逃がしてしまうのです。

このことを深く理解することができれば、自分にはどんな手柄を立てることもできないことがはっきりするのです。あとは、準備にのみ勤しめばいいのです。そして待つこと。

この「準備&待つ」こそが私たちにできる唯一のことだし、それに気づけば自然と期待も小さくなっていくのです。

 

マインドは裁き、ハートは共感する

人間は生まれて間もなく、五感を成長させるためにハートを成長させていくのです。ハートを使って私たちは感じることができるようになるからですね。

その後、エゴの芽生えと共に今度はマインドを成長させて行き、社会の一員として生きていくようになるのです。

エゴとはマインドの中で生きているものと思ってもいいくらいです。だから、エゴが強くなり過ぎてしまうと、ハートに比べてマインドばかりが使われるようになって、バランスが崩れてしまうのです。

ハートが無防備なのに対して、マインドは防衛から成り立っているのです。ハートが瞬間瞬間の感性であるのに比べて、マインドは論理や正しさを武器として成り立っているのです。

だからマインド優位の人は、ルールや倫理、こういった決め事を最も大切なこととして生きていくことになるのです。だからすぐに人としてどうなの?という目で他人を裁くことになるのです。

マインドは裁き、ハートは共感するのです。両者のバランスが崩れると、人は殺伐とした人生を生きる羽目になってしまいます。

先日、ある宗教を題材にした映画を観たのですが、主人公の看護師さんとその恋人とその家族がある宗教の信者という設定で、輸血はご法度という宗教の教えがあって、そこで心が揺れるのです。

その恋人が白血病で輸血しなければ命がないと分かっていても、恋人もその家族も輸血を拒否するのですが、そんな宗教に愛想を尽かして、彼女はその一家から離れていくのです。

彼女自身も輸血が必要なある患者さんに対して、唯一適合する血液型だったため、迷った挙句に自分の血を輸血する決意をするのです。もしも彼女がマインド優位で生きるなら、輸血はできなかったはず。

何か大きな決断を迫られた時に、マインドの縛りから離れて、臨機応変にハートの声に従うことができれば、バランスのとれた人生へと舵を切ることもできるということですね。

物事の正しさに依存せずにいられるなら、閉じていたハートが次第に開いて行き、マインドの代わりにハートを優先して生きることができるはずです。そのときには、より清々しい人生が迎えてくれるはずですね。

誰でもない自分に戻る

私たちは、普段自分のことを記憶の塊とは思っていません。自分とは一人の人間、一人の人格を持った人物だと思っているのです。ではそれが本当なのかどうか、よく見てみることです。

どうすればいいかというと、今この瞬間に生まれたかのように自分を見るのです。人生をどのように生きてきたのかということを抜きにして。なぜなら、過去の事象はすべて記憶データとしてしまわれているに過ぎないからです。

自分が記憶の塊ではないなら、それ以外の一体なんだろうと見るのです。だから、今発生した感じになればいいのです。そうすると、自分のことをどのように感じるでしょうか?

残念な気持ちになるのか、爽快な気分になるのかは分かりませんが、いずれにしても自分は誰でもないということを理解することになるはずです。記憶へのアクセスを止めてしまえば、そこに人物などいないと分かります。

人物とは歴史なのです。人物とは何を手に入れたのか、何を成し遂げたのか、自分の身に何が起きてきたのか、そういうあらゆる過去の歴史の集大成が自分を形作っているのです。

それらが自分自身ではないことは、誰だって知っていることですね。あるいは、自分はそうした体験、あらゆる経験をしてきた存在なのだというなら、それも過去データに過ぎません。

あらゆる体験は過去の中にのみあるからです。どうですか?何か清々する感じがしませんか?今生まれたばかりなら、どんなしがらみもないのですから。誰を恨むこともできないし、何に執着することも不可能です。

過去データと切り離されると、その瞬間に未来からも切り離されることに気づくはずです。未来に関する思考は、すべてが過去データを基にしているからです。

欲望がすべての苦悩を作り出すことが分かったからといって、欲望を捨てようとしないことです。欲望を捨てようとすること自体が新しい欲望だし、欲望を意志力で捨てることは不可能です。

欲望(=未来)は、自分が過去データから切り離されれば、自然と落ちるということです。今生まれたばかりの誰でもない自分なら、どんな欲望も持ち得ないということですね。

何かと忙しい毎日でしょうけれど、1日のうちに何度となくこの感覚に戻ってくる練習をしてみて下さい。少しずつですが、誰でもなさが自分の中で定着してくると思います。

選り好みがすべてを分離させる

誰にとってもとても難しいことの一つは、選り好みをしないということです。選り好みをして何が悪い?と思うかもしれませんが、いい悪いの問題ではなく、それが分裂を生むということです。

あれはいいけど、これはいやと思えば、もうそこで分離が起こるのですから。けれども、自分の毎日の生活を振り返ってみれば、選り好みをしないということがほとんど不可能だと分かります。

私たちが共通して持っている不安や孤独感は、自分と世界の分離感からやってくるのですから、このことがいかに重要なことか理解できるはずですね。でも選り好みはやめられない。

それをやめてしまったら、自分の個性そのものが消えてしまうと感じるかもしれませんね。確かに、それが「私」というエゴの個性を存続させているという事実もあるのでしょう。

個性がなくなってしまえば、「私」そのものも消えていく運命にあるのですから、それこそ必死になって選り好みをし続けようとするのも頷けるというものです。選り好みはエゴの生き残るための作戦なのです。

それなら、今日からはなるべく選り好みをしないようにしてみよう、そう思うならそれこそが新しい選り好みをしているのです。つまり、選り好みをしないという選択をしたということ。

いつも言っているように、本当に大切なことを意思の力で達成することはできないということを思い出して下さいね。意志力で選り好みをしないようにすることは不可能です。

じゃあどうしたらいいかといえば、これも毎度お馴染みのことですが、選り好みをする瞬間の自分をただ観るということ。年がら年中選り好みしていることに気づいていてあげること。

このことに意識的であること、これだけが時間はかかるかもしれませんが、少しずつでも選り好みが小さくなっていく唯一の方法なのです。