「背景」という真実

聞いた話しですが…、若輩者の魚と年寄りの魚が海の中で会話しているのですが、若い魚が、「どこかにとてつもなく広い海というものがあると聞いたのですが、それは本当ですか?」。

それに対して年寄りの魚が言うには、「わしも聞いたことがあるが、その海とやらは果てしなく広大だが、目には見えないそうじゃ」。

実際のところ、どんな魚であろうと海を見ることはできません。あまりにも近すぎて、あまりにも常にそれに囲まれているために、決して気づくことがないのです。

この逸話は私のお気に入りです。なぜなら、私たちも上の魚たちと同じような立場にいるからです。真実はあまりにも身近で、常に私たちの周りに在り続けているのに、気づくことができないでいるからです。

生まれてからずっと、何がどうあれ常に変わらずに在り続けている目には見えない「何か」に想いを馳せてみると…、どうでしょう?

私の場合、敢えて言葉で表現すると、あらゆるものの「背景」という感覚です。この宇宙、この世界の「背景」は常に在り続けているし、目にも見えない。

「背景」を全体性と呼んでもいいし、神と呼んでもいいし。はたまた、純粋な意識という表現もありますね。本当はどれもしっくりこないのは、所詮言葉だからです。

魚が漁師に釣り上げられたなら、息絶える瞬間に海を見るかもしれません。私たちも同様に、「私」という思いが息絶える瞬間、「背景」しかなかったと気づくのかもしれませんね。