印象を持ち歩かない その2

昨日のブログのつづきです。

何ということもない、「ピザ」という単語を10回言っただけで、それが印象に残ってしまい、そしてその印象が知覚を歪ませてしまうということを書きました。

記憶の中に残された印象というものは、厳密に言えばその瞬間にだけ通用するものなのです。それなのに、私たちはその印象をその後の知覚と共に利用してしまうのです。

それが知覚の歪みを起こすということです。幼い頃に歩いた道に、何十年ぶりに戻ってみたときに、あれこんなに細い道だったっけ?と感じた経験をした人は多くいるはずです。

過去のその瞬間の印象はその時のものなので、それを流用してしまえばそのような違和感となって顕われて来るのは当然のことですね。

印象とは、それを体験してしまえば、すぐに過去のものとなってしまうのです。つまり、印象とは過去だと言えるわけです。だから、印象を持ち歩くということは常に過去の影響化に置かれた人生を生きることになるのです。

それが自我のまさにやっていることなのです。自我は自己防衛をするために、あらゆる印象をいつまでも持ち歩くのです。だからいつも古臭い毎日を送るのです。

その一方で、防衛を小さくしていくと、あらゆる印象はその瞬間瞬間に成仏していくのです。執着が小さければ、印象も消えて行きやすくなるのです。

だから常に新しい新鮮な毎日を送れるようになるということです。最初の内、パートナーは輝いて見えていたものが、そのうち古臭く感じてしまうとしたら、それは印象を持ち歩いている証拠です。

印象をドブに流してしまえば、いつもあなたのパートナーは生き生きとした新しい印象の人物となって見えて来るはずですね。

印象を持ち歩かない

かつて、ひっかけクイズの定番となっていたものの中に、相手に「ピザ」と10回言わせた後で、ではこれは?と言って肘を指さすと、相手は「ヒザ」と言ってしまうというのがありましたね。

大抵の人は一度はやられて引っかかった経験があると思います。つい先ほど見たテレビ番組の中で、生まれて初めてそのひっかけクイズを出されたら、必ず引っかかってしまうという検証をしていたのです。

バラエティ番組ですから、笑いながら見ていればいいのですが、ちょっとドキッとさせられてしまったのです。最初にそのクイズの経験がない外国の人に対して検証すると、確かにみんな引っかかるのです。

同様にして、そのクイズを知らないご老人も全く同じようにして引っかかるのですが、なんと幼稚園児に対してやってみたところ、誰も引っかかる子供はいなかったのです。

当然、幼稚園児ですからまだ一度もそのクイズを経験したことはないにも関わらず、幼い口調で「ピザ」を繰り返したあと、冷静に「ひじ」と言えたのです。

番組ではその検証がまったくできなかったことがやり玉にあげられるだけで、なぜ幼児は我々大人のように引っかからないのかを疑問視していませんでした。

これは、幼い子供のうちはまだ思考に振り回される度合いが小さいということの証しなのですね。自我が未発達な分だけ、思考もまだ緩慢のです。

だから、彼らは起きていることだけに集中して、それが終わった瞬間に捨てることができるということです。何かの印象を持ち歩くのは、思考による防衛の結果なのです。

無防備な幼い子供だから、瞬間瞬間をまさに生きているために、「ではここは?」と問われたときに、それまでのことがしっかりクリアされて、邪魔されることなく「ひじ」と言えたのです。

瞬間瞬間の印象を捨てていく注意深さを身につける練習をすれば、幼稚園児のように正確に返事ができるだけでなく、思考を小さくして意識的に生きることができるようになるということですね。

神のおちょくり?

望んでも望んでもタイミングが合わずに、逃してしまったものがあって、しばらくはそのショックの尾を引っ張っていて、もういいやと思えるようになった途端にまたそれを見つけるという経験があるでしょうか?

 

こういうのを皮肉な体験と言うのでしょうね。昨年、あるものを気に入っていて手に入れたいと思っていて、本気になったときに他人にス~ッと横から奪われた経験があるのです。

勿論、不法なことではなかったので、どうすることもできずに、それへの執着を残しながらも、別のそれに準じるものを見つけ、それで手を打ったのです。

ところが、最近その最初のものに肉薄するようなものを見つけてしまい、今度はそれを求めてもうすぐ手に入るかもという状況で、突然最初のものをまた見つけてしまったのです。

何という皮肉でしょうか?もしも神がいるのなら、「あんまり、人をおちょくるんじゃないぞ~!」と言いたくなるのです。

こういう何とも言えないような、絶妙にうまくできている物語は嫌いじゃないです。というより、結構好きかもしれません。

神のおちょくりにまんまと引っかかって右往左往している自分が、おかしくてちょっとかわいくて、やっぱり人間て物語が大好きなんですね。

以前、神に言いたいことがあったのですが、それは、「勝手にこんなところに置き去りにしやがって、この世界望んでないぞ!早く元の場所に戻してくれ~~」だったのです。

けれども最近は、「神さ~ん、あんた冗談がお上手だね~~!」に変わりました。所詮は、冗談、すべてはジョークだということが分かってきたからです。

そうなると、もう何があっても深刻にはなれない。みなさんも、深刻さゼロ宣言しましょう!

本当の不満に気づく

どんな人であれ、まったく不満を抱えていないということはありません。不満を持たなければ、それだけ幸せな気分でいられると知っていても、やはり不満は消えないのです。

それは勿論困ったことではあるのですが、もっと困った事態というのがあるのですが、それは、本当は不満があるのにそれに気づかないでいることです。

なぜそれが最も問題となるかと言うと、本人が気づこうとしない不満が蓄積すると、その不満自体がその存在を知らしめようとして、何等かの形で表舞台に出て来るからです。

それは思ってもみなかったあらゆる形となって、本人を翻弄することになるのです。ところが、本人はその原因が隠している不満感からやってくることには、決して気づけないのです。

そうなると、その表面化した問題を解決する手段がなくなってしまうのです。だから、まず初めに大切なことは、どんな不満があろうとそれを隠さずにいるということ。

そもそもなぜ、不満を隠そうとしてしまうのかというと、その不満に気づいた状態のままでいると、自分がとても惨めな存在だと感じてしまうからなのです。

それは特に幼い子供にとっては絶えられないほどの苦痛なのです。だからこそ、本人もそれとは知らずに本当の不満、本音を抑圧してしまうわけです。

本当の不満を心の奥底に抑圧しつつ毎日を生きれば、何となくスッキリしないというのが常態化しても、人生なんてそんなものだろうと思って自分を慣らしてしまうことにもなるのです。

したがって、本当の不満に気づくこと、それこそが癒しの第一歩であると同時に、それができたなら癒しの半分くらいは進んだも同然なのです。

あとは、自分の惨めさから一切逃げることなく、その惨めさの下に隠された怒りや悲しみ、孤独感を徹底的に味わうことで、表面化した問題はおのずと小さくなっていくはずです。

特別な「私」という存在は不可能

私たちは、自分が知覚することが可能な範囲のスケールに反応するのです。けれども、考えてみればそれはかなり勝手な歪んだ見方をしているということに気づけます。

例えば、科学は今や物質というのも実はエネルギーの一つの形態でしかないということを突き止めています。量子のレベルでみれば、すべてはエネルギーなのです。

物質的な側面では粒子として、またエネルギー的な側面では波動としての顔を同時に持つ、それが量子です。つまり、この宇宙のあらゆるものは一つのエネルギーが様々な形態として顕われたものに過ぎないということ。

地球上のすべての生物は、我々人間も含めて太陽の光と熱によって生かされています。太陽が冷えてしまえば一瞬にして、私たちの生命は消えてしまうのです。

それは太陽と我々が非常に有機的に結びついているということを物語っています。自分の身体の中にある細胞と細胞も同じように互いに有機的に結びついています。

距離が近いために、それらの細胞のすべてを自分自身だと認識しているだけで、遠く離れた太陽も自分自身だと捉えてもいいはずです。太陽は日常の私たちの見ているスケールと違うだけなのです。

肉体という一つの身体の中に納まっている自分があって、それ以外は自分ではないという知覚が、思考による間違いだったと見抜く必要があるのです。

この宇宙のすべては、一つのエネルギーの多面的な表現であり、それらは当然のことながら有機的に結びついて分離することはできません。

その中に、特別な「私」などという存在は不可能なことですね。

思考が完全に止まる時

結論から言えば、思考が完全に停止しない限り、真理と出会うことはできないのです。思考は、私たちの五感という知覚と結びついて、あるがままを見ることを妨げるのです。

以前、純粋な意識とは鏡のようなものだということを書いたことがあります。意識という鏡は、完璧にあるがままを映し出す理想の鏡なのです。

そこに思考がかぶさることによって、見かけ上その鏡を見事に歪ませてしまうのです。ただ歪むだけではなく、一枚の綺麗な鏡に細かなヒビを入れたようにしてしまうのです。

そのため、誰もが真理からはかけ離れた現実の姿を見せられていながら、そのことには気づかずにいるということです。ひとたび、思考が完全に停止したなら、意識という鏡はあるがままの真実を丸ごと映すことになるはずです。

その時に初めて、真理がその姿を顕すことになるのですが、残念ながらその時には思考で作られた個としての「私」は思考と共に消えてしまっているのです。

けれども、一度でも真実の姿を見ることができたなら、もう二度と思考に騙されることはなくなるのです。思考によって、真理を歪ませられることもありません。

なぜなら、真理の姿を見間違うはずはなくなるからですね。私自身の自分がいなくなる体験は、まだほんの少しの思考が残っていたのでしょう。

だから、思考が戻ってきたときには、もう何もかもが元通りになってしまったのです。真理のフレーバーは24時間ももちませんでした。

何が何でも思考が止まるように準備をしなければならないのです。思考自体が思考を完全に止めることは不可能なので、できる準備だけを万端整えてあとは待つのです!

何であれ徹底的にやる!

セッションでもいつもお伝えしているのですが、抑圧することで私たちのマインドが作られるのです。抑圧が内面を分裂させてしまうのです。その分裂した内面をマインドと呼ぶのです。

だからマインドを持っている人間であれば、誰であろうと何等かの抑圧をしてきたということですね。自由な個としての存在が、エゴが作った社会の中で生きていこうとすれば、抑圧は必須だからです。

といって社会を丸ごと否定しているだけではどうしようもありません。社会から脱出するのも、ただの逃走になってしまうので、あくまでも社会の中にいる必要があるのです。

その上で、できる限り自分がやりたいことは何であれ、それこそ徹底的にやり尽すのです。もういい!と感じるまでやってしまえば、執着やしがみつきはおのずと消えて行くはずなのです。

お金がかかるから、世間の常識に反するからとか、親に反対されるからなどを理由にして、中途半端にやってみたり、我慢してやらないでいたらどうなるでしょう?

その抑圧されたエネルギーはいつかあなたにその存在を知らしめるために、表面化することになるのです。それは決して消えることはないのですから。

あなたが何事からも自由でいるためには、何であれ徹底的にやり尽すことしかありません。そうすれば、過去を後悔することも、未来を不安に思うヒマもありません。

使い尽くされたエネルギーは消えて行くのです。つまり、成仏していってくれるということです。過去のエネルギーがきれいに消えて行けば、未来も消えてしまいます。

なぜなら、未来とは過去の思い残しを解決しようとする場所だからです。徹底的に、全一にやり倒せば、過去も未来も消えて、ただ在ることになるのです。

セラピーとはエゴの癒し

昨年極々少人数で二度ほど講座をやったのですが、今年はもう少し人数を増やして、実習にもなるべく時間を取るようにして開講しようと思っています。

今回は、この数年の間にセッションにいらしたクライアントさんだけを対象に行う予定で、本日一斉送信をさせていただきました。

メールを送信させていただいて気づくのですが、結構多くの方々においてメールが届かなくなっているということです。これは、都合でメールアドレスを変更されたということかもしれませんね。

今回からは、若干ですが瞑想も取り入れる予定でいますし、心理セラピストの養成講座とは言え、できる限り自己探求、真理への探究の部分も含めたいともくろんでいます。

セラピストという枠に捉われてしまうと、どうしても真理を見逃してしまうことになるからです。あくまでもセラピーというのは、エゴの癒しに過ぎないということ。

そのことと、エゴの住処である物語から抜けるという究極にも目を向けて行けたらいいなと思っています。受講生の方々が混乱しないように気をつけながら…。

そんな感じで、私がやりたいようにやらせていただくつもりです。個人セッションもいいのですが、講座の良さはグループワーク的な側面があること。

他人の言動によって、より多くの気づきを得ることができるし、また参加者全員が同じエネルギーの方向を向くことでその力が増幅され、より強烈に癒しが進む可能性もあるのです。

ちょっと面倒ですが、やっぱり楽しみのほうが圧倒的に勝っています。なるべく多くの方に参加していただけたら嬉しいです。

他人という名の鏡の使い道

先日のブログで、鏡についてのことを書きました。言いたかったことは、鏡に映った自己像を自分の存在としては見ないということです。

鏡が映し出すあなたの姿とは、他人から見えるあなたの表層でしかないからです。本当のあなたとは、誰からも見ることのできないあなたの内面深くにこそあるからです。

実は私たちは、他人を鏡として使っているのです。その用途は、二つあります。一つは、自己イメージの蓄積です。これは特に幼い頃に行うのですが、大人になっても細々と続いていくものでもあるのです。

私たちは、自分に対する相手の態度、相手のしぐさ、相手の表情、相手の目の奥にあるものなどをゲットして、それを自己イメージとして使うのです。

相手は必ずエゴを持っているため、その鏡は非常に歪んでいて、相手が見たものをそのまま映して返すことは決してないにもかかわらず、一生懸命返された印象を自己イメージの一つとして積むのです。

だから自己イメージはすべてが虚構から成り立っているのです。これは本当に驚くべきことなのです。それなのに、私たちは自己イメージを固く信じて生きているのです。

そして他人という名の鏡のもう一つの用途ですが、それは自分自身をその鏡に映し込んで見るのです。これを投影などと呼びますね。

相手を見ているつもりなのに、実は自分の姿をその鏡に映してしまっているのです。言ってみれば、あなたが見ている世界は、あなたを中心とした鏡の世界だと思えばいいのです。

無数の鏡が、あらゆる角度からあなたを反射してあなたに見せつけているのです。何のことはない、あなたはただこの世界に自分の姿を見ているというわけです。

鏡の世界から抜け出して、真にリアルな世界を生きるためには、あなたが持っている自己イメージをすべてゴミ箱に捨てて、あなた自身が完璧な鏡として世界をあるがままに映すようになることですね。

沈黙の勧め

独りだけの空間で静かにして、何もせずにじっと内面を見つめていると、エゴが不活発になるのを感じることができます。

なぜなら、エゴとは人と人との関係性の中に存在するものだからです。たった独りで何も考えることをしないでいられるなら、エゴの使い道がないのです。

エゴはそのスイッチをオフにさせられてしまうのです。エゴが見当たらないと、人はとても気持ちがリラックスしてゆったりとくつろぐことができます。

けれども、ひとたび誰かがその空間に入ってきた途端、それが親しい人であろうと見ず知らずの他人であろうと、エゴは瞬時に電源オンになるのです。

勿論、エゴの活性化の度合いは親しさの深さと反比例します。つまり、気を使う必要のない親しい相手であればエゴは最低レベルとなり、逆に親しくない他人の場合には強くなるのです。

私たちは社会的な存在であるため、どうしても人と関わらざるを得ないのです。その時に、できる限りエゴが活躍しないようにしたいものです。

なぜなら、エゴとは自己防衛の塊りであり、その原動力は恐怖なのです。そこには純粋な愛はありません。だからエゴと共にいて満ち足りるということは原理的にはあり得ないのです。

そこで、社会の中にあってエゴを活躍させないようにするにはどうすればいいかと考えるわけです。一つは、なるべく沈黙していること。

沈黙すると、自動的に思考が緩み、人との関わりも緩慢になるのです。社会の中で沈黙していたら生きていけないと言うみなさんの声が聞こえてくる気がします。

確かにそうですね、人とのコミュニケーションは通常言葉を使うからです。それでも、よくよく自分を観察していると気づくのですが、不必要な時でも言葉を使っていることが多いのです。

話しをする必要は特にないときでも、何か言葉を発生しないと場がもたない気がするとか、相手に失礼な感じがするなどで、不要な言葉を発してしまうのです。

そんなときに、勇気を持って沈黙してみるのです。そして、可能であれば目を閉じることができればもっと効果的です。近くに誰かがいても練習次第でできるようになるはずです。

試しに、明日はいつもよりも沈黙している時間を増やしてみようとチャレンジしてみて下さい。きっと何等かのよい影響があなたの内面にやってくるはずです。