辛ければ、適当に生きること

私たちの内面は最初の頃、まるで真っ白なキャンパスのような状態だったのです。外側からやってくるものに反対したり対立したりする何ものもなかったのです。

だからこそ、人生の最初の頃に外側からどんな絵の具で塗りたくられても、それがそのままに心のキャンパスを彩ることとなったのです。

そうした初期の頃の絵というのは、とても深く私たちの内面の奥に刻み込まれてしまうことになるのです。

それを避けるどんな手段もなかったからです。たとえば、私の内面には恐ろしい地獄絵図のようなものが描かれています。

きっと幼い頃にそんな絵が描いてある本か何かを見たのでしょうね。そんなところに連れていかれたくないという一心から、良い子でいようと思ったのでしょうね。

夜布団の中で、寝る前にその日1日の自分の振る舞いを思い出して、それでよかったのかどうかを反省するという習慣がありました。

もしもそんな毎日がずっと続いていたら、今頃牧師さんか何かになっていたかもしれません。ところが、小学5年生くらいのころに転機がやってきました。

どんなきっかけがあったのかは分からないのですが、その真面目さがバカバカしく思えてきて、適当に生きるように変わったのです。

その適当さが今でも私の中心にドシッとあるのです。適当さは真面目さと共にあった深刻さを片付ける役割も果たしてくれたのです。

適当に生きることは、中道を極めることへの近道でもあるのかなと思っています。