回収病から抜け出す

私たちは日頃から色々なものに投資をしています。投資の目的とは、投資したものがいずれは何らかの形となって戻ってくる、つまりリターンを得ることです。

会社で一月働いた分の給料を月末に貰うのも、投資とそのリターンの回収と言い換えることもできます。

ただ一般的に投資と言う言葉を使う時には、給料のような決まりきったリターンではなく、もっと期待値の大きなものである場合が多いかもしれません。

株を買って、将来株価が高騰したときに大儲けできると目論むわけですが、これなどは典型的な投資と言えます。

我が子に対して幼い頃に色々な習い事をさせて、将来一流のアスリートに育ってもらうように期待するのも、投資とリターンの関係です。

あるいは、嫌なことでもものすごく頑張って、いずれはあるべき姿の自分になろうとするのも、自分への投資ですね。

けれども、あまりに耐えて耐えて頑張りすぎると、リターンが手に入る前に人生が破壊されてしまうかもしれません。

そうなると、投資をした昔の自分がリターンを回収できていないということを訴えてくるのです。それが執着となって、本人を苦しめることになるのです。

元々投資は期待するようなリターンを回収できるとは限りませんし、回収できないことの方が多いのです。

いつまでもそのことに執着していると、それこそ自我の思う壺なのです。自我の罠から抜けるためにも、投資を回収したいという強い思いを見てあげること。

見ることで乗っ取られずに済むようになれば、その回収病から抜け出すことができるようになるのです。

いずれはすべてが覚醒する

生まれたときには、私たち人間も他の動物と同じように、無意識で生きていました。無意識というのは、自覚のない状態のこと。

つまりは、意識が覚醒せずに眠っている状態ということであって、意識がないというのではありません。

乳幼児の頃は、それでも少しばかりの思考を使うのですが、複雑な思考を使えないため、自我を作り込むことはできずにいます。

ところが脳の発達とともに、次第に高等な思考を使えるようになっていくにつれて、自我が芽生えて行くのです。

それは他者というものを基盤にして、それとの対比によって自分を作り出すのです。だから自我にとっては他者の存在は必要不可欠なものなのです。

そして自我という一人称が、意識の覚醒を促してくれたのです。覚醒した部分はほんのわずかではあるものの、自覚を持つことができるようになったのです。

それが人間と動物の最も大きな、そして決定的な違いなのですね。自我によって偶然にも意識の覚醒が一部起きたことは本当に奇跡的なことだと言えます。

けれども、そこで長い間ストップしてしまっているのも事実。人間は自我と自己を同一化してしまったために、それ以上に意識が覚醒することができないでいるのです。

でも大丈夫です。どんな長い眠りでもいずれは目が醒めるように、いつかは一人残らず覚醒してしまうことになっているのですから。

だから明日も気楽に生きていくことにしましょう!

”私“の居場所は過去と未来

過去のことを考えるたびに”私”が入りこむ。未来のことを考えるたびに“私”が入りこむ。

だがあなたが今ここに在って、過去も未来も考えないときには、あなたの”私”はどこにいる?

あなたはそれを感じられまい。それはそこにはない–。自我は現在の中には存在したことがないのだ。

by osho

だとしたら、自分の中にいる“私”をなくすのは簡単なことですね。だって過去のことと未来のことを考えずにいればいいのですから。

ところがこれがとてつもなく難しいのです。というのは、過去と未来なしに思考することはできないからです。

考えるというときに、私たちは気づかないうちに過去と未来のどちらかを参照してしまっているのです。

もう少し詳しく言うと、未来に対するどんな思考も必ず過去を使っています。未来とは過去を持ち出すことで成り立つものだからです。

そして残る過去とは、思考が活動する領域と言うこともできますね。ということで、結局思考は過去と未来を活動拠点にしているのです。

その思考が無数に集まって凝縮したものが私たちのマインドであり、その中にこそあなたの“私”がいるわけです。

ということは、残念ですがあなたの中の“私”とは今この瞬間にはいられないということですね。

過去というもうなくなってしまった場所と、未来というまだ来ていないどこにもない場所、その二つの架空の場所にしか“私”の活躍の場はないということです。

つまりは、”私“の存在も架空のものでしかないということです。そのことをしっかり深く理解することですね。

自分がこの世界から消える感覚

私が時々やっている一種の瞑想法のようなものがあるのですが、今日はそれをちょっと紹介したいと思います。

といってもそんなに大したものでもないので恥ずかしいのですが…。それは自分という個人がこの世界にいない、というのをイメージしてみるのです。

目が覚めてからまた夜寝るまでの間、ずっとこの自分と一緒に過ごしているわけですが、それを少しの時間だけでもやめてみるのです。

イメージすると言いましたが、それを考えるというのではなく、ただその感覚を感じてみようと試みるということです。

街を歩いているとき、クルマを運転しているとき、テレビを観ているとき、それ以外のどんな状況でもやることができます。

そうすると、ものすごく清々しい感じになることができるのです。自分が透明になるだけでなく、存在が消えてしまうことを感じるのです。

まず頭が消えて、身体も消えていつもの自分はどこかへ行ってしまう感覚。すると、いつも外側に広がっていた世界が違った感じで入ってくるのです。

それが全体性なのでしょうね。なぜなら、無と全体とは同じだからです。興味があったら是非試してみて下さい。

自己否定に飲み込まれるな!

私たちのマインドというのは、膨大な数の思考によって成り立っているのです。それがグループを成すようにして、一種の人格のような機能を果たすのです。

その細々(こまごま)とした一つひとつの人格のことを副人格と呼んだりするのですが、要するに主人格に取って代わるようなレベルのものではないということです。

とはいうものの、裏側で暗躍して主人格をあらゆる方法で翻弄することができるのです。

そういった数ある副人格の中でも、多くの人がそれに飲み込まれやすいのが自己否定をする副人格です。

いろいろな理由を作っては、自分のことを否定するのです。こういう自分が嫌い、こんな自分が気持ち悪い等々。

そして悪いことに、自己否定の副人格と同化してしまうのです。そうなると、あたかも主人格である自分が自己否定をしているように感じるのです。

それを回避するためには、どんな副人格が表舞台に出てこようと、それを見守ってあげるように練習するのです。

もしも自己否定が止まらないという自覚があるなら、自己否定の副人格があるということを常に意識しておくことです。

そうすることで、自己否定を見守ることができるようになり、それによって自己否定は自然と小さくなるのです。

マインドとノーマインドを同時に生きる

精神は目的なしでは存在できない。だから目的を次から次へとつくっていく。もしいわゆる世俗的な目的がなくなったりしたら、宗教的な目的を、あの世的な目的をつくりだす。

いわゆる競争の世界が、政治の世界が無意味になると、もう一つの世界、新しい競争の世界、宗教の世界での成果が有意義になる。

by osho

↑この精神という言葉は、マインドと言い換えても構いません。つまりマインドは、目的なしでは生きていけないということです。

マインドにとって、無目的であることは無意味であることになるからです。無意味であるとは、無価値を連想させますね。

この一連の無目的、無意味、無価値というのを繰り返し心静かにイメージしてみると、自分の存在理由がなくなってしまうと感じるのです。

自分自身や自分の人生に、どんな意味も価値も見出せないとしたら、多くの人にとっては辛いと感じるはずですね。

けれどもその一方で、真実には目的も意味も価値も、何もないということも直感的に分かります。なぜなら、それらは思考の産物だからです。

マインドとは天国を見たり逆に地獄を味わったりするものであり、それはそういうものなのです。天国も地獄もないのが真実であり、それが私たちの本質です。

思考の世界で生きているマインドの立場と、思考から離れた本質としての自己の両面を同時に生きること。これこそが極意なのです。

記憶を使わずにいる時間

人間の脳というのは、他の動物とは比べものにならないくらい発達していますね。そしてその中心となっているのが、記憶というメカニズムです。

動物にももちろん記憶力はあります。その記憶力を使って、さまざまなことを学習していくわけですが、人間の記憶力は群を抜いています。

だから人間の学習能力というのは驚くべきものです。円周率を一万桁まで記憶した人もいるし、司法試験に合格するような人も六法全書を暗記するのですからびっくりです。

けれども、一方でその記憶を使うことで思考が止まらなくなるという弊害もあるのです。記憶データというのは単なるデータか、あるいは過去のデータです。

思考はその記憶データをフル活用することで自ら活性化することができるのです。自我はそれをうまく利用することで、過去や未来へと注意を向けるのです。

どれほど発達したところで脳は自分の中心ではありません。思考を止めてみればそのことがはっきりするはずです。

そのためには、記憶のメカニズムを制止させることです。1日の内何度でも、記憶を使わずにいる時間を作ってみるのです。

すると同時に脳の働きとしての思考も止まることになるはずです。そのときに、自分の本当の中心は決して脳ではないと気づくのです。

それと同時に、自分が何者でもないということにも気づくことになり、自分の本性は静寂であり、至福であり、全体性だということが分かるのですね。

自我(エゴ)について伝えるのは難しい

この仕事を始める前の半年間、私はとある催眠療法のクラスを受講していました。今思い出すととても懐かしいですね。

講師の方が様々な講義をする中で、自我(エゴ)のことを話題にすることが多かったのですが、その頃はそれが一体何なのか分からなくて質問したものです。

エゴという言葉で連想できるのは、エゴイスティックな人やその言動のことくらいで、その頃の私にとっては自分勝手な人の性格くらいに捉えていました。

私の質問にその講師の方がどのように答えてくれたのか、今となっては全く記憶がないのですが、きっと納得のいく説明をもらえてないと感じます。

なぜなら逆の立場になって、エゴって何?と質問されても、手短にそれを説明できたとしても、その真意が伝わるとは思えないからです。

なぜ伝えることが難しいのかというと、エゴについて考える土台にそれぞれ違いがあるからなのだろうと思うのです。

土台とは、そもそも自分とは何者なんだろうか?という問いを、どのくらい突き詰めて考えたことがあるかということです。

この私の内面というのはどのように成り立っていて、どのように機能しているのかということに興味を持てるなら、早晩自我(エゴ)について、深い理解を得られるようになるはずですね。

「見るもの」のときを思い出す

誰であれ生まれてすぐの頃は、単に「見るもの」だったはずなのですが、強制的に「見られるもの」へと変えられてしまうのです。

こうした周囲からの圧力に屈せずにいられる人がいたとしたら、その人はきっと精神病院かなにかに入れられてしまうのでしょう。

幸か不幸か、大抵の人は気がつくと「見られるもの」に成り下がってしまうのです。そうやって、無事社会の一員としての人生を生きれるようになるのです。

ただしその代償は計り知れません。自分は「見られるもの」なので、他人からどのように見られるかという観点でしか、自分を見なくなってしまうからです。

「見るもの」としての無限大の存在を、ほんの小さな身体の中だけが与えられた惨めな存在へと陥れることになったと、本当に気づいている人は少ないのです。

自分がどう在るかということと、他人からどう見えるかということを混同してしまえば、誰だって病んでしまうのは当然のことなのです。

「見られるもの」として、小さな身体の中に閉じ込められた瞬間から、外側に広がっている世界を恐れるようになるのも当然ですね。

「見るもの」のときには外側というのはなくて、その全てが全体性としてただ在っただけなので、そこに恐怖などはなかったのです。

高所恐怖症なんてものも存在することはできませんでした。転んでおでこを打ったら、それはそれで痛みはやってきましたけどね。

そんな、「見るもの」だったころの感覚を思い出してみるといいですね。もちろん、「見られるもの」になど、一瞬たりともなったことなど本当はないのですが…。

シンプルライフの実践

クライアントさんとのセッションで、繰り返しお伝えしていることの中に、なるべく人生をシンプルなものにしましょうというのがあります。

したいことをし、したくないことはしない。行きたいところに行き、行きたくないところにはいかない。会いたい人に会い、会いたくない人には会わない。

言いたいことを言い、言いたくないことは言わない。すぐに実現しなくてもいいので、このシンプルな生き方を少しずつ実践していくのです。

逆にもしも自分の人生が何かと複雑な気がするのでしたら、それは自我がかなり活性化している証拠なのです。

自我は自己防衛をするものなので、その裏側には必ず自己犠牲がつきまとうことになるのですが、これが人生を複雑にしてしまうのです。

シンプルライフを心がけていると、自己防衛がどこでどのように使われているのかに気づくようになるというメリットもあるのです。

あの人に会いたいというときに、それを我慢してしまうと会いたい気持ちの原動力が何なのかに気づきにくくなるということです。

そしてシンプルに会いたいので会いに行くを実践していれば、それが愛からくるものなのか、寂しさを紛らわそうとする防衛からなのか、見分けることができるようになるのです。

自己防衛に気づくことがそこから離れていく第一歩なのです。それが自我から解放されていく道でもあるということですね。