「見るもの」のときを思い出す

誰であれ生まれてすぐの頃は、単に「見るもの」だったはずなのですが、強制的に「見られるもの」へと変えられてしまうのです。

こうした周囲からの圧力に屈せずにいられる人がいたとしたら、その人はきっと精神病院かなにかに入れられてしまうのでしょう。

幸か不幸か、大抵の人は気がつくと「見られるもの」に成り下がってしまうのです。そうやって、無事社会の一員としての人生を生きれるようになるのです。

ただしその代償は計り知れません。自分は「見られるもの」なので、他人からどのように見られるかという観点でしか、自分を見なくなってしまうからです。

「見るもの」としての無限大の存在を、ほんの小さな身体の中だけが与えられた惨めな存在へと陥れることになったと、本当に気づいている人は少ないのです。

自分がどう在るかということと、他人からどう見えるかということを混同してしまえば、誰だって病んでしまうのは当然のことなのです。

「見られるもの」として、小さな身体の中に閉じ込められた瞬間から、外側に広がっている世界を恐れるようになるのも当然ですね。

「見るもの」のときには外側というのはなくて、その全てが全体性としてただ在っただけなので、そこに恐怖などはなかったのです。

高所恐怖症なんてものも存在することはできませんでした。転んでおでこを打ったら、それはそれで痛みはやってきましたけどね。

そんな、「見るもの」だったころの感覚を思い出してみるといいですね。もちろん、「見られるもの」になど、一瞬たりともなったことなど本当はないのですが…。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です