瞑想はスローペースを作り出す

会社員の頃、IT業界にいて金回りがよかったせいで、ちょっと高級な二人乗りのスポーツカーで通勤していたことがあります。元々後ろの座席なんていらない、という我が儘なクルマ好きだったからです。

それが、会社員を辞めて今の仕事になってから、しばらくしてそれまでとは真逆の大きな7人乗りのミニバンに乗り換えたのです。

それで気が付いたのですが、後ろのクルマから煽られることがなくなって、ゆったりとした気持ちで運転ができるようになったのです。スポーツカーの時とはずいぶんと精神状態が変わったのです。

そして、昨年の1月にまた違うクルマに乗り換えたのですが、今度は日本の軽自動車よりももっと小さな二人乗りのクルマになりました。経済的な圧迫もあって、お安いクルマにならざるを得なかったのです。

そうなると、今度は人生で初めてくらいに後ろのクルマに煽られるようになったのです。それと、マニュアルギア車ということも手伝ってか、かなり飛ばすようになってしまったのです。

自分が飛ばしていると、ノロノロしたクルマに前を塞がれると、とてもイライラしてしまうことが頻繁に起きてきました。当然の結果ですね。

どうしたものかと思って、思いついたのがやはり瞑想でした。運転しながらの瞑想を励行すると、明らかに速度が抑え気味になるのです。

その理由はいたって簡単、その瞬間瞬間を丁寧に感じきるようにすることで、前へ前へという意識が薄れてくるからですね。周囲に妨害されても、イライラは大分減ってしまいました。

運転中の瞑想なんて危険なんじゃないの?と思われるかもしれませんが、まったくそんなことはありません。瞑想とは、一点集中の真逆だからです。

あらゆる事柄にまんべんなく敏感に感じている状態だからです。 瞑想しながら歩くと、同じようにして歩く速度が遅くなり、過去にも未来にもエネルギーが移動しなくなるのです。

マインド優勢の毎日から、ハート優勢へと切り替えていくためにも、瞑想が最大の効果を発揮します。食べる速度をゆっくりにするために、今度は食事中に瞑想を試してみたいと思っています。

所有欲は苦しみを生む

赤ちゃんは、丸裸で手には何も持たずに生まれてきますね。だから、私たちはこの人生で必要となるものを、せっせと手に入れなければならないのです。

手に入れたいという欲望は、自分のものにしたい、つまり所有したいという所有欲という形に進化します。誰もが持っている所有欲は、なかなか立派なものです。

そして、幸運か、努力の賜物かは別として、一度所有できたものは今度は奪われたくないという欲望を作り出します。したがって、物持ちになればなるほど、奪われたくないという恐れは大きくなるのです。

所有欲は、単なるモノだけに留まらず、人や形のない名誉などにも及んできますね。私も人並の所有欲があるのですが、年齢を重ねるごとにそれはありがたいことに、小さくなってきているのが分かります。

若いときというのは、とにかく欲しいものが目白押しであるばかりか、それを手に入れるだけの経済力もなかったりして、結構大変でした。

それが徐々に薄れてきてくれたのは幸運です。それと、所有欲とは裏腹に、私たちは大抵何も持たないことの清々しさについても知っています。

手ぶらで生まれてきて、手ぶらで死んでいくことを思うと、一体人生で何を頑張って生きているんだろうと不思議に思いませんか?

人生を長く生きてくればそれだけ、所有物が増える傾向にあるのかもしれませんが、私は何も持たない気持ちよさを体感したくて、私物はとても少量です。

死んだあとに家族が処分するのに困るようなものは、何一つ持っていないというのが実情です。自分が生きていた痕跡もすべて消えてしまったほうが、気持ちよく成仏できると思うのです。

持っていないということは、失うものがないということですから、それは不安を掻き立てられる心配がないのですから、心が自由なままでいられますね。

仮に、あなたが今所有欲のど真ん中にいるとしても、大丈夫。そのうち、所有するというのは自我の単なる概念に過ぎないということに気づくときがきっとくるはずですから。

瞑想とは観照すること

クライアントさんとのセッションの中で、時々瞑想の話題が上がることがあります。それは、大抵が瞑想には興味があるのだけれど、やり方が分からなくて…、というものです。

私自身、専門家について実践したこともないし、我流で気ままにやる程度なので、あまりいいアドバイスをすることができないのですが。

一つだけこれから始めるという方にお伝えできることは、瞑想は形式にあまり拘らない方がいいということです。瞑想というと、すぐに誰もが思いつく姿がありますね。

坐して、静かに目をつぶって無念無想を目指す?といったようなイメージが浮かんでくるかもしれません。けれども、そうした形を一度忘れていただいたほうが却っていいと思います。

もっともっと気軽にできるものだからです。実際、瞑想とは自分をひたすら観照することなのです。ただただ見るということです。

それだけでは、何だか物足りない感じがするかもしれませんが、本当にそれだけです。思考を無理に止めようとする必要もありません。

逆に、やってくる思考を自由に遊ばせて、ただそれを見守ることです。その思考をキャッチしてしまうと、思考に巻き込まれてしまいます。

傍観していればいいのです。とはいうものの、人生の長きにわたって思考(マインド)が主人となってしまっているために、ただ見守るというのはなかなか現実的には難しいことです。

また、街を歩いているときであろうと、信号待ちをしている時であろうと、いつでもどこでも瞑想は可能です。ただその瞬間の自分を見守るだけだからです。

最初は、身体に意識を向けるのが簡単かもしれません。そのうちに、思考や感情、あるいは気分といったものまで見守るようになればいいのです。

クルマを運転しているときに観照していると、周囲の状況によって気分がいろいろに変化していくのを見ててあげることができて、なかなか興味深いこともあります。

瞑想という言葉に抵抗を感じるなら、ただ見守るということを意識すればいいのです。うまくできたときには、日ごろいかに自分がマインドに乗っ取られた生活を送っているのか、びっくりするはずです。

夢は意識下の叫び声

みなさんは、夜寝ているときに夢を見ますか?見るなら、どんな夢を見ることが多いでしょうか?ご存じだと思いますが、夢は自覚していない深層心理の中身が顕われてくるのです。

何であんな夢を見たんだろう?と思うことが時としてあるかもしれませんが、それは気づかぬうちに心の奥底でそのことに対する何等かの想いや感情、あるいはわだかまりなどが残っているからなのです。

自覚している意識の部分を表面意識とか顕在意識と呼びますし、自覚できない部分のことを潜在意識とか無意識と呼ぶというのは、みなさん聞いたことがあるはずですね。

その自覚できない部分、意識下の部分が寝ている間に表面化して顕われたものが夢ということです。隠された部分は、常に意識の上に浮かび上がって、自分に見て欲しがっているのです。

けれども、目覚めている時には何等かの理由で都合が悪かったりすると、その部分を無自覚に抑圧してしまっているのです。それが、抑圧が小さくなる睡眠中に表舞台に出てくるわけです。

もしもあなたが、現実味のない夢、例えば誰かに殺されるとか、怖い何かに追い回されるとか、そういった社会性の欠如しているような夢を頻繁に見るのでしたら、幼いころのエネルギーが強力に残っているということです。

大人になっても、両親や家族の夢を見るのも、同じように子供のころの意識がまだ強く残存している証拠です。それはまさに子供目線だからです。

子供のころの意識が強く影響した夢は、とにかく無秩序で混沌としてるのが特徴です。ここには、全くもって秩序というものがまだ芽生えていないのです。

一方、社会性のある夢、たとえば仕事上のトラブルだとか、職場の人が出てくる夢の場合は、大人になってからのエネルギーが反映されている夢と考えられます。

私の場合は、今の仕事をするようになって、大きな悩みや不安などはなくなってしまっているのですが、夢ではサラリーマンの頃のいやな感覚がよく出てきます。

それが、無自覚のままに残っているということですね。意識の中では、今この瞬間自分の本質に気づいたとしても、意識下ではまだまだ燻った思いや感情が残っているということです。

自分の夢が、どのくらいの年代の頃の意識が反映されたものなのか、検証してみることです。そして、もしもまだ非論理的で、非社会的な夢が多いなら、退行催眠による癒しをお勧めします。

人生は出たとこ勝負

たまたまスポーツクラブのサウナでいつもお会いする、ある人から講演の依頼がありました。何気ない毎日の雑談の中で、私がセラピストをしているということをお話ししたのがきっかけでした。

その方を中心とした、何だか賢そうな人たちのある研究グループの会合で、お話しをさせていただくことになったのですが、お受けしたのはいいのですが、いざとなったら何を話していいのやら…。

ある程度はお話しの内容を考えて、下準備的なことをしようとは思っているのですが、当日その会場に行って、どんな人たちがいらっしゃるのかを実際に見たときに、きっとどんな話しになるのかが決まるのです。

今までの経験上そのような予想がつくのです。話しの内容を事前にばっちり決めることができて、その通りに事が進んだことはあまりないのが実情だからです。

本当は、何も決めずに出向いて、その時に様々な質問をいただいて、それに答えていくというやり方だと準備する必要がまったくなくなるので、私としては都合がいいのです。

以前、ある大学のクラスで何度かお話しさせていただく機会があったのですが、その時には本当に何も決めずにいって、その場にいる学生さんたちと絡みながら、どんどん話しの調子が出てきたのを覚えています。

そういえば以前、同じスポーツクラブでやはりいつもお会いする方の中に、学生寮の社長さんがいらっしゃるのですが、そこの女子寮の学生さんたちと一緒に、癒しのセッションをやらせていただいたこともありました。

みなさん、不慣れで恥ずかしいのか、ずっと控えめでなかなか乗ってきてくれなかったのですが、セッションが終わったあとに、次々とこんな悩みが実はあるのですと、一人ひとり言いに来られたときはびっくりしました。

予定を立てるのは悪いことではないのですが、私は決められたスケジュール通りに行くはずがないと思っているところがあって、結局は出たとこ勝負となるのですが、人生はそれでいいのだと思うのです。

計画して、その通りに事が進んでいかなければ嫌だとなると、人生がうまく流れなくなる気がするのです。この世は常に動いていて、とまることがありません。

その波に逆らわずに、人為的な決めつけや計画にあまり頼ることなく、瞬間瞬間を大切にしていけばいいのだろうと思うのです。

人生は出たとこ勝負でいきましょう!

確信を放棄する

もしも、あなたが自分の感覚は、かなり正常だと思っていたり、自分は理性的でいつも正しいに違いないと確信しているのなら、それは危険信号なのです。

物事をどれだけ知っているかということが、その人の成熟度の高さだというように考えがちですが、本当のところはそうでもありません。

何かに確信しているということは、とても安心できるので 都合がいいのですが、そこにはほとんど大切な気づきを得るチャンスが残されていないと思うのです。

無知な人ほど、自分の知識を誇るものです。自分はこれだけのことを知っている、このことは完全に理解できているという確信は、それが強いほど無知であるという印なのです。

マインドを落とせば、自分は実際何も知らなかったということに気づくはずだからです。どんなことでも、ある道を究めたような人は、決して確信などしていないはずです。

本質的なこととは、限りがありません。どこまで言っても未成熟であり、不完全なままなのです。今、私たちに本当に必要なことは、これまで培ってきた知識や常識などを一旦脇に置くことです。

自分が生きるための拠り所としてきたものや、信念、信条などを一通り見て、それらの枠に捉われずに生きることができるなら、とてつもなく大きな気づきがやってくるはずです。

なぜなら、それらを私たちに植えつけたのは他でもない親やこの社会の影の存在であるエゴの力だったからです。エゴに洗脳された代償はとても大きいものです。

癒しを進めるにあたって、これだけは是非分かっていて欲しいのですが、それはあなたの確信が揺れ動き、心が混乱するならば、大きなチャンスがやってきているということです。

自信もいりません。私たちの自信は、確信からやってくるものですし、マインドが静まったときには、自信があるとかないということに、関心がなくなってしまいます。

あなたのマインドの中にある、自分は努力して欲しいものを勝ち取れば、必ず幸せになれるという確信を放棄してください。それを持ったままの癒しは形だけの癒しであって、エゴの思う壺になってしまうからです。

活動的な人と非活動的な人

世の中には、活動的な人がいるかと思えば、その逆の非活動的な人もいます。もしかすると、それで世界のバランスが取れているのかもしれません。

私は、どう考えても非活動的な気質を持って生まれてきたという自覚があります。子供のころから、じっとしていることが好きな部分があったし、あっちこっち出かけることにあまり興味がありませんでした。

ところが、社会人になってからというもの、静から動へと、強制的に活動的にならされたのです。全部で四つの会社を渡り歩いたのですが、最初の会社では日本中の放送局へ行きました。

技術者になれば、一つところでじっと作業をしていられると思ったのも束の間、北は北海道から南は九州まで全国へ出張させられていたのです。

二つ目以降は、すべてアメリカ企業だったこともあって、海外出張は当り前になったし、そこそこ長く滞在しなければならない状況にもなったのです。

サラリーマンを辞めた今は、また非活動的な毎日に戻ったのですが、私にとっては20数年間の活動的な日々は、自分の人生のバランスを取るためには、絶対必要なことだったと今になって思うのです。

一方、活動的な人を見ると、私はいまだにどこかで羨ましいと思っているのです。エネルギッシュだし、活き活きとしていて、時間の無駄がなく充実しているように見えるからです。

実際、この社会を牛耳っているのは、そうした常に何かを考えて、時間を惜しんで行動的でいる人たちなのですから、正直にすごいなと思えるのは当然かもしれません。

けれども、そうした活動的な人には、陥りやすい罠があるのです。それは、思考つまりマインドがハートを差し置いて優先されやすいということです。

忙しさとバイタリティによって、マインドがフル回転しているために、ハートで感じることが疎かになってしまいがちなのです。活動的な人もバランスを取ることがとても大切だと思うのです。

ハートを活性化させるためには、瞑想をすることが一番効果的ですが、活動的な人は大抵瞑想を苦手としているか、そもそも興味がない場合が多いのです。

もしもあなたが活動的な人であるならば、今この瞬間に耳を澄ますということを忘れているかもしれません。それでは、人生に深みが生まれないのです。

人生でどれほどの成果を作り出したとしても、深みがなければ本当に満ち足りるという実感を得ることができないのです。動の中に、少しの静を散りばめる練習をしてみることをお勧めします。

心を受容的にして待つ

私たちは、幼いころからずっと、自分のままでいてはいけないのだということを、いやっと言うほど強制的に教え込まれて育っていくのです。

私たちはそうした教えを次第に受け入れるようになり、自分のままでいることを封じ込めてしまうのです。そうやって、生き延びるために自我(エゴ)と取引をするようになるのです。

その自我の教育とは、戦って勝ち抜くために努力せよ!ということです。努力といっても、単に頑張るというよりもひどく我慢し続けるというニュアンスだと思って下さい。

そうした自我の洗脳に深くコントロールされてしまえば、それだけ人生が苦悩に満ちたものになってしまうのは、当然の結果なのですね。

けれども、私たちにとって真に大切なことは、実はほとんどが努力や我慢では成し得ることができないことだということに着目する必要があるのです。

あなたは寝る準備はできますが、あなたの意志や努力で寝入るということができないことを知っています。寝る準備が整ったら、後は睡眠がやってくるのをただひたすら待つのみです。

努力や頑張りで、誰かを愛することができないのも明白です。同様にして、意志の力で何かに感謝するということも不可能なことですね。

愛は勝手に起きるのですから。感謝もどこかからやってくるのです。私は、感謝が洪水のように降ってきたと感じる経験をしたことがあります。その時、自分の意志など、何の関係もありませんでした。

本当は癒しも同じなのです。クライアントさんには、このように実践してみて下さいとお伝えしますし、それは確かに効果があると思っているのですが、癒しそのものはやはりやって来るものなのです。

努力と意志の力で勝ち取ることはできません。そのことに気づくことは、とても大切なことなのです。そうでなければ、癒しそのものが自我の罠となってしまうからです。

真に大切なことは、努力や意志ではなくて、心を受容的にして待つことです。そして、それは起きるときには起きてくるのですから。

セラピストは意地悪

もしもあなたが、自分の今の人生はうまく行っているなあと思うのなら、それは自我(エゴ)が正常に機能している証拠だと思って間違いありません。

順風満帆のときは、自我の独り舞台だということです。その時には、幸せな気分でいられるかもしれませんが、大切なことへの気づきからは遠ざかっています。

けれども、どうも自分の人生には問題が発生していて、不自由な状態になってしまったと思っているのでしたら、幸せは遠のいたかもしれませんが、大切な気づきのチャンスが到来しつつあるということです。

そして、場合によっては自分独りでは解決できそうもないと分かって、セッションを受けににいらっしゃるクライアントさんもいるわけです。

そんなクライアントさんに対して、私は意地悪くも更なる追い討ちをかけるのです。つまり、もうすでに困ってしまって人生に手こずっているクライアントさんが、より困惑するように仕向けるのです。

それがセラピストの仕事だからです。セッションは、場合によっては痛みを伴うものなのです。それは、クライアントさんが無自覚に隠してきた都合の悪い自分に目を向けてもらう必要があるからです。

クライアントさんが混乱すればするほど、そこにチャンスがあるのがよく分かるのです。だからセラピストはある種、憎たらしい人種だと思って間違いありません。

その混乱の中で、少しずつ何かに気づいていく可能性が広がっていくのです。同じ日にセッションにいらした複数のクライアントさんたちは、不思議なことに互いに似たようなエネルギーの持ち主である場合が少なくありません。

ところが、セッションの結果は真反対になることもあるのです。一人は、心を頑なに閉ざして鉄壁のガードを堅持し、もうお一人はヨレヨレになるくらいに感情と向き合うというように…。

そうした違いは、クライアントさん自身のその時の心構えや時期などが微妙に影響するのでしょうね。それ以外の要因は、神のみぞ知るということかもしれません。

セラピストは誠実な意地悪だということを、覚えておいて下さいね。

180度視線を反転させる

通常私たちは、自分の身体の中に入っているという感覚を持って生活しています。この肉体をまとって、その中から外側の世界に視線を向けているという感覚ですね。

この肉体の内側が自分固有のエリアであり、肉体の外側に世界が広がっていると思い込んでいます。誰もが、そんなことは疑いようのない事実だと思っているのです。

けれども、外側に向けたその視線を、そのまま180度反転させて、今まで見ることのなかった自分側に向けてみると、それまで気づけなかった驚くような事実がそこに広がっているのです。

あなたは、自分自身と外側の世界とは、この肉体を使って互いに隔てられていると思い込んでいたのですが、そんなものはないということに気づくはずです。

あなたは外側の世界と直接つながっていて、隔てるようなどんなものもないということに気づいてしまいます。もしも、疑うのでしたら試してみて下さい。

私が初めて、この実験をやったときの印象は、自分が外の世界だと思っていた場所に直接転がり出てしまうんじゃないかという感覚になったのです。

自分と外の世界を隔てるものが消えてしまっているからです。そして、もう少し注意深く内向きに見続けていると、こちら側には何もないということに気づいたのです。

その何もなさの中に、実は外側にあると思っていたこの世界があったことを見ました。言葉で説明すると、何だか回りくどいのですが、これほどシンプルな事実は今まで見たことがないくらいです。

そして、ああ、外側も内側も同じものが見えていたのだと分かったのです。つまり、外側と内側という区別は本質的にはないのだということです。

このシンプルさが非常に気に入りました。この実験は、いつでもどんな場所でも、すぐに実践することができるのですから、即検証してみて下さい。

きっと何か素晴らしい気づきがあなたを待っているはずです!