相棒との別離

丸三年とちょっと、毎日欠かさず足代わりに使ってきたクルマを、明日手放すことになりました。主に、お年寄りと小さな子供に人気があった可愛いクルマでした。

これまで乗り継いだクルマは、概ね次のクルマの話題が出たり、もうそろそろ売り飛ばされると言う頃になると、急に調子が良くなったり、あるいはその逆ですねたような具合の悪さを出したりしていたのです。

これは、人に言えば大抵は笑われてしまうのですが、本当の事なのです。それで、今回も次のクルマはどうしようかというのが持ち上がってきたときに、それとなくクルマの反応を見ていたのです。

ところが、まったくこれまでのクルマたちとは違って、完全な無反応なのです。とはいうものの、そのうちにはきっとなんだかんだと言ってくるに違いないと高を括っていたのです。

けれども、今日にいたるまで全く彼は文句一つ言うでもなく、本当に淡々と己の仕事をこなすのみでした。それで、今日仕事が終わって自宅に帰るまでの時間、ずっと彼に言い続けていたのです。

「君はすごいね!」って。身体は小さいのに、何だかとてもしっかりしていて、人に媚びを売って来たり、問題行動を起こして人の気を引こうということもしない。

「人のことを考えない」という、非常に困難なことを彼はいとも簡単にやってのけているのです。ただ自分のすべきことを実直に続けることで人生を生きていく。

まさに彼のような存在に自分もなりたいと思ったのでした。

今この瞬間にすべてが在る

毎日を忙しく過ごしている人は、きっといつもこう思っているのではないでしょうか?さっさとこれを終えて、次のことに取り掛からないとな、と。

そして次のことが終われば、またすぐにその次に控えていることに取り掛かるわけです。それがずっと続いているのが人生なのですね。

それでもときに、今すぐにやらねばならないことが特にないという状態がくると、何だか急にぽっかりと空きができたようで、手持無沙汰になったりするのです。

そうやって、「何もせずにいる」というただただ当り前のことが、何だか違和感があっていたたまれなくなってしまうのです。落ち着いてこの状態を見れば、すぐに変だと気づくはずです。

私たちは、今この瞬間に在ることを非常に恐れているとも言えるのかもしれません。本当は、今この瞬間の中に、あらゆるすべてが在るのです。

それなのに、私たちのマインドは思考を使って今この瞬間だけを見ずにいるのです。過去や未来へと想いを飛ばして、幻想の広がりの中で夢を見ることが好きなのです。

一日のうちのほんの少しの時間だけでいいので、何もせずにいる瞬間を意識的に作ってみるといいと思います。自分を取り囲んでいる今という瞬間は、この世界のほんの一部に過ぎないと思っていたことが間違いだと気づくかもしれません。

思考さえ落ちてくれたら、今この瞬間がすべてだと理解することができるのです。それは時間の流れの奥深くに広がる無限を垣間見せてくれるのです。

でも、ほんの少しでも思考が動き出すと、何でこんなことやってるんだろうがやってきて、すぐに普段の物語の中へと没入していってしまうのです。

物語が悪いのではなく、物語の当事者になってしまうことで、人間に固有の苦悩がやってくるということです。今この瞬間には、どんな物語も入りこむ余地はありません。

そしてそこにはすべてが在るのですから、これ以外に満たされる方法はないのでしょうね。

経験者ではなく目撃者でいる

osho の言葉に次のようなものがあります。

『あなたの日々のすべての活動や働きの中で、目撃者でいなさい、経験者でいてはいけない。』

osho のことを知っている人であれば、きっと何度も出会っている言葉だろうと思うのですが、これがまた本当に難しいのです。

私たちは映画館で映画を楽しむとき、スクリーンに映し出されている物語と自分の現実の人生とを完全に分けているのは当然ですね。

けれども、実は私たちは映画の中に入りこんで、一緒に泣いたり怒ったり、感動したりしたいのです。その物語があたかも本物であるかのようになることで、楽しむことができるのですから。

あくまでも自分は映画の鑑賞者なんだと何度も思い出しながら観るのなら、その映画を思い切り楽しむことはできなくなってしまうでしょうね。

それが私たちの好みなのです。つまり、わざわざ物語の中に入りこむことで、様々な感情をある意味安全な場所から味わって楽しむということが好きなのです。

それと同じことを、この現実という世界の中でやり続けているのです。人生という物語を作り上げて、その物語の当事者として生きる。

あまりに深く入りこんでしまっているために、目撃者でいることは非常に難しく感じるのです。あなたのマインドは経験者としてしか生きることができないからです。

けれども何としても、目撃者であることを訓練しなければ、マインドとの自己同化を壊すことができないのです。見ることによってのみ、対象との距離を持つことができるからです。

目撃者とは、物語を経験しているマインドと身体をただ見ているもののこと。マインドの経験するあらゆる痛み、苦しみ、思考、感情、気分、それらをただ見ることは、私たちを別次元へと連れて行くはずです。

osho のことを知っている人であれば、きっと何度も出会っている言葉だろうと思うのですが、これがまた本当に難しいのです。

私たちは映画館で映画を楽しむとき、スクリーンに映し出されている物語と自分の現実の人生とを完全に分けているのは当然ですね。

けれども、実は私たちは映画の中に入りこんで、一緒に泣いたり怒ったり、感動したりしたいのです。その物語があたかも本物であるかのようになることで、楽しむことができるのですから。

あくまでも自分は映画の鑑賞者なんだと何度も思い出しながら観るのなら、その映画を思い切り楽しむことはできなくなってしまうでしょうね。

それが私たちの好みなのです。つまり、わざわざ物語の中に入りこむことで、様々な感情をある意味安全な場所から味わって楽しむということが好きなのです。

それと同じことを、この現実という世界の中でやり続けているのです。人生という物語を作り上げて、その物語の当事者として生きる。

あまりに深く入りこんでしまっているために、目撃者でいることは非常に難しく感じるのです。あなたのマインドは経験者としてしか生きることができないからです。

けれども何としても、目撃者であることを訓練しなければ、マインドとの自己同化を壊すことができないのです。見ることによってのみ、対象との距離を持つことができるからです。

目撃者とは、物語を経験しているマインドと身体をただ見ているもののこと。マインドの経験するあらゆる痛み、苦しみ、思考、感情、気分、それらをただ見ることは、私たちを別次元へと連れて行くはずです。

今この瞬間の中へ深く入る

私たち人間のマインドの9割は無意識だと言われています。地球上のあらゆる鉱物、植物、そして動物はみな100%無意識の状態であることを見れば、人間が9割無意識でも納得できます。

ただ、人間だけが1割くらい意識的なマインドを持っているのです。その意識的な部分だけが、今この瞬間の中に深く入っていけるのです。

無意識の部分では無理なのです。だから人は、いつも過去と未来の中へと想いを広げて、その妄想の中で生きているわけです。

そんな無意識のマインドに対して、今この瞬間など取るに足りない退屈なものにしか見えないのは当然のことなのかもしれません。

過去と未来は無限に広がっているのに対して、今この瞬間など目に留まらないくらい小さなモノ。そこには、大切な夢も希望も何もない。

私たちが大好きな思い出や後悔はすべて過去にあるし、人生のゴールは勿論未来にしかないのですから、過去と未来だけが生きる支えなのです。

ではなぜ、人は今この瞬間に在りなさいというのでしょうか?それは私たちの本性が意識だからです。充分に意識的であるなら、思考はやってこれないのです。

思考がなければ、常に今この瞬間だけが真実だということを見抜くことができるのです。思考にとって興味の対象にはなれない今この瞬間こそが、無限の広がりを持っているのです。

そして純粋な意識と今この瞬間は、同じものなのですね。

「恥ずかしさ」が生き辛さを招く

小さな時から人一倍感覚が鋭かったりすると、いろいろな不具合や生き辛さのようなものを感じることになるのです。

たとえば、物凄く「恥ずかしさ」の感覚を強く持ってしまうと、あっという間に大切な無邪気さを失うことになってしまうのです。

これを言ったら恥ずかしい、こう思ったら恥ずかしい、こんな感じで何をするにも恥ずかしさが付きまとってしまうために、大抵は自己表現が抑えられてしまいます。

恥ずかしさは、子供なのに大人のような振る舞いをさせてしまうかもしれません。親は、道理をわきまえたいい子だと思うので、問題とは思わないのです。

学校でイジメにあったとしても、お母さんには決してそのことを言わずにいて、全部その子の小さな胸の中にしまいこんでしまうのです。

誰かに助けてもらいたい、誰かに抱きしめて安心させてもらいたい、そういう素直な気持ちも丸ごと恥ずかしさのために隠すことになってしまうのです。

甘えることも恥ずかしい、駄々をこねたりする子供っぽい自分を出すのも恥ずかしい。こうなってくると、大人になっていずれそのツケが回ってきます。

つまり、自分のあるがままをひた隠しにしてきたために、それが逆襲してくることになるのです。そこに子供らしい無邪気さも加算されるので、本人としてはひどく困ることになるのです。

自分の人生を顧みて、ずっと恥ずかしさがあったなという自覚があるのでしたら、今からでもその恥ずかしさから逃げない練習をすることです。

恥ずかしさとは、自分を否定されることの恐怖なのです。実際には、誰も否定などしないということを理解すれば、クセのように逃げ回ってきた恥ずかしさを正面から見ることができるはずです。

実践していくうちに、恥ずかしさとはある種の幻想、作り物だったと気づくことができるはずなのです。試してみて下さい。

自分自身を笑う日

私は子供の頃からお笑い番組が大好きで、笑いすぎて呼吸がうまくできずに窒息しそうになって、苦しくてそれでも笑っていたこともあったくらいです。

親などは、何がそれほど面白いのか分からないと言っていたのですが、この面白さを理解できないなんて、人生損してるんじゃないかくらいに思っていたものです。

人は他人のことを笑うのは得意なのですね。誰かがドッキリカメラに騙されている姿などを見ていると、思わず大笑いしてしまうのです。

けれども、いざ自分がそのように笑われる立場になったとしたら、誰かのことを笑っていたときのように、気持ちよく一緒になって笑えないかもしれません。

そう、自分のことでそれほどの大笑いをするということは普通ないのです。逆に笑われていやな気分になってみたり、酷く侮辱されたような気持ちになったりもするのです。

みなさんは、自分自身のことで笑うことができるでしょうか?自分が自分の100%当事者として生きていると、自分を笑うことは難しくなるのです。

逆に、自分をしっかり観照していることができるなら、自分のことを愛らしく、ユーモアを持って見てあげることができるようになるのです。

そうなったら罪悪感も何のその、どんな自分であってもイイも悪いもなくなり、盛大に笑ってあげることができるようになるのです。

そのとき、すごく身も心も軽~く感じるようになるはずです。

愛着は滞りを起こす

誰でも長く使っているものというのは、単なるモノであるだけでなく、それなりの思い入れのようなものがあって、手放すときには少々感傷的な気持ちにもなるものですね。

それは愛情と言うよりも、愛着と呼んだ方が近いのかもしれません。あるいは、もう少し否定的な言葉を使えば、それにしがみついているとも言えますね。

人は馴染み深いもの、よく自分と馴染んだモノに対しては一様にしがみつく傾向を持っているということです。それがまるで自分の一部のように感じられるからかもしれません。

そして、面白いことに、そうした愛着、しがみつきというのは、普通は好みのモノに対してのみあると思われがちですが、実はそうではないのです。

本人にとって決して好ましくないようなモノでさえ、しがみつく傾向というのは作用するのです。たとえば、同じ病気を長く患っていると、それとの生活が当り前のものになっていくのです。

そうすると、いざその病気が治ろうとすると、マインドのどこかに不思議な寂しさや物足りなさのようなものを感じるということもあり得るのです。

私は若い頃から胃腸が弱くて、胃がもたれることが日常的にあったのですが、たまに胃の調子がすこぶるいい感じの時があるのです。

そうすると、気が付くと食べ過ぎていつもの胃もたれを起こさせるようなことをしていた自覚があったのです。その時は、不思議だなと思っていたくらいでしたが、きっとこれも胃もたれを馴染みにしていたということですね。

人は幸せになりたいと表面では思っているものの、長い間同じ苦しみの中にいたり、辛い状態が継続してしまうと、そこから抜け出たくないという「しがみつき」を起こすことになるのです。

愛着やしがみつきが強いと、どうみても自然の流れに乗れてない状況を生み出すことになり、存在に逆らって生きることになるので、非常に生き辛くなるはずです。

去っていったもの、そして、やってきたものは、ただあるがままに受け入れること。これがすべての滞りから抜け出す最も優れた生き方なのだと思うのです。

真の成長とは

私たちは、物心がついたころにはもうすでに、嘘で固められた毎日を生きるようになっているのです。どんな正直者であったとしても、嘘は日常茶飯事なのです。

言いたいことを何でも言える人など、決していないのは自明のことですね。この社会の中で生きていくということは、そういうことなのだと知らず知らずのうちに了承していたのです。

けれども、言いたいことを言わなかったり、したいことをしないでいると、そのエネルギーはマインドの奥へと追いやられていくのです。本人が気づいていようといまいと…。

そしてその言いたいエネルギーは、明日になったら言ってもいい?明後日は?とずっと出番を待ち続けているのです。そうやって出番待ちの状態のエネルギーは、仕方なく夢の中へと出番を見つけることになるのです。

あなたが親や社会と約束した契約を忘れて寝ている間を狙って、何とか出現するのです。夢とはそういうもののことだと思って間違いありません。

夢の中とは言え、現れることができたときには、幾分かは満足することができるのですが、それでも現実の世界に出てくるのと比べたら、ほんの少しの満足に過ぎません。だから繰り返し夢を利用するのです。

生きてる限り夢を見続けてしまうのは、私たちがそのような嘘を生きて、不満足のエネルギーを蓄積してきた結果だということです。

夢だけでは間に合わずに、目覚めている間にも似たようなことをしている人が沢山います。それは、物思いにふけっていたり、ぐるぐると考え事をしていたりということ。

こうしたことは、夢を見ているのと本質的には何の違いもないのです。目覚めていようと、寝ていようと、どちらにしても無意識の状態だからです。

無意識は動物や赤ちゃんと同じで責任がないので楽なのです。けれども、せっかく自覚ある人間として生きているのですから、できる限り意識的であり続けること。

徹底的に意識的であろうとするそのときに初めて、人間が神へと向かう真の成長が起きるのですね。

意識に道を譲る

人間である私たちの深いところには、必ず真実を知りたいという欲求があるのだと思います。はっきりと気づいていないにしても、それは間違いなくあるはずです。

人生が夢のような物であろうと何であろうと、そんなことよりそこで面白おかしく愉快に生きていければいいじゃないと思っているとしても、その表層の皮を一枚剥いでしまえば、きっと真理へと向いているのだろうと思うのです。

ところが残念ながら、「私」がいる限りは真実を知ることは不可能なことです。なぜなら、虚偽である「私」が真実を見るなんてことはありうるはずがないからです。

結局、本当に真理への渇望があるのなら、私は死んで真理への道を潔く開けてあげるしかないのですね。けれども、私と言うエゴが私自身を亡き者にすることは、これまた不可能なこと。

いわゆる自殺というのは、私というエゴが私の肉体を殺すことなので、私が私を殺すこととは違うのです。マインドがマインドを落とすことはできないということです。

「私」が唯一の邪魔者だなんて、なんだか寂しい感じがしないでもありません。けれども、この世界をどう見たところで、壮大なドラマのようにしか見ることができないのですから、この「私」は身勝手なものです。

そしていつかは確実に「私」と肉体は死ぬ運命にあるのです。ホント、「私」って救われないのですね。しかも、「私」が幻想だったということを見抜くのは、「私」ではないわけで…。

唯一この「私」にできることと言えば、できる限り気づきの邪魔をしないようにすることだけですね。なるべく活躍せずに、つまり思考を回転させずにいて、意識がそのまま露出できるようにしてあげること。

意識さんが出たがっているのだから、この生を譲る決意ができるといいのですが…、ね。

人の事を考えるな! その2

グルジェフのこの言葉、「人の事を考えるな!」について、つい先日このブログで人の事を考えるな! その2たばかりなのですが、もう少し補足したいと思います。

私たちは、なぜ人のことをいつも考えてばかりいるのでしょうか?その理由が分からなければ、この言葉の真の意味を理解することが難しいはずです。

実は、その人のことが好きでも嫌いであっても、興味があろうがなかろうが、他人に何等かのエネルギーを向けて考えたり、気にしてしまうのは、概ね自分を守るためなのです。

私たちのエゴは、自分を守りたくて仕方ないのです。不安であれば、何としても安心したいし、孤独であればその苦しみを癒してもらうべく狙っているのです。

人の事を考えるのは、その人が自分のことをどう思っているのか、否定されてはいないか、嫌われているのではないかとビクビクしているのです。

人の評価を気にしているからこそ、その人のことを考えてしまうのです。つまりは、自己防衛のためにその人たちのことを考えずにいられないのです。

そんなことはない、自分は相手のことを思って手を差し伸べようとしているだけなのだとか、可哀想だから相手をケアしたいだけなのだと思い込んでいるかもしれません。

けれども、それも相手の気持ちを感じて、自分の内面が苦しくなるのを嫌うからこそ、つまり自分を平安な状態に置いておきたくて、相手のことを考えるのです。

結局はそれも自己防衛が目的だったということです。そのことに、しっかりと気づくことですね。グルジェフは自己防衛をやめろと言っていたのです。

人の事を考えずに、自己防衛することはほとんど不可能だからです。防衛はすればするほどエゴを強化し、愛の代わりに恐怖を原動力に生きることになってしまうのです。