代用品では満足しない

私たちは気が付くと、友達を欲しがるようになり、成長すると恋人を欲しがるようになり、そして家族を欲しがるようになるのです。

学校に所属して、会社に所属して、それ以外でもどこかの組織に所属したくなるのです。とにかく単独で生きようとはしないのです。

独りではとても人生を生きるには辛すぎる。誰かと、何かと繋がっていなければ不安に苛まれてしまうということを知っているのです。

こうした繋がりたい欲求の正体とは一体何なのでしょうか?このことを突き詰めていくと、誰もがエゴをでっち上げたことで全体と分離してしまったと感じていることが原因だと言えるのです。

つまり、エゴによって一人前の個人になれた(つもりでいる)ものの、その結果は残念なことにとてもじゃないけど恐怖と不満で絶望的になってしまったのです。

仕方なく、個人でいることはそのままにして、再度全体と繋がりたいという強烈な願望の代用品として、誰かと、何かと繋がっていたいという欲望が起きてきたと言うわけです。

私たちの世界でいうところの愛とは、所詮そのような代用品を求める偽りの愛だったということです。だからこそ、愛し合っていたもの同士が、憎しみ合うことになったりするのです。

このようなことに気づき、この世界の中に代わりを求めて人生を浪費することをやめるという決断をする必要があるのではないかと思うのです。

私たちが本当に求めてやまないもの、それは全体性との繋がりであり、実はその繋がりは決して切れてはいなかったというありがたい真実に気づくこと。

逆にエゴの方こそが幻想だったという、これまたありがたい真実についても見抜けるようにしたいものですね。

エゴの悪循環から抜ける

いっそのこと死んでしまいたい、そう思っている人が実は、人一倍死を恐れているという事実を知っていますか?矛盾しているようですが、本当のことです。

クライアントさんの中には、死にたいという願望をマインドの中に持ちながら、生きている人が時々いらっしゃいます。そういう人は、自分は死ぬことは別に怖くないと言うのです。

死ぬことよりも、生きねばならないことの方がよほど辛いのだと。けれども、よく考えてみれば分かることですが、その生き辛さの原因は何処から来るのでしょうか?

それこそが、死を恐れるマインドからやってくるのです。死を恐れるあまりに、あらゆる自己防衛を続けることで、そこから自己犠牲が発生して生き辛くなるのです。

正確ではないとしても、おおよそ以下のような順番でマインドが進んで行くのです。

エゴができる→死を恐れる→防衛によって苦悩する→生きることを恐れる→死にたくなる

上のように一直線に進んで終わりになるのではなく、それを何度も繰り返すことになるのです。たとえば、エゴは防衛することでより強化され、その結果より強く死を恐れるようになるのです。

その連鎖によって、また防衛も強くなり、更に生き辛さを増していくわけです。このようなことが、人生の中で繰り返されて、いずれは破たんするはずです。

そして、どうにもこうにもならなくなったとき、この連鎖に歯止めがかかるのです。それが自然の摂理というものです。自動的に恐れから逃げなくなるのです。

けれども、そんな自然の癒しに至るまで生き続けるのは、どんなにしんどいことでしょう。それよりも、勇気を出して余力があるうちに自分を癒すことを考える方が、賢い選択だと思いますね。

集中と瞑想の違い

みなさんも経験があると思うのですが、子供の頃ってすごく集中力があったように憶えているのです。きっと、純粋に自分がやりたいことをやっているだけの単純さがよかったのでしょうね。

大人になると、いろいろな要因によって行動する分だけ複雑になってしまって、それだけ集中力が欠如するようになってしまったのだろうと思うのです。

いやいやながら仕事をしていて、集中することなど到底無理というものです。早く終わりにして、彼氏、彼女とデートに行きたいと思っていたら、浮足立って注意散漫になっても仕方ありません。

それでも、人間って追い詰められて、必死になっていたりすると、それなりに集中力が戻って来たりすることもありますね。切羽詰まったときのあの集中力は、ネガティブかもしれないけれどたまにはいいものです。

ところで、その集中力を養うことで、それが瞑想にも役立つと思っている人がいるかもしれませんが、それは実は全くの勘違いなのです。

どういうことがというと、集中するということはある一点に注意を絞り込むことであって、逆に言えばその一点以外のところに対しては意識のレベルが低下してしまうのです。

つまり、集中とは焦点が当たったところだけにピンポイントに意識が当たり、それ以外のところは無意識状態になってしまうということです。子供がゲームに集中してると、お母さんの声が全く聞こえなくなるあの状態です。

瞑想というのは、全方位に対してできる限り意識的になることですので、集中は瞑想の妨害になってしまうのです。集中には焦点となるターゲットがあるのですが、瞑想はターゲットが不在になることです。

その違いを理解していないと、瞑想中に気づくと集中してしまっているということが起きるかもしれません。集中は緊張を生む可能性がありますが、瞑想には決して緊張は起きないのです。

子供は集中力があって超能力とかを発揮することも多々あるようですが、その集中力がかえって邪魔をしてしまうために、彼らには深い瞑想は難しいのかもしれません。

瞑想とはマインドから離れる方法

最近では、クライアントさんとのセッションのときに、瞑想について触れることが増えてきました。そもそも瞑想って何なのですか?と聞かれることもあります。

自分で話しを振っておいて、きちんと答えられないのもいけないのですが、いざこれこれしかじかなものですと説明するのはやはり難しいのです。

この時点で、私が言えることは少ないのですが、それでも敢えて書いてみたいと思います。まず瞑想と言えば、誰でも連想すると思うのですが、リラックスした状態をイメージしますね。

確かにリラックスした状態でなければ、とても瞑想状態に近づくことはできそうにありません。けれども、瞑想=リラックスというわけでもないのです。

簡単に言えば、瞑想状態へ移行するためには、まずリラックスする必要があるというだけのことです。そしてもう一つ、一般的に知られていることは、瞑想によってマインドに平安をもたらすということ。

実はこれも本当のことではありません。マインドを静かにすることは、瞑想に頼らなくても可能です。気持ちのいい静かな音楽を聴いたり、方法はいくらでもあるはずです。

実は最も端的に表現すれば、瞑想というのは自分のマインドから離れていくための手法だということです。マインドをどうこうしようという発想そのものが、マインド自身のものなのです。

瞑想はそういったマインドから遠ざかるための作戦なのです。そうやって、マインドに送っていたエネルギーを遮断するのです。

結果として、マインドは活力を失って次第に落ちて行くことになるのですが、それはあくまでも結果としてということであって、マインドへのどんな働きかけもしないのです。

そのためには、つまりマインドから離れていくためには、マインドをずっと見続けていることが必要とされるのです。勿論思考抜きで、ただ見るのです。

見ることができるなら、マインドとの間にすき間ができるはず。これが私なりに今言える瞑想の目的なのです。

心身共に非活動でいる

みなさんは、一日のうちに何もしない時間というものを設けていますか?何もしないというのは、身体を動かすこともせず、そして内面的などんな活動もしないということ。

独りで過ごす時間には、テレビも消して、音楽も聞かず、そして瞑想すらせずにただじっとしているのです。すぐに、マインドはその落ち着きのなさを露呈し出します。

私の場合だと、右足首を使って得意の貧乏ゆすりを始めたり、マインドのどこかでずっと何かのメロディを口ずさむということをやらかしてくれます。

そして最近よく分かったことですが、そういう時には自分のマインドは物凄く陰気臭い、あるいは辛気臭い感じがするのです。

少しも落ち込んでいるとか、気分がすぐれないということはないはずなのに、なぜかただじっとして内側に意識を向けているだけで、こいつ陰気な奴だなあと分かるのです。

だからこそ余計に、私のマインドはそれを隠そうとして落ち着きを失くすのだろうと思うのです。何もしないでいるだけで、このような自分の素の部分が見えて来るのですね。

外側に意識を向けている間には、決して気づくことのできなかったことです。私はどうも意地悪なところがあるらしく、こうした時間をもっともっと増やして、自分がこれまで隠してきた都合の悪さを暴いていこうと思うのです。

そしてこの何もせずにいるということの最大の効用は、心身共に非活動的でいることで肉体とマインドの両方から、距離を置いたところに行ける気がする事。

この肉体、このマインドというようにある種他人事のように見ることができるのです。このやり方で、陰気なこのマインドの正体を見つけてみるゲームを、もっと楽しもうと思うのです。

感情の正しい味わい方

セッションを通して私なりに気づいたことなのですが、多くの人たちは感情を味わうという人間として最も根本的なことを本当には知らずにいるということです。

それじゃあいつまで経っても、生き辛さがなくならないはず。なぜなら、過去に無数に溜め込んできた感情のエネルギーが現在のあなたの生活を邪魔してしまうからです。

あなたの周りで起きることや、他人が何やらやらかしてくれるあらゆるものは、単に自分の奥深くに隠された感情を表面化してくれる状況に過ぎないということ。

それは単なる誘い水だったと気づく必要があるのです。あいつにこんなひどいことを言われたから激しい怒りが湧いてきてしまったと考えたいところですが、本当はそうではないのです。

もしもあなたが、すでにこのブログを読めるくらいの年齢であれば、必ずや過去の感情がすでに蓄積されていて、いつでも表面化するチャンスを狙っているということです。

顕われた感情はあいつにひどいことを言われなくても、いつかは表舞台へと出て来るはずのものだということ。その気づきが絶対的に必要なのです。

そしてこれまで、感情を表現するか抑圧するかのどちらかしかやってこなかったということを知ること。表に出しても、抑圧してもダメなのです。それでは、感情はどこへも行かないまま残るのです。

周りの状況や誰かの言動を自分の周辺へ置いておき、自分はみずからの中心へ独りで赴いて、その感情と一つになるということ、それが感情を味わう正しい方法なのです。

それがうまく行けば、必ずやその感情があなたを悩ませることはなくなっていくはずです。ネガティブな感情はより小さくなり、ポジティブな感情はより大きくあなたを包むことになるでしょうね。

マインドのウソを暴く

人間のマインドのもっとも優れた特技は、自分自身を欺くことができるという才能です。自分にウソをついて、その状態でいつまでも騙し続けるのですから、非凡な能力と言わざるを得ません。

騙すのもマインドであり、騙されるのもマインドなのですから、不思議な感じがしませんか?その騙すテクニックは相当に優れているようで、一生涯それに気づくことがないのです。

私たちが人生で真っ先に騙されたこと、それが「自分という個人がここにいる」ということ。その思い込みたるや、どれほど真実を見ようとしても見させてはもらえません。

だって自分はこうしてここにいるじゃないか!、という感覚が圧倒的過ぎて、騙されているなどとは微塵も感じられないのです。どうしても嘘を見抜けない。

もう一つの絶大な騙しとは、それは自分が「人生を生きている」という思い。まず、初めに自分を存在させて、その後に人生という物語をでっち上げる。

そして自分をその主人公に仕立て上げてしまったのです。そのすべてが完璧すぎて、疑う余地など全く残されていないかのような見事な腕前。

でもね、完全犯罪というのはやっぱりないのかもしれません。なぜなら、いたって平凡な私のような人間が、こうしてマインドを疑ってかかっているのですから。ドッキリじゃないのか?って。

どうもおかしい、騙されているに違いないという直感が働くのです。マインドが使う騙しのテクニックのベースは、信じるという機能。深く信じてしまえば、騙されていることに気づくことができなくなるのです。

この深く信じること、これこそが信念です。だから、信念とはとても危険なものだと認識する必要があるのです。あらゆる信念を一度白紙に戻すことです。

信じることをすべてやめることにしましょう。そうして、最初の最初からやり直すのです。信じることも信じないこともやめたとき、自分は何も知らなかったと気づくはず。

本当に知っていることは信じることができないのですから。何も信じなければ、もうマインドは自分を欺く能力を失ったも同然なのです。

そして、ウソが暴かれたとき、マインドはもたないでしょう。なぜなら、そのウソ自体がマインドそのものの正体なのですから。

執着が落ちた後の爽快感

私は、30歳になろうとするときに、それまでずっと吸い続けてきたタバコを止めた経験があります。10年喫い続けたチェーンスモーカーでした。

今では考えられないのですが、社会人になって初めて務めた会社は、いつでも自由に仕事中タバコを喫うことができる職場だったのです。

職場の空間がいつも、タバコの煙でモーモーとしていたのを覚えています。よくもまあ、誰からも文句の声が挙がらなかったと不思議なくらいです。

そして人生で初の転職を前にして、ちょうどいいタイミングだからと禁煙に挑戦したのです。次の会社は外資系だったため、タバコは厳禁だったからです。

今日からタバコを喫わないと決めた日、それまでいつも自分と共にいてくれたタバコを失うということが、何だかとても不安だったのを憶えています。

けれども、一週間、二週間とタバコ抜きの生活ができたときには、全く違う気持ちがやってきたのです。それは、タバコに頼らずに生きられるという自信。

その何とも言えない清々しさは、今でもはっきりと覚えています。タバコへの依存でもそのくらい大変なのですから、もしも誰かにしがみついているのなら、それを失うとしたらどれほどの恐怖を感じるのか想像に難くありません。

しがみつきは、それが無ければ生きてはいけないと感じるくらいのとても大きな執着心なのですから、失う恐怖が大きいのは当然ですね。

たとえそうであっても、<存在>はいつまでもその執着の中に人を置いておくはずはありません。いずれは、勝手に本人の手から滑り落ちていくことになるのです。

時期が来れば、必ず執着は終焉を迎えることになるので、たとえ大きなしがみつきがあるとしても、焦らずに待つことです。誰であれ、執着が取れた後のあの爽快感を味わうことができるのですから。

自分の二つの世界

最近ようやく、自分には二つの世界があるということに気づくようになってきました。言わば、これまで慣れ親しんできた表の世界と、もう一つはその奥に隠されていた世界。

表の世界では、人生を含めてすべてが物語として推移していて、自分はそこの住人なのです。あらゆるものが変化し続ける、いわゆる諸行無常の世界ですね。

この表の世界には、自分の肉体とマインドが属しているのです。そして、あなたもここに属している、人類の歴史も、宇宙の歴史もその未来もすべてはこの表の世界のもの。

そしてもう一つの世界、それは自分の奥へ奥へと入っていった先にのみ、その世界があると気づくようになるのですが、それは世界というよりも、本当はどんな名前もつけようがない。

それは表の世界を現象化している根源のようなもの。表の世界のどんなものでも、そこから表出して、いずれはそこへと消失していくのです。

だからその隠された世界とは表現できない何かで満ち満ちているのかもしれません。そして、それこそが私たち誰にとっても自分の本質なのです。

あなたが死ぬとき、それは表の世界でのあなた、つまり単にあなたの身体とマインドが死ぬのです。もう一つのあなたの隠された実在に変化はありません。

そこは何かがあるというわけではないので、変化できる可能性はないからです。表の世界だけで人生を生きてるつもりになっていると、もう一つの世界のことを感じることはできないままになってしまうのです。

それを知るためには、瞑想が必要です。それも、のべつまくなしに、奥へ奥へと意識を向け続けることが必要なのです。忘れたらまた思い出せばいいのです。

このもう一つの世界のことは、知識だけではまったく役に立ちません。体験がすべてだと言って間違いありません。私自身、現在進行形のことなので、まだこの程度のことしか言えないのです。

ただし、もう一つの世界のことを、間違ってもあの世のことだと思わないで下さいね!

戦争を根絶させるためには…

聞いた話ですが、人間はこの三千年の間に、実に一万五千もの戦争をしてきたらしいです。どう考えても尋常ではないですね。

でもそれが人類の偽らざる姿だということです。なぜ戦争が続くのか、その理由を一番根元のところまで堀り下げていくと、それは死ぬことの恐怖があるからだと分かります。

私たちは、生まれてからずっと死ぬことを恐れているのです。その恐怖を何とか誤魔化そうとして、心理的な自己防衛が始まるのです。

何としても自分を守って安心したい、そうすれば死の恐怖が遠のくとどこかで思っているのです。自分が生き延びるためには、他人を犠牲にしても仕方がないと思わすくらいに、死の恐怖は絶大なのです。

ところで、数千年の間にあちこちで顕われた神秘家と言われる人たちは、異口同音に我々の本質に死はないと伝えてくれています。

その真実を体験することができたなら、つまり自分の本質は死なないし、他人の本質も同様に死ぬことはないと真に気づくなら、人類はどうなるのか?

それは勿論、恐怖の根源が消滅してしまうのですから、各自がずっとやり続けてきた自己防衛が不要となって、誰もが無防備な生き方をするようになるということです。

自分が死ぬと信じているからこそ、相手を殺すということが意味を持つのですから、当然の結果として死なない相手と闘う意味がなくなってしまうのです。

そうなったときに初めて、人類から戦争というあさましい出来事が消えて行くのでしょうね。それ以外のどんな手立ても、これまでのところ戦争をやめさせることに失敗してきたのですから。

経済の動向も気がかりではありますが、一人ひとりが真実に気づくようになること以上に大切なことなど、一つもないのだろうと思うのです。

この先、人類が救われるためには、それ以外の手立てはないのかもしれませんね。