科学は客観、宗教は主観

アインシュタインの言葉で次のようなものがあります。『宇宙について最も理解しがたいことは、それが理解可能だということである。』

確かに時々ふと思うことがあるのですが、宇宙の成り立ちや構造などを解明しようとして、頑張ってきた人類の歴史があります。

ほんの一部かも知れませんが、実際に例えば量子力学がなければスマホの出現もありませんでした。私たちの知らないところで、その理論は使われているのです。

なぜ人間が宇宙の一部を解明することができたのか、本当に不思議な感じがします。人類が宇宙の一部だから、などともっともらしいことを言われてもあまりピンとこないのです。

ただし、どれほど科学が発展したとしても、客観的な観測をベースとする科学では、明らかに限界があるのだろうと思っています。

というのも、真実は全くもって主観的なものだからです。そして主観は決して測定することができないからです。

主観を宇宙の中で共有することは不可能なのです。主観は宇宙とは次元が異なるのです。それを宗教と呼ぶらしいですね。

もちろん、私たちが普段イメージしている◯◯教と呼ばれるような、宗教組織で教えているようなものとは違います。

そこには本質的にはどんな教えもありません。あるとすると、それは方便でしかないはずです。共有できないからこそ、それについて語る時には方便となるわけです。

客観的世界と主観的世界の両方に、いつもまたがっているようにして生きることができるといいなと思っています。