惨めさがカギ

私たち人間、つまり自我にとって一番認めたくないのは、自分は惨めな存在だという思いです。みなさんは、惨めさから何を連想されるでしょうか?

哀れだし、情けないし、無力だし、生きてる価値がない等々。こんな劣悪なイメージを大切な自分自身に対して持っていたら、とてもじゃないけれど安心して生きていくことなどできません。

だから人はできるだけ惨めさから遠い存在になろうとするのです。つまり自分は惨めじゃないということを何とかして証明しようとするのです。

その頑張りと努力の連続こそが人生というわけです。少しシンプルに表現し過ぎてしまいましたが、それほど間違ってはいません。

都度惨めさを観ないで済むように、マインドにはある仕掛けがあるのですが、それは怒りです。惨めだという思いがやってきそうになると、間髪を入れずに怒りで蓋をするのです。

本人としては、怒りだけを感じるので惨めさは見えなくなります。けれども、惨めだという思いがなくなるわけではありません。

そのため、怒りの下には惨めさからやってくる悲しみが蓄積することになるのです。このことは、怒りをしっかり感じると最後には悲しみがやってくるということでも分かります。

怒りをしっかり味わってからその下に隠された悲しみを味わうのか、それとも怒りは脇に置いておいて直接悲しみを味わうのか、私はどちらでもいいと思います。

ただし怒りそのものを長いこと抑圧してきてしまった人は、やはりその怒りをまず初めに味わってあげる必要があると思います。

いずれにしても、自分の惨めさから一歩も逃げずに、それは単なる思考であると気づいて、怒りや悲しみを味わうことで、癒しが進んでいくのです。

このことを忘れずに、実践していくことですね。