愛は「慣れる→飽きる」とはならない

自我の大事な能力の一つに「慣れる」というのがあります。私たちは慣れることで、手際が良くなったり、スムーズに物事を扱えるようになるのです。

クルマの運転しかり、楽器の演奏やあらゆるスポーツ、何であれ初めは不慣れなものですが、次第に熟達していけるのは、「慣れる」という能力のおかげです。

ただ、この慣れるということの功罪の罪の方にも目を向ける必要があるのです。慣れると緊張感が欠けるようになって、運転であれば事故を起こしやすくなるのです。

あるいは慣れることから派生して、飽きるという状態がやってくることも多々ありますね。もしもあなたが大切な誰かと一緒にいるとします。

それが毎日毎日繰り返されるとしたら、何だか毎日が単調過ぎて飽きてしまったなとなるかも知れません。

いわゆる出会った頃のあの新鮮な感覚がなくなってしまったと感じるのです。それは互いにハッピーなことではないですね。

なぜ慣れるから飽きるがやってくるのかを見てみたのですが、きっとそこには愛がないからではないかと思うのです。

慣れたとしてもそこに愛の要素があるなら飽きるということには繋がっていかないのだろうと思うのです。

自我は思考つまり過去に生きているのですが、愛は常に今この瞬間であるため、そこに飽きるということがないのです。

もしもあなたが慣れ親しんだものが人であれ仕事であれ、ずっと変わらずに飽きが来ないとしたら、その人その仕事との関係には愛があるということになるのでしょうね。