自然は冷酷ではない

苦手な人も多いと思うのですが、カマキリは交尾した後、メスがオスを頭からムシャムシャ食べてしまうという習性を持っています。

子供を育てるメスにとっては、これから栄養を沢山摂らなければいけないので、一番身近にいるオスの身体を栄養源として使うということです。

こんなひどい話はありません。もしもカマキリに生まれ変わるとしたら、絶対にオスは嫌ですよね。

カッコウという鳥は、全く違う鳥の巣を見つけては、そこに卵を産み落とすのですが、その時にその巣に元々あった卵を一つくわえて立ち去ります。

理由は簡単。卵の数合わせをやっているわけですね。親鳥が戻ってきたときに、気づかれないようにしているのです。巧みですね。

親鳥は、自分の卵の代わりにカッコウの卵が置いてあるなどとはつゆ知らず、それを大切に暖めて過ごすのです。

無事にカッコウのヒナが卵から孵ると、何と他の卵やヒナを一つずつ巣から蹴落として、自分だけが餌をもらえるようにするのです。

親鳥は、自分の可愛い子供を死に追いやった敵であるカッコウのヒナに、献身的に餌を運び続けるという皮肉。

カマキリもカッコウも、どちらも根性が曲がっているというわけではなくて、種の保存のために自然が生み出した戦略でしかないのです。

私たち人間の目でそれを見るから、あまりにも酷過ぎると感じるだけであって、自然というのはそんな我々の感性などお構いなしです。

これだけでも、如何に私たちが自分たちに都合の良いように物事を歪んだ目で見ているかが分かります。

自然が冷酷なのではなく、こちらの見方が勝手な解釈を作っているだけだということに気づく必要があるのですね。

世界は人の数だけある

人は自分が見たいようにこの世界を見ている。こうしたことは以前から聞いて情報としては知っていたのですが、実感としては曖昧なものでした。

ただこの仕事をするようになって、それが確かにそうなのだということを繰り返し納得出来るようになりました。

たとえば、あるクライアントさんのお話をお聞きして、その方の子供の頃のご家族の状況を知ることができたとします。

別の機会に、そのクライアントさんのご家族の誰か、たとえば兄弟姉妹のお一人がいらして、その方とセッションをするとまた違ったご家族の印象をもらうのです。

またもうお一人別の家族の方がいらしたとしても、それはそれでまた異なるご家族の様子を垣間見ることができるのです。

その中のどなたも嘘をついているということではないのですが、それぞれに見解が違うのです。

つまりは違う家族の中で生活しているような印象を持っているということです。これ、なかなか激しいものがあります。

立場が変われば意見が変わる、というのもありますが、やはり人は自分の内面が映し出された世界を見ているということですね。

それなのに、私たちはこの世界は誰にとっても共通の唯一のものだと信じて疑わないので、そこで軋轢が生じて争いが起こるのです。

あなたの隣にいる最愛の人であっても、あなたとは違う世界を見ているということを、再認識することは大切なことかもしれないですね。

思い出の出番がなくなる

人間の脳における記憶システムには二種類があります。一つは一時記憶装置としての海馬であり、もう一つは永久記憶装置としての大脳皮質。

一定期間(3ヶ月程度?)アクセスし続けた情報は、大切な情報として海馬から永久記憶装置の方に送られ、永久に保存されます。

一方、ほとんど使われなかった情報は、不要な情報として扱われてしまうため、海馬から捨てられてしまうのです。

昨日のブログで書いた私の母親の記憶障害は、前者の方。つまり、海馬の周辺における障害であるため、つい今しがたの記憶が曖昧になってしまうのです。

けれども、大脳皮質に仕舞われている記憶は健在なので、そちらの話しをあれこれ振ってあげると、色々思い出してくれるのです。

私を産んだ病院のことだとか、幼児の時に川に落ちて九死に一生を得たことなどをちゃんと覚えてくれています。

今日デイサービスでどんな運動をやってきたかを聞いても、一度も思い出すことができないのに、何十年も昔のことはかなり明確に覚えているのです。

永久記憶装置である大脳皮質に蓄えられた記憶は、思い出として残っているので、それはコミュニケーションツールとして役に立ってくれるのです。

自我としては思い出というのは、かけがえのない大切な情報なのですね。ただし、この思い出の中に入っていくと大抵は無意識状態になってしまうのです。

それはちょうど夢の中のような感じです。もしも本当に意識的であることができるなら、思い出はほとんど出番がなくなってしまうでしょうね。

母親との会話

気がつけば母親は92歳になっていて、幸いにも身体は健康でどこも悪いところがなく、年齢相応に足腰が弱ってきたかなという程度。

ただ、記憶力がすこぶる悪くなってきたのです。昔のことは覚えているのですが、最近のことをすぐに忘れてしまいます。

何とかこれ以上悪化しないで欲しくて、毎日のように質問をしてそれに答えさせるようにしています。

「何歳になったんだっけ?」と質問すると、ええと〜としばらく考えてから調子の良い日は「92歳くらい?」と答えることができます。

「くらいっておかしいでしょ?92歳で正解だよ。」とツッコミを入れると、面白いのか笑ってくれます。

一方で調子の悪い日は、「90歳にはなってないかな?」とか、「72歳?」などと平気で答えるのです。

そして今日は、残念ながら調子が悪いらしく、「何歳だか頭がおかしくなってしまって分からない」と言うのです。

「92歳だよ」と教えてあげるとしばらく考えて、「91歳はどこに行った?」と言うので、大爆笑。

母親を見ていてよくわかるのですが、年老いていくに従って記憶力の低下と同時に無意識でいることが多くなるようなのです。

きっと好ましくないことなどを忘れていって、生まれた時のようにぼーっとした無意識状態に戻っていくと言うことなのでしょうね。

年老いてなお意識的であり続けることが、どれほど難しいことなのかを日々見せつけられているようで、毎日の練習が大切なのだろうなと思うのです。

挫折の勧め

昨日のブログでは、欲望と受容はちょうど正反対に向いており、欲望を取れば自我は活性化するし、受容を取れば自我は衰退するというお話しをしました。

実は受容以外にも、自我を弱体化するチャンスというのはあるのです。それが挫折ですね。それも完全に挫折すること。

挫折というのはこの社会ではあまり好ましいこととは思われていませんが、人は挫折することで様々な気づきを得ることができるのです。

ちょっとした挫折だとかえって自我を強化することにもなるのですが、完全なる挫折は自我にとっては致命傷となるのです。

それは生の無意味さに気づくことだから。それによって戦いの毎日に見切りをつけて、内面へと意識を向けられるようになるのです。

完全なる挫折というのは、次なる欲望をもたらすことができなくなるということです。それが絶望ですね。

受容によって欲望を落とすのか、挫折によって絶望するのか、どちらも同じようにして、それまで見てこなかった広大無辺な内側に気づくことになるのです。

これを理解できるなら、深刻さというのがあまりにも馬鹿馬鹿しい精神状態だということが分かりますね。

欲望と受容は反比例

欲望こそが私たち人間(自我)を活性化させる原動力であることは、これまでにも何度も繰り返しこのブログでお伝えしてきました。

このままでは嫌だ、これでは足りないという思いが欲望を生むわけです。お金持ちになりたいと願って頑張るのも欲望です。

何者かになろうとして努力するのも欲望だし、世界でトップになって人から認めてもらいたいというのも欲望です。

欲望と聞くと、あまりいいイメージはありませんが、誤魔化さずに見れば欲望があるおかげで、ハリのある毎日を生きていけるのです。

だから欲望そのものは決して悪いものではないのです。欲望を少し柔らかい表現で言えば、願望とか希望になるわけで、人生には必要なものだと分かります。

ただし、欲望のままに生きてどれほどそれを叶えることができたとしても、その先に待っているのは更なる不満と欠乏感なのです。

そうやって欲望が絶えることがないようにできているのです。それは自我が自爆せずに済むようにということなのですね。

こうしたことを深く理解することができたら、欲望はかえって危険だということが分かるのです。それならどうしたらいいのか?

欲望に肩入れせずに生きるのは、自我にとっては確かに難しいことですが、自我のエネルギーをむしろ受容の方に使うようにすることができたら、様子が変わってくるはずです。

受容するたびに、欲望が小さくなっていくからです。受容は自我とその欲望の両方を同時に静かにさせることができるのです。

自分の生を受容側に持っていくためには、瞑想が効果的だと考えられますし、意識的であることがあなたの受容性に火を点けてくれるかもしれないですね。

退屈は自我の悲痛な叫び

何もせずにいる時間のことを「暇」と言いますね。忙しい現代人にとっては、暇というのはそうそう体験できるものではありません。

一方で、「退屈」という言葉がありますが、こちらは心理的な意味合いを持っています。暇を持て余すとか、暇な時間を持て余す心の状態を指すのです。

ではなぜ私たちは、少しの時間であっても何もせずにいるだけで、退屈を感じてどうしていいか分からなくなるのでしょう?

それは自我の性質に基づいているのです。自我は常に対象物が必要なのです。それと何らかの関係を持ち、それに従事していたいのです。

それを心配して、それについてあれこれ考えたり、それが仕事であれ人であれ、対処すべき何かであればいいのです。

自我はそれがなければ、身が持たないのです。バラバラになって分解して消えていってしまうと感じるし、実際にそうなるはずです。

例えて言うと、まとまりのない学校のクラスの子供達が、クラス対抗で競う◯◯試合が始まると、クラス全員が一致団結してまとまるようなもの。

要するに、自我というのは思考の集団のようなものなので、従事する対象がないと、マインドが分解してしまうのです。

だから退屈が大の苦手なのです。苦手どころか、自我にとっては生死がかかっているのですから、ジタバタするのも当然なのです。

ちなみに、普段から瞑想する習慣を身につけていると、退屈が怖くなくなります。退屈がやって来そうになったら、瞑想すればいいのですから。

ただし退屈を何とかしようとして、いきなり瞑想に逃げようとしても上手くいかないかもしれません。日頃からの練習が大切ですね。

この世界は敵でも味方でもない

この世界がどう見えるかは、その人の内面に100%由来するのです。世界そのものは、完全に中立なのですが…。

もしもあなたが、何かとても嬉しいことがあって、それを手放しで喜んでいるときには、この世界はとても優しくて温かくあなたには感じるはずです。

一方で、あなたの身に何か辛いことが起きたなら、その時にはこの世界はとても残酷な色をして迫ってくるように感じるものです。

こうした経験はきっと誰もが大なり小なりしていると思います。これが投影と呼ばれるものの代表的なものです。

私たちが自我として生きている限り、自分の内面の状態を外側へと投影し続けているのですが、普段はそんなことを忘れてしまっています。

このような投影のことを忘れずにいられたなら、今自分はどんな投影をしつつ外の世界を見ているのかを探るようになるはずです。

その理由は二つ。一つは、投影せずにいてあるがままの世界を見たいという思いがあるのです。中立な世界はどんな佇まいをしているのか知りたい。

もう一つは、投影を見ることで、逆に自分の内側で何が起きているのかを知ることができるからです。

いずれにしても、投影せずにいられるようになったなら、この世界は敵でも味方でもないということの理解がやってくるはずですね。

超然としている自分

私たちはいつも自分を感じながら生きているのですが、その中に物事に捉われずに、常に超然としている自分がいるのを発見することは素晴らしいことです。

その感覚をより明確にしたくて、何か自分の内面に起きるたびにそれを捜す習慣が付いてきました。

たとえば、何だか気分が悪いなと感じたときに、その気分の悪さに全く影響されずにいる自分がいるのを感じるようにするのです。

100℃のサウナに入っていて、もう暑くて出たいなと思ったときに、その暑さから全く解放されている自分を見つけるようにするのです。

超然とするというのは単に擬人化した表現でしかありません。なぜなら、実際にはそれは人物などではないからです。

ここはどんな言葉を駆使しても正確に表現することはできませんが、以前よく使っていた言葉を用いると…。

映画を映し出すスクリーンのようなもの。映像との距離はゼロですが、どんな映像が繰り出されようが、スクリーンは全くその影響を受けないでいられます。

それと同じこと。この世界を3次元の映像だと考えると、それを映し出しているスクリーンこそが、自分の本質なのだろうと。

スクリーンでも背景でもなんでも構いません。その感覚を何かあるたびに捜す練習をするといいと思います。

最終的には、自我としての自分が死にゆく時にも、超然とそれを見届けることができるのでしょうね。

覚醒した意識の状態

私たち自我にとって、意識的であり続けるということが如何に難しいことであるか、実践したことのある人には分かるでしょう。

意識を自分に向けていようと試みるも、あっという間にそのことをすっかり忘れて、目の前で起きていることや頭の中にある思考に組み込まれてしまうのです。

本当にそれほど難しいことなのかと疑うなら、一度試してみるといいのです。お風呂に入ってから出るまでの間に、お風呂に入っていること以外のことを考えずにいられるか。

きっとほとんどの人が、身体を洗ったり湯船に浸かりながらも、昨日のことや明日のことなどを考え出すはずです。

なぜそれほどまでに意識的であり続けることが難しいのか?自我の立場に立って考えてみると分かりやすいかもしれません。

自我にとって、十分に意識的であるということは、非常に危険な状態であるということを理解する必要があります。

私たちが意識的である瞬間、過去へも未来へも思考を飛ばすことができなくなり、今この瞬間に留まることになるのです。

そうなると、物語の中にしか棲むことができない自我にとっては、それが続けば死を意味することになるからです。

だから自我にとっては、何かに没頭したり果てしない思考の連鎖の中で無意識になっているのが一番安全なのです。

覚醒した意識というのは、自我ではないということも理解しておくといいと思います。つまり、意識的であることで、これが自分だと思っていた自我が力を失っていくことになるのです。

そりゃあ抵抗されるはずですね。だから何度失敗を繰り返しても構わないのです。そういうものなので。

それでもまた今日も少しでも意識的であろうと努めることは、人生の中で一番意味のあることだとも言えますね。