戦わずに観ること

oshoの方法は戦わないということですね。

何度も何度もあなたは巻き込まれるだろう
気づいた瞬間、自分をそこから引っ張り出しなさい
再び自分自身を整え、もう一度観始めなさい
ある思考が湧き起こる–それを観なさい
それはあなたの目の前にやって来る–観なさい
するとそれは過ぎ去る
それに気づいていなさい

昨日のブログでは、自動思考を「止めるか、観るか、離れるか」が左脳をメタボ化から引き戻す方法だということを書きました。

私の自我の中には戦って打ち負かしたいという奴がいるのですね。だから、「止める」が真っ先に来るのです。

けれども、osho はただただ「観なさい」と。それに「気づいていなさい」ということに力点を置いているようです。

実は戦いというのは、相手の力を強くするという側面があるのです。それはそうですよね、相手だって負けじと頑張るわけですから、その分強さが増すわけです。

だから「観ること」が一番効率がいいということです。観ることを継続して行うコツは、osho が言うように巻き込まれてもそれに気づき、自分自身を整えて再び見始めるということ。

シンプルですが、これがなかなかできないのです。というのも、これだけ思考に気づいていようとしているにも関わらず、性懲りもなくまたやられたという思いに若干打ちのめされるからです。

だからそんなことには目もくれずに、ひたすら正気に戻してただ「観る」を継続できればいいということなのですね。

自動演奏、自動鼻歌に対してはできるのですが、思考が相手の場合はどうしても巻き込まれてしまいます。でもめげずに淡々と観るを繰り返していくしかないようです。

メタボ化してしまった左脳

思考について考えて見れば分かることですが、それは人類が手にしたツールの中でも圧倒的に高機能で便利なものだと言えますね。

ホモサピエンスである私たちが、思考を発達させることによって実現できたことは山ほどあります。例えば言葉によって、他人とコミュニケーションすることができる。

文章を書くことができる。哲学や数学、あるいは天文学や物理学など、あらゆる学問には欠くことのできないものです。

あるいは、スケジュール管理や経営、ほとんどすべての仕事をこなすのに思考を使うはずです。私たちの毎日の生活に絶対的に必要なものですね。

それなのに、なぜこのブログではいつも思考をまるで悪者のように表現しているのでしょうか?その理由はたった一つ。

主従逆転という問題です。つまり、思考をツールとして我々が使う側であれば何の問題もないのですが、思考に使われてしまえば地獄が待っているということです。

思考というツールそのものに何かの意図があるわけではなく、思考を生み続けている左脳にこそ目的があるのです。

それは、私たちに沢山思考を使ってもらうことで、左脳が潤うようにするということ。考えれば考えるほど、左脳の血管に血液が流れ込み、その回路を太らせることができるのです。

メタボ化してしまった左脳には、私たちのツールとしての役目を全うすることよりも、左脳自身をもっと肥やすという歪んだ目的ができてしまったのです。

もちろん、左脳をメタボから救うことができれば、元通りの従順で有能な脳に戻ることができるはずなのです。

だからこそ、自動思考を止めるか、自動思考を見守るか、自動思考から離れるか、いずれにしても自動思考に飲み込まれないような生き方をする必要があるのですね。

こだわりと不自由さ

誰にでも「こだわり」というものがありますね。人によっては、こだわりがとても強い場合もあれば、逆にあまりこだわることが少ないということもあります。

例えば、あることに強いこだわりを持っている人が、自分にとってはそれはとても大切なことなんだと思っているわけです。

大切という言葉から連想されるのは、ポジティブなイメージです。ラーメンへの強いこだわりがあって、麺はこれこれ、スープはこれこれなどの選別がすごいわけです。

けれども、それがその人を縛ってしまうということもあるのです。自宅の近くに美味しいと有名なラーメン屋さんがあっても、その人にとっては選別外であれば利用できないわけですから。

面倒でも、遠くの自分好みのラーメン店までわざわざ出かけなければならないのです。ただし、そうした不自由さも込みで楽しめるのでしたら問題はありません。

つまり、楽しさと不自由さのどちらが勝ってしまうかにかかっているわけです。この辺りのことは、人それぞれなのでしょうね。

家を建てるにあたって気づいたことがあるのですが、自分の中に想像していた以上にこだわりを持っている奴がいるのです。

ところが、その不自由さの方が楽しむ気持ちよりも圧倒的に強く感じてしまうので、こだわるだけ自分が面倒な感じがしてしまうのです。

こだわりたい自分と、不自由を嫌う自分の攻防が起きてしまうのです。何でもいいよ、という自分にとってはどうでもいい攻防がまだまだ続くようです。

目を見られる不安

生まれたばかりの赤ちゃんや幼児の頃というのは、とにかく周りを見ることでたくさんのことを吸収していくわけです。

その時、彼らは常に見る側であって、決して見られる側になることはありません。なぜならまだ自我が出来上がっていないため、見られる対象としての自分がいないからです。

自分が周りを見ているという自覚すらありません。この状態がどれほど心やすらかでいられるのか、今となっては想像すらできません。

ただし、少しだけ擬似的な体験をすることはできます。それは、1番濃い色のサングラスをかけて生活することです。

私たちは、他人から自分の身体を見られるときに、最もセンシティブになってしまうのは目を見られる時なのですね。

目は心の窓と呼ばれるように、内面を見透かされてしまうような感覚を持っているのです。だから、目さえ見られない保証があるとかなり楽なのです。

そのため、目を覗き込まれる心配のない濃いサングラスをかけていれば、例え目と目があったとしても安泰でいられるわけです。

身体を動かす必要のない時なら、単に目をつぶっているだけでこの状態を作り出すこともできるようになります。私は気がつくと目を閉じて、その安心感を楽しんでいます。

もしも人の目が怖いという感覚に悩まされているのなら、一度試してみることをお勧めします。ただし、少し練習が必要かも知れませんね。

お酒か、瞑想か?

それほど強くはないのですが、お酒類が大好きなのです。ビール、日本酒、ワイン、バーボン等々。ところがです。

調子に乗って少し飲み過ぎたかなと思った時には、どうも深い瞑想に入ることができなくなってしまうようです。

シラフでも気持ちのいい瞑想ができると、ちょうどほろ酔い加減のような感じになるので、お酒も多少ならいいのかなと思っていたのです。

けれども、そんな都合のいいことはないようですね。というのも、少し考えれば分かるのですが、アルコールが入れば意識的であることが難しくなるのです。

逆に無意識的になってしまうのですから、当然瞑想はまともにはできないことになるのです。ああ残念としか言いようがありません。

シラフの状態でも、その日の体調?によって深い瞑想が出来る日とそうでない日があって、まだまだばらつきが大いにあるのです。

お酒を優先するのか、それとも瞑想を取るか、今後苦渋の決断を迫られることになるかも知れません。

あるいは、達人の域に達することである程度のアルコールは大丈夫になるのかも…。と、いいように考えてみたりしています。

どこかに、お酒が大好きなままで覚醒した人っていないんですかね?一休さんてどうだったんだろう?ちょっと調べて見たいと思います。

〜〜〜〜

今ちょっと調べてみたところ、やはり一休さんは飲酒していたようですね。素晴らしい!「一休」という法名にも、煩悩と悟りの狭間で一休みするという意味が込められているのだとか。

一休さんバンザ〜イ!!

第二の幼年期

以下のoshoの言葉は、最近このブログでお伝えしていることとちょうど同期しているような内容です。

あなたは自分の知識を吐きださねばならない。リンゴを吐きだすのだ!ふたたび無垢に、そして無知になりなさい!そうすれば、あなたは第二の幼年期を達成するだろう。

そして第二の幼年期を達成できる者たちは幸いだ。なぜなら、人はそれを通り抜けることによってのみ、神へと橋渡しされるからだ。

大人へと成長した現在の私たちを起点として、これまでの過程を振り返ってみると、次のようになると思います。

  • 大人の自分、理性、社会性、思考、キャラ① (左脳)
  • 子供の自分、インナーチャイルド、感情、キャラ② (左脳)
  • 幼年期の自分、無防備、無邪気、愛、キャラ③ (右脳)
  • 産まれる前の自分、ハイアーマインド、全体性、キャラ④ (右脳)

ほとんどの人が普段は、キャラ①で生活しているのですが、何か問題が起こるとキャラ②に裏から支配されてしまいます。そうすると、理性的な言動から突然、子供じみた言動を起こすようになるのです。

セッションで行っていることの第一は、キャラ②を癒していくことで、大暴れしてキャラ①を支配しないようにすることです。

大人の自分であるキャラ①が、インナーチャイルドのキャラ②に乗っ取られることがなくなれば、理性的で穏やかな自分として社会生活を営むことができます。

セッションで行っていることの第二は、キャラ②に抑え込まれていて表に出て来れなくなっていたキャラ③を救ってあげることです。

上記のoshoの言葉の中の、「第二の幼年期」というのは正にキャラ③に該当するものだと思えばいいのです。キャラ①とキャラ②が左脳の世界でしたが、ここからは右脳の世界です。

つまりは、左脳優位の生き方から右脳へと回帰するということです。そしてあわよくば、生まれる前からあったキャラ④とも繋がるようになれば、自分の本質に目覚めることになるのでしょうね。

想定外な人生

人並みに勉強をし、人並みに仕事をし、人並みに結婚をし、人並みに歳を取り、これまでずっと生きてきました。

けれども、それは表面的なことばかりで、自分の正直な気持ちとしては、そういうことにはほとんど興味がなかったのです。

色々な遊びを試してみたし、ゲームにハマることもあったし、水泳や身体を鍛えることもやってきましたが、全ては本質的なことではないと感じていました。

どれもこれも、割とすぐに飽きてしまうし、長続きしないのはそれに打ち込む気持ちのエネルギーが薄いということがあったのです。

そんな中、断続的にでも続けてこれたのは、思考を見ること、思考に飲み込まれないこと、意識的であること等々。

自分の存在、自我、思考、意識などの理解を深めたいという思いだけは消えなかったのです。なるほどそれが自分の人生なのかもと。

何せ他に興味が続くものがほとんどないのですから仕方がないというのか、幸運だったというのか、いずれにしても残りの人生をかけるものが明確になったのです。

こんな人生があってもいいのかも知れないなと。1にも2にも実践あるのみなのですが、それが続けられている時は満足を感じますね。

時々もらえる飴玉に喜びつつ、自分の中にいる探究者が力尽きないように生きていけたらいいなと思うのです。

そして最後には、探究者などいないことを見抜いて一件落着となるのが夢ですね。

左脳から右脳への帰還

神が最初に選んだのは右脳でした。それはとても平和だし、満たされた状態であったのですが、あるとき左脳もプレゼントしてくれたのです。

それとも、左脳こそがアダムとイブが掟を破って知恵の実を食べてしまったことへの罰だったのでしょうか?

とにもかくにも、左脳によって分離という幻想が生まれたのです。モノという単位でこの世界を見ることが始まってしまったのです。

その結果、自分自身も一つのモノとしてこの世界から分離した存在であると思い込むことになってしまったわけです。

大地にしっかりと根を張っていた大木が、根こそぎにされたのと同じになってしまったのです。その宙ぶらりんをイメージしたら、どれほど不安なことか?

それが個人としての私たちが置かれている状況なのです。世界から隔離されてしまったという誤解は、強烈な不安と孤独を作り出したのです。

根こそぎにされた人類は、かつて繋がっていた大元の根っこを探す旅を始めたのです。それが人生というわけです。

そして心からの安心を求めて拠り所となる根っこを見つけようとして、外側の世界からあれこれを手に入れようと頑張るのですが、根っこの代わりになるものは決して見つからないのです。

そしてはたと気づく時がやってきます。本当に欲しいものは内側にあった。一度もその根っこを失ったことなどなかったんだと。

自分の意識を左脳から右脳へと移すだけで、今までどこを探しても見つけることができなかったものが、実はずっとずっとここにあったと気づくのです。

これこそが、この先人類が辿る道なのではないかと自分勝手に思っています。

腹式呼吸を極めたい

今日も今日とて腹式呼吸から始まり、腹式呼吸で終わろうとしています。その間、セッションでも腹式呼吸をクライアントさんと一緒に。

そして久しぶりに来訪してくれた我が娘とも腹式呼吸の話しに花が咲きました。呼吸ってすごいよねと。

本当に呼吸ってもの凄く基本的なものであるのに、同時に最終的に極めるものでもあるんだなと感心しています。

実際呼吸ができるってすごくありがたいことです。食べ物も大切なモノですが、呼吸するのに必要な空気もものすごく大事ですよね。

どんなことでも普通にできてしまうことに、私たちはあまり関心を持ちませんが、ひとたび喘息などで呼吸ができない経験をしたなら、呼吸できることがどれほどありがたいことか分かるのでしょう。

私たちの身体には、無意識に継続してくれているものが沢山あります。心臓の動きも呼吸も勝手に全自動で動き続けてくれています。

ところが、呼吸だけはその全自動に加えて意識的な呼吸が割って入ることができるのです。これってうまくできていますよね。

腹式呼吸で大事なのは、吸う時に息と一緒に意識を下腹部の方へ下げていくことです。そうやって、エネルギーの中心を左脳から丹田へと移すわけです。

それで左脳にがっちり掴まれていたエネルギーを右脳の方へと移動するのです。右脳と左脳のバランスを取るのには、もってこいのやり方だと思っています。

右左脳のバランスが大事

久しぶりにoshoの言葉に耳を傾けてみましょう。

瞑想は、神を知るに至る道だ。思考は、物質を知るに至る道だ。思考と瞑想は、ちょうど正反対だ。違う次元のものだ。それ両方共というわけにはいかない。

あなたは思考には届くだろうが、その瞬間、ハートは動かなくなるだろう。ハートに届くこともできるだろうが、その瞬間、思考は動かなくなるだろう。

そのようですね。思考と瞑想は真反対なので、両方を同時にということは無理なのです。言葉を変えれば、左脳と右脳と表現することもできます。

私たちの脳は脳梁というもので、左脳と右脳が繋がっているのです。だから、右脳においても全く言葉がわからないということはないらしいのです。

また、右脳の直感的な感覚も左脳に届くことはままあるわけです。だから、両方を同時には無理だとしても、双方を上手に使うことは可能なのです。

思考(左脳)は、分離という概念をベースにすることで、モノを単位として認識するようになったのです。

一方の瞑想(右脳)は、全てを全体として認識するので、分離はありません。真反対の両者ですが、現代に生きる私たち人間は、左脳型の生き方に特化してしまっています。

このブログの言葉一つひとつも左脳によって紡ぎ出しているのですが、きっと原案のようなものは右脳からやってきていると感じます。

互いを上手に使って、バランスよく生きることができれば、それこそ未来の人類の生き方として期待できるのではないかなと思っています。