外ではなく内を見ること

どうしてほかの人に奉仕することなんかできる?

あなたがまず自分の内なる実存に達することなしに–?

完全に利己的になるのだ

もしあなた自身の内なる光が燃えていれば

ほかの人たちに手を貸すこともできるかもしれない

そうでなかったら

あなたの奉仕など災いの種でしかない

by osho

↑このことを深く理解することができなければ、いつまでたっても中途半端な人助けばかりを繰り返すことになるのです。

それが奉仕という名目の実は自己防衛だと気づく必要があるのです。私たちは、他の誰の人生であれ満たしてあげることはできないのです。

できることは、一過性のヘルプだけ。人生レベルでみれば、当人だけが満たされる可能性を握っているのです。

「完全に利己的になるのだ」という osho の言葉、私はこれを「立派なエゴになる」と表現しています。

所詮エゴで生きているのですから、まずそのことを自分自身に認めて、決して良い人を演じたりせずに、堂々と自分を優先する必要があるのです。

そうすることで、自己防衛が小さくなっていくのです。その過程を経ることなしに、ショートカットして奉仕活動をしても、それはエゴを強化するだけだからです。

外側を見る代わりに、つまり他人のことを考える代わりに、自分の内側に意識を向ける練習を続けることです。

 

内的な拠り所を知る

昨日のブログで、テニスの錦織選手を応援しているということを話題にしましたが、あのブログを書いた数時間後に彼は負けてしまいました。

そういうときには、思い切り悔しさとかもどかしさなどの感情を味わうことにしています。どんな感情も逃げずに引き受ける練習にもなるからです。

試合中の彼の一挙手一投足を見ていると、内面の不安感のようなものがそのまま彼のプレイに反映していることが分かります。

あの大舞台で、もしも彼がリラックスしてプレイすることができたなら、誰にも引けを取らないテニスプレーヤーとしての能力を発揮できたはず。

プロになってもう10年経っているのに、少しでも不安がよぎると腕の振りが微妙にぎこちなくなってしまうのが見て取れるのです。

彼がすごく繊細なために、テニスコート上を包むあらゆるエネルギーの影響を強く受けてしまうような気もします。

今でも彼は、世界レベルのプレーヤーであることは間違いないのですが、自分の奥深くにある静寂をいつも感じられるようになったら、トップの中のトップの選手になれると思うのです。

誰か、彼に瞑想を教えてあげられる人がいないのでしょうか?本人なりに様々な努力をして、メンタルを鍛えているようですが…。

スポーツに限らず、あらゆる生活の場面において、拠り所となる内的場所を知っているかどうかが、大きな鍵となるのだと思いますね。

観照にはどんな興奮もない

今開催されているテニスの全米オープンの大会で、日本の大坂なおみちゃんが準決勝の試合で勝ち、とうとう決勝進出を決めました。

彼女はまだ若干20歳なのですが、恵まれた身体能力と本人の努力のお陰で、日本の女子プロテニス界の歴史を塗り替えました。

私は、少し前からそのうちすぐに世界のトップクラスになると思っていたのですが、もしかしたら今大会で世界一になってしまうかもしれませんね。

一方の錦織圭ですが、このブログを書いている時点では準々決勝を勝ち抜いたところです。

次の準決勝の試合で勝てば、日本人選手が男女揃って決勝進出となって、業界は大騒ぎとなるでしょうね。

どうも私は、錦織選手を息子のように見て応援しているようで、だから彼の試合中は相当エキサイトして、身体が熱くなってしまうくらいなのです。

けれども、どれほどのめり込んで興奮した状態で観戦していても、そうした状況をただ淡々と見ているだけの部分があることも事実です。

ただ見ている部分は、彼が勝っても負けても何がどうであれ、起きることがただ起きているとして、そこにどんな反応もないのですね。

個人という不可思議な思考

この世界で最も理不尽で風変わりな思考は、個人としての自分がいるという思いです。このことは、少し踏み込んで物事を見てみれば分かるのです。

例えば、自分には存在価値がないと感じるとしたら、それは自分がここにいるという思いが前提となっているのは明白です。

あらゆる感情的なものを脇に置いて考えてみれば、存在に価値があるとか価値がないなどということ自体、無意味なことだと分かります。

なぜなら存在に点数などつけられるわけもなく、存在はただ存在しているだけなので、評価対象とはなり得ないからです。

ところが、個人として存在する自分というものが確固としてあると思っているからこそ、自分という存在に対する価値判断をしてしまうことになるわけです。

もしもあなたが、どうして自分の人生はこうなんだろうとか、私は今回たまたまこの家に生まれたと思っているなら、それも個人としての自分がいるという思考が招いた「まやかし」なのです。

小麦粉をこねて、様々な型に入れていろいろな形のダンゴを作るとします。あるダンゴは球型になり、別のダンゴは星型になり、また楕円形のダンゴもできるのです。

仮に一つひとつのダンゴに自我が芽生えて、自分はなぜ球型なんだろうとか、私はたまたま星型に生まれたなどと言うかもしれません。

けれども、そもそも大きなひと塊りの小麦粉を、いろいろな型に入れて作っただけであって、なぜ?だとか、たまたま、などという問題ではないのです。

あなたは、たまたまあなたになったわけではなく、あなたという個人はいないというのが真相なのです。伝わればいいのですが…。

部分が全体を欲している

誰もが根本的に抱え込んでいる(と思い込んでいる、あるいは感じている)問題とは、自分は全体から切り離された部分だということ。

部分が全体を欲しているのです。部分は全体が愛おしてく、それを取り戻したいと切に願っているのです。

その根源的な願いが、形を変えて欲望というものになってしまったのです。それこそが、「何だか足りない!」「満ちていない」という欠乏感。

自分は足りていないので、外側の世界から入手することで不満を解消しようとして人生を浪費するのです。

それがお門違いだということが分かれば、そのバカバカしさに気づけば、いずれは欲望は自然に落ちていくのでしょうね。

足りない部分を何かで補充しようとしても、部分は部分のままでしかなく、どのようにそれを修飾したところで全体には戻れないのですから。

だとしたら、やることはただ一つ。自分は部分ではなく、元々の全体だということに気づくこと。それ以外には満たされるすべはないということ。

だから満たそうとすることの代わりに、すでに満たされていることに気づくことを意識するのです。

常に溢れ出てくるもの、時間的な変化を見るのではなく、ただ溢れていることが永遠に起きつつあるのです。それが愛ですね。

真の理解とは気づくこと

もし本当に理解したら

ものごとは落ちてゆくものだ

そしてそのときにはあなたは

自分がそれを落としたのだという手柄を誇ることはできない

それはひとりでに落ちたのだ

あなたが落としたんじゃない

自我はそれを通じて強められたりしない

by osho

理解というと、私たちは大抵思考、つまり考えることを通して何かを理解するというように捉えています。

けれども、真の理解というのは思考によるものではありません。それは、実は思考とは無縁の「気づき」のことなのです。

最初は思考による理解があっていいのですが、その理解を繰り返し深めていくことで、ある時ふとそれが腑に落ちるときがやってくるのです。

それこそが本当の理解、つまり「気づく」ことなのです。この気づきは自分の力で得るというよりも、結果として向こうからやってくるという感覚です。

だから自我は、その気づきを自分の手柄にはできるはずがないのです。では気づきによって物事は落ちて行くとはどういうことでしょうか?

自動的に落ちてゆくもの、それは執着であるとか欲望であるとかです。つまり、自我が自己の存在をかけて守ろうとするもの。

そして最後の最後に気づくもの、それこそが自己の本質なのですね。

生身の体験に勝るものはない

クルマの試乗に行ってきたのですが、1台目は購入の意志がほとんどないクルマで、2台目の方はいずれは購入しようかと考えているクルマでした。

試乗する前にも、ネットなどで様々な情報を見聞きしていたので、自分なりには結構分かっているつもりでした。

ところが、実際に試乗してみたところ、勝手に持っていたそれぞれのクルマに対する印象がまったく変わってしまったのです。

購入を希望していたクルマは、何か不自然な感じがして、それがクルマから発せられる様々な音だと気づいたのです。

極端な言葉を使えば、居心地が悪いというか、とても残念なのですが自分の中の何かが拒否している感じ。

逆にまったく購入しようとは思っていなかった方のクルマは、実に爽快な感じで運転ができたのです。

どれほどの情報を見聞きしていたとしても、生身の体験に勝るものはないということですね。

真実も同じこと。誰のどんな言葉も役に立たないばかりか、まったくもって個人的でしかも内的な体験を通してのみ実感するもの。

こればかりはシェアできません。瞑想が孤独なのはそういう理由なのです。けれども、孤独を通り抜けた先には全体性という真実のみが広がっているのですね。

いつも在り続けるもの

あなたは自分の起きている世界を忘れ

自分の夢の世界をも忘れる

朝、ふたたび起きている世界がその存在を現わす

あなたは、あなたの夢と眠りを忘れ去る

だがひとつだけ

絶えることなくそこにい続けるものがある

あなただ

by osho

この感覚は、きっと誰にでもあるはずですね。朝起きた時に、また同じような今日が始まると感じるのと同時に、また同じ自分が始まるのですから。

何かを自分に強く強いてる人は、今日もまたこの自分をやらなければならないと感じて、うんざりするかもしれません。

いい人の仮面を被り続けている人、清廉潔白で正しい自分を生きようとしている人、より世間の役に立てる自分でいようとする人。

ずっと笑顔でいようとすれば、そのうちには顔がひきつってくるように、不自然でい続ける自分が嫌になってしまうのです。

人が癒されていくにつれて、そうした「◯◯な自分」でいようとすることが薄れていき、自然で無防備な素の自分でいられるようになってきます。

そうなったら、もう自分を演じることから解放されるのです。人生の中の演者としての自分がいなくなり、後に残るのはただあるがままのあなたです。

それがなくなったためしはありません。世界で何が起きようと、周囲でどんな物語が展開されようと、あなたの本質だけがただ在るということですね。

あなたの本質はマインドではない

マインドの仕組みというものを深く理解すればするほど、この人間社会を作っているのは個々のマインドなのだということに気づくようになります。

私たちは自分のことを個人としての存在だと直感しているわけですが、実は自分とは自分のマインドに過ぎないのです。

もしもあなたが怒っているなら、自分のマインド、このマインドが怒っていると気付くこと。

もしもあなたが悲しみの中にいるなら、このマインドが悲しんでいるとすればいいのです。

あなたの人生を作っているのは、間違いなくあなたのマインドなのです。人生に文句があるなら、あなたのマインドが不平を言っているということ。

こうした見方を日々続けていくことで、自然とあなた自身があなたのマインドを見つめられるようになるのです。

それがマインドとの距離を作ることになり、あの人この人ではなく、あのマインドこのマインドと見ることで、人生を超然として見ることもできるようになるのです。

その結果、あなたの存在、あなたの本質がその姿を顕すことになるのですね。

誰でもない自分に戻る

あなたが「私は他の誰でもない、自分でいよう。どんな犠牲を払おうと、私は自分自身でいるのだ」と決めたまさにその瞬間に、あなたは大いなる変化を目にするだろう。あなたは活力を感じる。エネルギーがあなたの中を流れ、脈打つのを感じるだろう。

by osho

私たちが生まれて初めて体験する間違い、それはこのままの自分ではいけないという思い込みです。

自分自身のままでいることはとても自然で気持ちのいいものですが、それではやっていけないという現実を目撃させられるのです。

幼い頃のそうした体験は、多かれ少なかれ誰にでもあるものです。なぜなら、それがあってようやく自我の生きる道が出来上がるのですから。

とにかく自分のままではだめ、もっとこうでなければならない、より期待に応えられるようになる必要がある等々。

そうやって、自分自身ではない誰かになろうと努力することになるのです。そしてその努力が今度は、その真逆の反発を生み出すのです。

癒していくということは、こうしたマインドの歩みをしっかり理解して、作り上げた思い込みを見つめ続けることで、その思い込みから離れていくことです。

どんな自分であれ、自分のままでいいということが本当に腑に落ちるようになったなら、人生の清々しさに出会うことになるはずです。

そして最後の最後には、生まれたばかりのような誰でもない自分を発見することになるのでしょうね。