優柔不断とどちらでもないは違う

何かを決めようとするときに、いつまでもグズグズして決めることができない人のことを優柔不断と言いますね。

私たちのマインドの特性として、選択肢が多くなればなるほど気持ちよく選択することができなくなるのです。

選択した後でも、もしかしたらこの選択は最上ではなかったかもしれない、もっと良いものがあったかもしれないと思うのです。

そうなりたくないがために、なかなか決めることができなくなるのです。つまり、優柔不断の原因はリスク回避の面が多分にあるということです。

だからマインドは選択肢が少ない方がかえって快適だとも言えるわけです。私自身、昔から選択肢が沢山あるのは不快だと感じていました。

ところで、優柔不断のように決められないというのと、選択しない(つまりどちらでもない)というのとは全く異なるのです。

「どちらでもない」は選択しない生き方であり、これはマインドを使わない生き方だとも言えるのです。

肯定するでもなく否定するでもなく、褒めるでもなくけなすでもなく。あるいは好きでもなく嫌いでもない、善でも悪でもない。

思考から離れていれば、自然とこの「どちらでもない」になるのです。つまり、優柔不断は思考全開であって、「どちらでもない」は無思考ということです。

どちらが自分にとって自然なのか、ゆっくり噛み締めてみてもいいかもしれませんね。

すべてがたわごと

最も大切なこと、それは自己の本質に気づくこと。それ以外にはありません。それ以外はすべてがたわごとです。

この世界でどれほど活躍しようと、どんな偉業を達成したとしても、気づかずに生きて死ぬのであれば、また先送りにしたのです。

本質に気づくと、現実の世界でノーベル賞をとることと、ノーベル賞を取る夢をみることに違いがなくなるのです。極端に聞こえるでしょうけれど…。

現実であろうと夢であろうと、そこに価値や意味を見出すのは思考なのです。その思考の世界にはまり込むことで、本質が見えなくなっているのです。

気づきをもって思考から抜けている状態、つまり十分に意識的であるなら、自分の本性は生きているでも死んでいるでもないと分かるのです。

思考が理解し認識できるすべてのものを超えたところのものだと分かるのです。だから決して表現できないし、伝えることもできない何かなのです。

そこに意識を向けていれば、人としての自分の人生がどのようなものであれ、この世界がどんな状態であっても、あるがままを見ていられるのです。

多くの人がこの本質に気づくようになるなら、この世界から戦争というたわごとが消えていくことになるはずです。

コレクターの心理

世の中にはコレクターと言われる人々がいますね。お金持ちが世界中の名画を集めてみたり、希少な名車を買い集めてみたり。

お金持ちでなくても、沢山の帽子を持っていたり、気に入った靴があれば売られている全色を買い揃えてみたり。

実はコレクターというのは、すべてのマインドが持っている一つの機能なのです。私自身はコレクターとは縁遠い生き方をしていますが、それでも私のマインドにも、コレクターとしての要素は確実にあるのが分かります。

何かを集めることに熱中することは、マインドがその仕組みの中に原理的に持っている不足感から発動するものなのです。

欲しいものを場当たり的に手に入れるよりも、もっと計画的に、より用意周到に多大なエネルギーをつぎ込んで収集するのがコレクターのやり方です。

本人としても、もうこれで最後にしようと決意したところで、またすぐに次のものが欲しくなって結局のところ、終わりが来ることはありません。

そうやってコレクターが満足することは決してないのです。だから生涯に渡ってコレクターを続けることができるのです。

コレクターに限らず、どんなマインドであれ手に入れることで満たされるということは絶対にないということに、早く気づくことです。

満たされるための唯一無二の条件、それはマインドが消えていくことです。マインドがある限りは、いつまでも不満の中にいることになるのです。

執着は手放せない

心を癒していくときに、巷でよく聞く言葉として「執着を手放す」というのがありますね。執着はよくない事だということで、そう考えるのかもしれません。

けれども、その言葉は原理的に矛盾しているのです。なぜなら、執着というのは本人にとって必要なもの、それなしでは自分が成立しないものを指すからです。

言ってみれば、外側にあるはずのものを自分の内側に入れてしまい、それ込みで自分なのだと思い込むのです。

誰しも、自分を手放すことなどできないのですから、執着も手放すことなど決して不可能なことだと理解することです。

つまり執着を手放すことができるなら、その人はその段階で覚醒してしまうくらいなのです。だから、あなたが執着を手放せないと自覚していても安心してください。

それはマインドにとっては当然のことだからです。何度も言いますが、執着は手放せません。ではどうしたらいいのでしょうか?

方法はたった一つ。執着するマインドをしっかり見続けることです。マインドに対して直接手を下そうとするなら、それこそがマインドの働きなのです。

だからマインドに対しては何もせずに、ただ見守るのです。常に注意してその仕組み、その働きに気づいていてあげること。

それによってのみ、絶対に必要だと思っていたものがそれほどでもなかったということに自然と気づくようになるのです。

バカバカしいもの、くだらないものだったと気づくなら、それは自然と内側から出て行ってくれるのです。

それこそが手放された状態ということですね。

時間の流れから外れてみる

さあブログを書こうと思ってキーボードに向かうと、少しの間自動的に瞑想状態になることができます。

しばらくの間、頭を空っぽにしてブログのネタが浮かんでくるのを待つためです。もちろん、何も浮かんでこないこともありますが…。

それを瞑想と呼ぶ必要もないと思っています。待っているときというのは、どんな思考がやってくるのか、それを見ているわけですね。

これだけで、思考を見るという練習になるのです。特別時間を決めて、しっかり瞑想するぞ!と意気込む必要はないのです。

ただほんの少しの間だけでも、一日の時間の流れから外れてみること。その流れをまるで川の流れを川岸に座って見ているような状態にするのです。

すると自分の本性は、時間の外側に在るという気づきがやってくるかもしれません。それが非二元の世界への入り口です。

コツは身体をできるだけ動かさないこと。そして眼球も固定すること。目を開けていたとしても何も見ないように、見る対象をなくすのです。

ここまでやってしまうと、ブログのことなど完全にどこかへ吹っ飛んでしまいますけど、気がつけばとてもマインドが静かになっていて気持ちがいいのです。

誰にでもできます。なぜなら、することではないからです。問題は、体験したいかどうかの違いだけでしょうね。

身体との同一化はしぶとい

生においてもっとも重要なことは、自分は身体ではないと知ることだ。それは、痛みから、苦しみからの途方もない自由をあなたに与える。苦しみが消え失せるわけでも、痛みやガンがなくなるわけでもない。それはそこにあるが、あなたがそれに自己同一化することはなくなる。

by osho

自分が身体ではないということを知っているという人は、今の時代には沢山いるのかもしれません。

スピリチュアルという言葉が流行ったりして、物理的なことよりも目に見えない精神世界に意識が向きやすい時代というのもあるのでしょうね。

けれども、本当に自分は身体ではないと気付いている人がどれだけいるかは怪しいかもしれません。

というのも、私たちはお腹が痛いとか頭が痛いというときに、その痛みは自分のものだと勘違いしがちだからです。

もしも身体との間に距離があるのなら、そこに◯◯な痛みがあるとなるはずなのです。痛みとの距離もできるからです。

あるいは、夜寝る前に今日一日の自分を思い出そうとするとき、きっと身体が何をしたかということを思い出すはずです。

駅まで歩いて、電車に乗って、誰かと待ち合わせをして…という具合に。これはすべて身体がどう行動したかを示していますね。

身体ではないのであれば、自分は身体を含めたあらゆる物事をただ見つめていたはずなのです。

もしくは、観照することには時間経過という感覚が薄れてくるので、一日のことを思い出すことが難しくなるかもしれません。

私たちは自覚できないままに、まだまだ身体との同一化が取れるところまでいっていないということに、気づく必要があるのでしょうね。

降参は最強

大いなる教えとは降参することだ

自分のコントロールを放棄してしまうことだ

そして<全体>に自分を連れ去らしめるのだ

それが連れて行きたいところどこへでも–

流れに逆らって泳がないこと

自分を川の中に突き放すのだ

川になるのだ

そうしたら<川>はすでに<海>に向かっている

by osho

降参というのは最強です。子供の頃に、親とじゃれあっているうちに興奮してきて、相手をやっつけようとするその矢先に、「降参」と言われてしまうのです。

そうすると、負けてはいないのですが、さりとて勝ったという感覚も薄れてしまうのです。降参した方が賢いような気がするというのか…。

それで大人はずるいと思ったものです。だからと言って、自分が降参することは選択肢にあがってこないのです。

それはやはり、降参するということが敗北を意味すると感じるからなのでしょうね。けれども、今ならハッキリ分かるのです。

降参は最強だと。戦わないのですから、瞬時に敵がいなくなってしまうのです。つまり無敵状態になるのです。

人生をずっと戦いに費やしている人が沢山います。自分は違うと思っている人も含めて、戦いの要素がないかどうか検証してみるといいと思います。

戦いの相手は、人かもしれないし、困ることになる事態かもしれないし、病気かもしれません。

降参して戦いを放棄することができたら、なんて人生は平和なのだろうと気づくのでしょうね。

最良の対処は対処しないこと

対処しないといっても、何でも構わずにそのままにしておくという意味ではありません。怪我をしたら必要な処置をするといった物理的な対処はするべきです。

ここでいう対処とは、主に心理的な対処のことを指すと思ってください。例えば、遅刻しそうなときに物理的に急ぐのは理にかなっていますが、心理的に急ぐ(焦る)ことは無駄だということ。

スポーツの試合中に、有利に進めている時はいいのですが、風向きが変わって相手が有利になりつつあるとき、何とかしようとすれば余計に身体に力が入って、結果は悪い方に向かうのです。

心理的な対処、つまり「なんとかして◯◯」というのは、起きていることが自分にとって都合が悪いときにやってくるマインドの働きなのです。

マインドというのは、そもそも信頼が分からないのです。思考には信用するか、信用しないの二つしかないからです。

信頼はマインドの外側にあります。日頃から信頼に意識を向けるようにしていると、むやみに心理的対処をしないでいられるようになるはずです。

あるがままを見守るという態度、これが対処せずにいるということ。慌てたり焦ったり、どうにかして、なんとかして、というマインドの嵐から距離を置く生き方。

日頃から対処しようとしているマインドに気づき、それを見守る練習をすることですね。

無知とは眠っていること

タントラは、ただひとつ必要なものは光だと言う

覚醒だ、と

何百万もの行ないが埋め合わせれる必要なんかない

なされるべきはただひとつ

それは無知の中にとどまらないことだ

目を覚ましなさい

by osho

↑ここで言う「無知」とは眠っている状態、自分の本質に気づくことなく夢の中を漂っている状態のことです。

この無知の状態においては、罪というものがあたかも存在するように感じるし、そのために罪悪感に悩まされることにもなるのです。

だから自分の存在や行いに罪悪感を感じると、それをなんとかして償うことでその罪悪感から逃れようと必死になるのです。

カルマというのは、そうした無知な状態(これをマインドと呼ぶのですが)が作り上げる馬鹿げた法則なのです。

もしもあなたが覚醒し自分の本質に気づくなら、マインドやそれが作り上げた罪という概念がどれほどバカバカしいものか、瞬時に気づくことになるはずです。

誰のマインドも罪悪感を持っていますが、それはマインドのものだとはっきりさせることです。

そこに巻き込まれれば巻き込まれるほど、目覚めることが難しくなってしまうのです。そして夢物語はいくらでも繰り返されていくのです。

マインドを洗いざらい見つめて、つまりくまなく光を当てて見てあげること。そうすることで、マインドとの距離ができて、そのバカバカしさに気づくのです。

思考はあなたなしに存在する

思考というのはあなたのまわりを取り囲む大洋だ

それはあなたなしに存在する

あなたはただ、ひとりの<観照者>であればいい

だからタントラは言う

”それを受け容れよ”と

上げ潮が来る–

ビューティフルだ

引き潮になる–

それも素敵だ

by osho

あなたの思考はあなたなしに存在する、そう言っているのです。そんなことがどうして言えるのでしょうか?

その不思議をよく感じてみる必要がありますね。あなたの肉体があなたなしに存在するなんて、あり得ないと思っているのと同じことなのです。

この不条理をどう受け入れることができるのか?それは、この自分という存在が思考を生み出している、という錯覚に気づけばいいのです。

思考は単なるエネルギーとして浮遊しているものです。その思考が個人というあなたの存在をイメージしているだけなのです。

その自己イメージを自分の存在として見てしまっているということ。あなたの実体は、あなたが思っているようなものではないということ。

それを、ひとりの<観照者>といっているのです。真実はと言えば、ひとりのなどというのが方便であり、ただの気づき、覚醒している意識なのです。

これまで、これが自分自身だと思い込んできた自分を、よ〜く見つめてみることですね。それが実体のあるものなのかどうか、真正面から検証してみることです。

たとえどんな結果がやってこようと、自分自身で探求すること以外には、真実と出会うことはできないからです。