すべては自然発生的に起きる

 

「私はあなたを愛する」というとき、あたかも愛という名詞を動詞のようにして使っていることが分かりますが、これって違和感がないでしょうか?

愛はすることでも成されることでもないし、ただ起きることなはずなのに。きっと丁寧に言えば、「私はあなたを愛しいと感じる」になるのでしょうね。

愛という名詞を愛しいという形容詞にするなら、問題がないように思います。形容詞で形容されることは、自然発生的なものだからです。

愛を能動的に起こすことは不可能ですね。およそこの世界で、大切なことというのは自然発生的なものなのです。

何かが主体的にすること、為すこと、起こすことは本質的にはどうでもいいことばかりです。ところが、この社会ではそうしたものにこそ価値があるかのように扱うのです。

それが慣例になってしまっているので、誰もが幼い頃から間違った教育を受けてしまったのです。これこそがエゴが栄え続ける原因なのです。

主体的に独自の意志を持って行なうことは、すべてがエゴの活力となるのです。それが結果として後悔するようなことでも、手柄となることでも。

個人というのが思考の中の仮想的な存在であることを思い出すなら、この世界のすべてが自然発生的に起き続けていると理解できるはずです。

それなら気張ることも焦ることも、緊張することも必要ないと気づけばいいのです。すべては自然発生的に起きるのですから。

 

二種類の自己同化

ある情報によると、日本人が移住先として考える、一番人気の国はマレーシアということらしいです。そういう情報には疎かったので、ちょっと意外でした。

何となくですが、自分の中ではハワイとかニュージーランドのような欧米感のある国だろうと思っていたからです。

自分がリタイアして移住するとしたら、やっぱり真っ先に気になるのが気候ですね。寒いのが苦手ですし、日本のように蒸し暑いのもダメなのです。

昔からずっと自覚はあったのですが、自分の気分が気候にとても影響されるというのがあって、それってなかなか不利だなと思っていました。

なぜなら気候は自然現象なので、自分の思い通りにならないからです。そういったものに影響されるということは、それだけ生きづらいということですからね。

概ね敏感体質の人はそういう面があるのだと思います。カラダからやってくる様々な信号に強く反応してしまうわけで、それはそれだけカラダとの同一化も強くなるということです。

気分というのはマインドのものだとすると、カラダとの同一化をしているのはマインドだということになりますね。

そしてそのマインドと自己同化しているのが、私たちの本質なのです。だからマインドとの自己同化がはずれるなら、カラダとの自己同化も自然と消えてしまうのでしょう。

蒸発は突然起こる

蒸発は突然起こるが、熱するには時間がかかる

エゴが落ちること自体は蒸発のように起こるもの

それは突如として起こる

だから

エゴを落とそうとすることはやめなさい

それよりも

自分の理解を深めるようにすることだ

水を蒸発に変えようとはしないこと

ただ熱せばいい

by osho

自分の反応を見守る

誰であれ他人から否定されたり軽蔑されたりすることを望む人はいませんね。できれば肯定されて称賛されたいと思っています。

けれども長い人生の中では、どうしたって否定されたり嫌われたりすることもあるものです。不完全な人間である以上は、避けられないことかもしれません。

大切なのは、そうなったときにどんな反応をするかということです。一番一般的なのは、否定され嫌われた自分が悪いのだとする反応ですね。

自分自身で自己否定してしまえば、当然のことながら落ち込むことにもなるのです。日頃から自己否定感を強く持っていると、こうした反応をしがちです。

あるいはそれとは真逆の反応として、自分のことを否定してくる人が悪いのだと捉える人もいます。何事も相手のせいにする傾向の強い人はそうなるかもしれません。

あなたはどちらの反応を主にする傾向にあるでしょうか?いずれにしても、自分か相手のどちらかが悪いという捉え方なのですね。

私の場合は、否定されたらそれなりに嫌な気持ちにはなるのですが、否定してくる人のマインドに問題があるという理解です。

その場合には、相手への否定があるわけではないので、気持ちが楽でいられるのです。そして自分がどんな反応をしようと、そのすべてを見ていてあげることができるなら、それが最良ですね。

物語中毒を見抜く

あることに病みつきになって、やめたくてもやめられないのを中毒と言いますね。世の中には様々な中毒があります。

とても過酷で、人生をボロボロにしてしまうくらい強烈なのが、薬物中毒です。そこから抜けるためには、苦しい禁断症状を潜り抜けなければならないからです。

私はかつてタバコをやめようとして、なんども失敗を繰り返していたことがありました。タバコごときでと思うのですが、つい無自覚に手がタバコに伸びるのです。

それでも30歳くらいのときに、ようやくやめることができたときには、何か清々しい感じがしたものです。それは、タバコがなくても生きていけることの心地よさを感じたのでしょう。

ところで人類全体が罹っている中毒があるのですが何だと思いますか?それは、物語中毒です。といっても、そのことに気づいているかどうかは別ですが…。

私たちは、自分の人生という物語だけでは飽き足らず、小説や映画やテレビなどでそれこそ無数の物語を疑似体験しています。

物語をやめられない理由は、エゴそのものが思考の産物だからなのでしょうね。物語という思考の中でしか、活性化していられないからです。

だからエゴの物語中毒よりも強力な中毒はないのかもしれません。エゴは原理上物語中毒から抜けることはできないということです。

私たちにできることは、エゴとの同一化を見抜くこと。人生を物語だと見抜く目を養うこと。そのときには、物語から抜ける必要もなくなり、物語をただ見る側になるのですね。

エゴからの解放

架空のものとはいえ、一度エゴができてしまうと、その惨めさから何とか抜け出そうとして頑張るのが人生というわけです。

なぜエゴは惨めかというと、自分が外の世界から分離した一個人だと思い込んでいるからです。その不安、その孤独感こそが惨めさの原点なのです。

それなのにその避けようのない惨めさから脱しようと、あらゆる闘争を続けるのです。今よりももっと惨めに感じなかった過去を思い出すのもその一つ。

あるいはまだ来ぬ未来に対して、きっと惨めではなくなるはずという勝手でしかも原理的に不可能なことを想像し続けるのです。

つまりエゴは、生き延びるために過去と未来を手放すことができないのです。そのどちらも思考の中にしかないということを理解できずに…。

私たちの本当の救いが、過去や未来にあるという間違ったエゴの作戦では達成できないということを、改めて理解する必要があるのです。

エゴの誘いに乗らずに、思考が運んでくる過去や未来に目を向けずに、ただ今この瞬間にいるように練習することです。

なんどもお伝えしているように、真の救いとはエゴから解放されることだからですね。

マインドの外に出られるなら…

ある映画を観ていてふと思ったのですが、薬物に依存している人というのは、そうでない人と比べると、薬物を摂取したときの快感と、それが切れたときの強烈な苦しみの両方を体験しているのですね。

薬物依存ではない我々一般人は、極端とも言えるそのどちらの感覚も経験してないわけです。快感の方だけを経験したいと思っても、そうはいかないことを知っているので手を出さずにいるのです。

天にも昇るような夢見心地を得たいと思っても、常習性があるということも危険だと思うからこそ、理性によって手を出さずにいるのです。

薬物依存者のアップダウンの激しさからすれば、そうでない人は波がなくて安定している反面、つまらない感じもするかもしれません。

それと同じことが、我々一般人と覚醒した人の間にも言えるのではないかと思うのです。覚醒すると、物語から抜けている状態なので、マインドが波立つことがなくなります。

というより、マインドがなくなると思った方が近いかもしれません。一方で、人生という物語の中で泣いたり笑ったりしながら何とか生きている私たちは、毎日刺激の中で暮らしているのです。

物語の外へ出たなら、きっと凪いだ海のようでとてもつまらないものに思えてしまうかもしれません。けれども、マインドの外から見たら、物語の中での暮らしは一種の薬物依存と言えるのです。

私たちにとって、薬物がなくても生きていけるように、覚醒してマインドの外に出られるなら、物語がなくてもまったく問題ないばかりか、そこにこそ至福があるのでしょうね。

明日への期待を断つ

私たちは絶えず不足を感じていて、何かやり残したことがあり、今日行けなかったところがあり、そう言ったものを明日への期待として持つのです。

身体の具合が悪くなると、それが治ってくれる未来のことを思うし、今は能力不足で思うように出来なかったことがあれば、成長してできるようになる自分を夢見るのです。

誰かと仲たがいして落ち込めば、仲直りすることを考えるし、テストで失敗すれば次回はもっと頑張ろうと思うのです。

要するに、何らかの不満があればすぐに未来へと想いを馳せるのです。そして実は、今は満足できていたとしても、明日は大丈夫かと未来を心配したりもするのです。

そうやっていつもいつも、必ず今この瞬間にい続けることを拒否しているのです。未来に望みをかけながら生きているということです。

私はこのことに気づくとき、つくづく思考に乗っ取られているんだなと分かります。明日に期待するというときには、思考が常にあるからです。

この癖は相当しぶといもので、思い返せばもう幼少の頃にはある程度身についていたのかもしれません。だから簡単にはやめられないのです。

明日はないものと思って生きなさいという人もいますが、私はそういう自分への思い込ませ的なことは嫌いなのです。

だからもっとシンプルに、ただ今の自分を見つめているだけにしています。それができている間は、思考から離れていられるからです。

未来というのは思考の中の作り物だと分かった時、何か先がなくなって行き場を失ったようで息苦しく感じるなら、それがエゴの正直な反応なのでしょうね。

未来が消えれば、エゴも同時に消えるしかないのですから。

身の引き締まる思い?

努力の末にやっと念願が叶って嬉しいはずなのに、そういうときに「一層身の引き締まる思い」のような発言をされる人がいますね。

それはきっと、喜びのあまりに有頂天にばかりなっていてはならないという、自らへの戒めの言葉なのでしょうね。

こうした言葉というのは、精一杯の努力をした人が言うから、尚更味わい深い感じがするのかもしれませんが、到底私には該当しないのです。

この身の引き締まる思い、というのを経験したこともないし、人一倍の努力というのも自分には似つかわしくないと感じてしまうのです。

達成感もないので有頂天になることもないので、油断しないように身を引き締めるなどという発想が最初からないのですね。

他人と自分を比べてしまうと、随分と違いがあって自分は今のままのこんなでいいんだろうかという疑問も出てきます。

若い頃は、そんな感じでいつも自分を周りの人と比べてばかりいたので、その度に不安や自己嫌悪を感じることがあったのですが、比べることの無意味さに気づいてからは変わりましたね。

ここでも例の金言が生きてきます。「人のことを考えるな、さもなければ決して成長することはない」というグルジェフの言葉ですね。

人のことを考えるということには、自分と人を比較するということも含まれるし、人にどのように思われているかということなども含まれます。

少なくとも目の前にいない人のことについては、できるだけ考えないでいられるように練習することが大切なのですね。

誰もがペテン師

私が思うに、人間は誰でも深いところで絶望を隠し持っているのではないかと感じるのです。絶望などというと、何か大げさな表現のように思えるかもしれませんね。

けれどもこれは決してオーバーに言っているのではなく、命がかかったくらいの絶望なのです。もちろん、その絶望に気づいている人も気づかずに一生を終える人もいるでしょう。

多くの人は後者だと思います。だからこそこの話はきっと、受け入れ難いのだろうと思うのです。絶望する理由は、自分をペテンにかけているからです。

どんなペテンかというと、これが自分だという騙しです。本当の自己を隠しておきながら、周囲から教わったことを無理矢理信じ込ませたのです。

そうでなければ、この社会では決して生きていくことができないと感じたからでしょうね。人間はそういう意味で、誰でもペテン師だということ。

それなくしては生きて行けないのですから、絶望しているに違いないのです。そして次のペテンは、その絶望すら隠して分からないようにするのです。

この世界で元気に生きている人は、自分に対して、この二重のペテンにかけているということです。だからこそ、どこかで憂鬱さを持っているのでしょう。

集団催眠状態と言ってもいいかもしれません。誰もが同じように、人物としての自分がいるという催眠(自己暗示)にかかっているのです。

ときには、その強烈な暗示が溶けることもあるのですが、それが自分はいないということに気づく体験となるのです。

いずれにしても相変わらず人生は続いていくのですが、隠し持っている絶望を少しでも見ることができるなら、奥深いところにある至福にも同時に気づけるのだろうと思うのです。