マインドを見る側になる

もう諦めてください。何を諦めるかというと、個人として生きているあなたの人生、あなたの気持ちが満たされるということ。

誰もが、充分に満たされたいと願っているのですが、それは原理的には叶うことがないということです。

なぜなら、満たされたいと願っているのはあなたのマインドであり、そのくせマインドは満たされた瞬間に身動きできなくなってしまうからです。

マインドは何かを求めて動く原動力が必要なのです。今はまだ満たされていないけれど、未来へ向かって進むことでそれはやってくるはず。

これがマインドがずっとやり続けていることです。それは鼻の先にぶら下げられた人参を追い続ける馬と同じなのです。

このバカバカしさ全体を見極めること。いつかよくなる、いつかは解決する、いつかは満たされる、いつかは幸せになれる等々。

もしも諦めることが難しいようであれば、マインドはそのままにしてそれを見守る側へとシフトすればいいのです。

その時には、これまでとは違う種類の何の理由もない満たされてる感がやってくるのです。しっかりマインドを見る側になれればですが…。

お任せして委ねる

クライアントさんの中には、具体的な心配事やどちらを選ぶべきかと言った、一般的な相談事を持って来られるケースもあるのです。

困っているから相談に乗って欲しいというお気持ちは分かるのですが、正直なところ相談事をお聴きして、的確な答えを提示するのがとても苦手なのです。

もちろん正論を言えば、セラピストはご近所のご意見番と違って、癒しに特化した仕事しかできないということになるのです。

そして少し冷たいようですが、本音を言えば相談事には興味がないということと、実際に正しい答えを出す自信もないのです。

自分があまり常識人ではないという自覚もあるし、そもそも正解などというものはないと思っているからです。

今これが正解だと思って選んだことが、10年後には真逆になっているということもあるかもしれません。

ロングスパンで見た時に、何が成功で何が失敗なのかは言えなくなると思っています。だから相談事には、曖昧な答えしか出せないのです。

もっと大切な事は、起こるべきことが起きているという感覚を持つことかも知れませんね。全体性にお任せし、委ねるという感覚です。

実際私たちは全体性の一部に過ぎないのですから。これが分かれば後悔も減るし、未来への不安も小さくなるはずです。

理由なき満たされた感

他の人のことは分かりませんが、私自身の人生を見たときに思うのは、本当に満たされた感覚でいられることが少ないということです。

多くの場合には、何かしらの不満を抱えているのです。具体的なものの場合もあるし、何だかよく分からないものの場合だってあります。

もしかしたら、満たされた状態でいられるのは1%くらいで、残りの99%は不満を感じて、何かが足りない、このままではダメだと思っているかもしれません。

本当に満たされて、この瞬間が充分以上であり、これ以上の求めや期待するべき何も見つからない時に初めて、真のリラックスがやってくるのです。

だから、残りの99%は決してリラックスできるはずがないのですね。こうしたことに独り密かに気づいた時、何かが変化し出すように思います。

きっと1%である満たされた状態というのは、人生物語から抜け出している瞬間なのだろうなと。マインドから脱している状態だし、瞑想状態とも言えるのです。

不満や欠乏感が私たちを闘いへと誘うのですが、それが人生というものだということを再確認しておいた方がいいでしょうね。

そのことを知った上で、毎日ただ起きることが起きては去っていくのを見守る側でいられたら、理由なき満たされた感がもっと頻繁にやってくるようになると思いますね。

たった一つの思い違い

私たちは、生まれてほんの数年の間に自己イメージというものを作ってしまいます。自ら作るというよりも、環境によって設定されてしまうと言った方が近いかもしれません。

ビルディングの建設で言えば、土台の部分にあたるものですね。その土台によって、どのような建物が建つのかが決まるわけです。

私たちの人生も同じようにして、幼い頃にでっち上げられた自己イメージが、事実間違ってなかったと証明するようなものになるのです。

つまり、自己イメージに自分は「A」だと書いてあると、それが正しかったかのような人生になるということです。

それは本当に恐るべきことだと言えます。なぜなら通常そんな古い自己イメージに自分が縛られているなどとは思いもよらないからです。

あなたが持ってしまった否定的な自己イメージの根本にあるもの、それは自分には「価値がない」という思いです。

たったその一つのイメージがあることによって、あらゆる否定的な自己イメージが連鎖的に作り上げられるのです。

もしもあなたが、否定的な自己イメージの一つとして、自分は「根暗だ」というものを持っているとしたら、それも「価値がない」からやってくるのです。

「価値がない」という自己イメージを持っていなければ、「根暗だ」というのはただの特徴に過ぎないというだけになるのです。

このたった一つの「自分には価値がない」という自己イメージが単なる思い込みに過ぎなかったと気づいた時、人生は何から何まで変容してしまうでしょうね。

学生と弟子の違い

学生とか社会人が勉強をするのに努力は必要かもしれませんね。なぜなら、その時間をもっと楽しいことに費やしたいという欲望と戦わなければならないからです。

知識欲が旺盛な人は、勉強して知識が増えること自体が楽しくて仕方ないという有利な気質なので、それほどの努力はいらないかもしれませんが。

ただどれほど知識が増えたところで、新たな気づきがやってくることはありません。知識とは、そういう情報があることを知っていることに過ぎないからです。

一方で、弟子が本当の学びをしていくためには、努力も必要かもしれませんが、もっとも必要なものは勇気なのです。

そこに関しては癒しと似ているのです。弟子が学ぶときも、クライアントさんが癒しを進めていく時にも、両者に共通する事柄があるのです。

それは、自分が変容していくことへの覚悟が必要ということです。弟子の場合は、師から与えられた全く新しいワールドへ没入していくこと。

それがどれほど恐怖を伴うものだとしても、それを通過していくことでしか師のところに近づく方法がないからです。

癒しには師は必要ないのですが、それでも癒していった先にはこれまでの自分とは違う変容した自分が待っているのです。

これまで築いてきたものを手放す時、ずっとしがみついてきたものから離される時がやってくるのです。

そうした覚悟があればあるほど、早く癒しが進むことになるのですが、一般的には恐怖がそれにブレーキをかけるのですね。

惨めさが輪廻転生の原動力

私たちが個人(自我)として生きている限りは、惨めさは必ずついて回るものだということを知ることです。

自我はそれとは知らずに、その惨めさから何とかして脱出しようとするエネルギーを主な原動力として生きているのです。

一番長続きするのは、その惨めさを隠し持った上で無自覚の上で、惨めじゃない自分になろうと奮闘努力することです。

これは死ぬまで継続させることができますね。ではそもそもなぜ惨めさがついて回るか、それを理解することがまずは必要なことです。

惨めさの原因となるものは、期待です。本能的なものは当然のこと、自我は心理的な期待というものを必ず持っているのです。

その期待値に対する現実との落差が惨めさとなるのです。つまり惨めさは思考により作られるものです。

実在するものではないにせよ、その思考が原因となって悲しみなどの感情が発生するので、それを直視せずにいようとするのです。

もしも自分が持っている惨めさをしっかり見つめて、それが思考による創作物だと深く理解することができたなら、生きるエネルギーが恐怖から愛へと変化するでしょう。

そうなったら、次の人生がやってくることは無くなるはずです。なぜなら、輪廻というのは惨めさの伝播だからです。

思考と実在の区別

子供の頃、いろいろなことが分からな過ぎて、そもそも何で宇宙があるんだろうとか、そもそも何で自分がいるんだろうって考えたりしていました。

さすがに、何で自分がいるんだろうと言う前に、自分がいるということが本当なのかを疑問視したことはありませんでした。

かつてデカルトは、「我思う、故に我あり」と言ってしまったのですが、これが圧倒的に思慮深くなかったなと。

これが歴史上残ってしまったので、あの世で彼はちょっと恥ずかしい思いをしているかもしれません。

我思う、故に我ありという思考がある、こう言ったらよかったのに。思考と実在の区別をしなかったための間違った言葉ですね。

このように私たちは、思考なのか実在するものなのかの区別をあまり明確にしていないのです。

思っていることが実在であることもあるかもしれませんが、それはまた別の話。とにかく思考と実在をゴッチャにすることをやめることです。

さもないと、いつまでも自分を本質側から見ることができないままでいることになるのです。

常に思考の中にあると、そうした間違いを犯しやすくなるのです。あなたは大丈夫ですか?思考から離れている時間が1日のうち数分でもあれば、今日のブログの意味がはっきりすると思います。

改善より見守ること

幼い頃の生育環境がその後のその人の人格や人生に多大な影響を与えることになる、という事は現代においては誰もが知っている周知の事実ですね。

ところが私が思うに、そのニュアンスは間違って理解されているように見受けられます。本当のところ、環境に影響されるというよりは、それで出来ているのです。

もう少し丁寧に説明すると、我々に元々与えられているのは遺伝子とそれによって作られた肉体だけなのです。その人の内面を形成しているマインドは、当初存在してなかったのです。

影響されるという意味は、元々何かがあってそれが環境によって変化させられるということなのです。

サイコロのような形をしたスイカを見たことがあると思いますが、あれはそうした形の箱の中でスイカを育てる事で、その影響を受けてその形になったわけです。

けれどもその箱がなくてもスイカは自らの形に成長することができますね。一方でマインドは、マインドを持った家族に囲まれることでしか発生しません。

何もないところにマインドが生み出されるのですから、それは影響されるというレベルではなく、親などの家族のマインドが材料となって作られるのです。

意味が伝わったでしょうか?影響を受けるのと、それで出来ているのとの違いは絶大であり、それをどう考えればいいでしょうか?

もしも自分のマインドが気に入らないとしても、それを望むようなものに変えることは出来ないと知ることです。

鉄の板をどれほど磨いたところで金の延べ棒に変えることが出来ないのと同じことです。だから改善しようとするのをやめること。

そして唯一のできる事とは、マインドの働きを小さくするのです。あなたのマインドが様々な反応をしても、それを見ている側になる練習をすること。

そうすればどんなマインドであれ、その影響を見守りながら生きていくことが可能となり、それはより自分の本質に近づくことにもなるのですね。

親2世が生きている

ここで話題にしている「親2世」という言葉は、私が作った言葉なのですが、親のコピーとも言えるような人格のことを指します。

誰がそれを作るかといえば、四歳から六歳くらいまでの間に、子供が自らのマインドの中に自覚のないままにこしらえてしまうのです。

その理由はいくつか考えられるのですが、きっとケースによってその理由は少しずつ違うかもしれません。

例えば親から毎日口うるさく説教されたなら、そうやって自分を責める親2世が作られるのです。

そうすることで、親に責められる前に自分の中で自分を責めることになって、親から責められることが少しでも軽減されるかもしれないということ。

あるいは、親に死ね死ね!と言われて育ったとしたら、その耐え難い苦しみから逃れるために、自分に対して死ねばいいのにという親2世を作るのです。

そして親2世側の自分になることで、責められる側の苦しみから逃れることができるわけです。

いずれにしても、幼い子供が親2世を作るのは、切実な自己防衛のためだったということが言えるのです。

誰のマインドの中にも親2世は存在しています。それを見つけて、何と言っているのかを聞いてあげると、どのように育てられたのかを理解する助けになるでしょうね。

残された人生で向き合う唯一のこと

私たちのような自意識を持った生物である人間にとって、最も受け入れ難いこととは、「私」という個人はいないということです。

もちろんそんなことは考えたこともないし、聞いたこともないという人が今でも大多数であることは想像できます。

けれども、情報が溢れかえる現代において、誰だってきっと一度や二度どこかでそれらしき事柄を聞いたことがあるはずなのです。

その時にどんな反応をするのかが、人によって全く違ってくるのです。私の場合はどうだったかというと、一瞬にして何か救われた感じがしたような記憶があります。

それは直感的に、自分が体験するあらゆる苦しみというのは、外側にその原因があるのではなくて、自分自身が内包しているものだろうと感じていたからです。

そしてそれは単なる情報としてやってきただけではなく、ある種の体験としてやってきたのです。長続きはしませんでしたが…。

今では人生の多くの時間を自我として生きている一方で、それがイメージに過ぎないことを見抜いている本質側からの感覚もあるのです。

「私」はいない、自我はイメージに過ぎないと理解することでしか、本当に救われることはないのです。

それをより深く体得していくことだけが残された人生で向き合っていく唯一のことなのだと思うようになりましたね。