対価という発想に、愛が入り込む余地はない

私たちが暮らしているこの貨幣経済の根っこにあるものとは、対価を要求するという考え方です。つまりは、取引という発想が原点なわけです。

これだけのことをやったのだから、それに見合ったものを求めるのが妥当であるという考え方ですね。

こうした対価を必要とする考えというのは、やりたくてたまらないことをやった場合には発生しないものです。

なぜなら、やりたいことをやれたことで満足しているからです。そこで完結してしまっているからですね。

逆に言えば、対価を要求しなければならない場合というのは、基本的にはそれほどやりたいことではないことをやった場合ということになります。

お婆ちゃんの肩を叩いて、お小遣いをもらうという時、肩を叩いてあげたい気持ちが止まらずに叩くのではないですね。

一種の労働の対価としてお金をもらうという発想です。会社で働いて、その対価として給料をもらうのと同じことです。

少し病んだお父さんになると、働いた対価として家族からありがとうと言って欲しいと思ってしまうこともあるかも。

もっとひどくなると、子供達に向かって誰のおかげでご飯が食べられると思ってるんだ?などの暴言を吐いてしまうことも。

家族に食事を作っている奥さんやお母さんが、ご主人や子供達から「ご馳走様」と言われないと満足しないというのも同じこと。

こうした発想は全てそこに愛の要素が欠落してしまっているのです。だから感謝してもらわねば気が済まないとなるのです。

対価という考え方自体、それは取引な訳で、そこには愛が入り込む余地はあまりないような気がして残念です。

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