このコラムでも何度も書いているように、人は自我が出来上がっていくまでの大切な成長過程において、親からの愛を思うように受け取ることができなくて不安を感じていたり、認めてもらう代わりに否定的な信号を送られたりが続いてしまうと、幼少期にはすでに心の奥に自分は駄目な奴だという自己否定、自己嫌悪、罪悪感などがしっかりと根をおろしてしまうのです。そうすると、自分で自分のことを認めることができないまま大人になっていきます。そして自分の存在価値に気づくことができないまま、毎日を過ごさねばならなくなってしまうのです。
しかしそういった自己否定の感覚をそのまま感じながら生きていくことはとても辛いことなので、人は無意識のうちに様々な方法によってその苦しさを払拭しようとするのです。それは私が心の鎧(よろい)と呼んでいるものです。この心の鎧を自己否定の外側にしっかりと着せることで、内側にある価値のない自分を見ないでいられるようにするのです。では実際どんな心の鎧が使われるのかを挙げながら、少し細かく見て行くことにします。心の鎧の中でも最もポピュラーなものは一般にプライドと言われるものかもしれません。
よくプライドを持ちなさいと言われる場合がありますが、それは以前コラムでも書いたセルフエスティームの事とプライドを混同しているのではないかと思います。実際には両者は正反対の心の状態なのです。セルフエスティームは自己肯定感、つまり自分が自分のままでいいと感じる心のことであり、プライドは自己否定をごまかすための心の鎧なのです。確かにプライドの元々の意味は自尊心とか自負心という言葉で表せるので、セルフエスティームと同等と捉えることができるのですが、日常的に使われている意味合いは違うように感じます。
それは例えばプライドの高い人というのをイメージしようとすると、何となく感じるものです。自分自身というよりは、学歴や地位や財産、あるいは家柄といった自分の属性を利用した鎧である場合が多いのです。なぜ属性を用いるかというと、プライドは人と比べることの上に成り立つものであるために、比べられるものを使うしかないからです。自分自身の存在というのは人と比べることができないために、自分が所有しているものや業績などの成果を利用することになるのです。自分が持っている能力を自分自身と一緒だと思っている人もいるかもしれませんが、能力や技能というのはやはり属性として比べることができるためにプライドを守ることに使われます。
プライドよりももう少し病的なものと考えられるかもしれませんが、心の鎧として使われるものに万能感というのがあります。これは、自分でも理由ははっきりと分からないのだけれど、何となく自分はすごいんだと感じる心のことです。プライドのように自分の属性を使って他者と比較することで自分を守ろうとするのではなく、大胆にも自分の存在そのものを特別なものと思い込むことによって自分を守る方法なのです。今のところは駄目だけど、そのうちきっと社会ですごく活躍することができると勝手に思っていたり、幼稚さが残っている場合には自分のことをヒーローか何かのような存在かもしれないと信じてしまったりするものです。
大した努力もせずに、何の根拠もないままに自分は特別なんだということを思っているため、場合によっては周りからは変人扱いされしてしまうかもしれません。このようなかなり強引な誤魔化しではありますが、それでも自分の存在を認めるという意識には違いがないため、、自分を変えていこうと努力する方向に持っていくことができれば、うまくすれば自分を向上させることに繋がる事があるかもしれません。
また別の強力な心の鎧として、正しさというものを利用することもあります。自分の主義や主張、信念、考えていること、あるいは自分の行動はすべて正しいと思い込むことで自分を守ろうとするものです。この心の鎧を分厚く身に着けてしまうと、自分と違う考え方をする人を全く認めようとしなくなってしまいます。本人にとっては自分と違う意見はすべて間違っていると感じてしまうために、それを認める必要がなくなってしまうのです。そう言う人は、自分が何らかの過ちを犯してしまったとしても、絶対に謝ることをしません。もし、素直に間違えを認めてしまうと、鎧がもろくも剥げ落ちて奥に潜んでいる自己否定に気づいてしまうからです。
この正しさという鎧とペアのように連動して使われるのが、相手を否定する鎧なのです。周りの人の言動をいっさい認めようとせずに、否定し続けてしまいます。この場合には、自分の考え方と違うかどうかというよりも、相手を否定することに主眼が置かれるため、否定的な態度をとられた人はとても理不尽な気持ちになってしまうかもしれません。それは極端に言えば、相手が白と言えば自分は黒と言うし、右と言えば左という具合に相手を否定することで、自分を守ろうとする心の鎧なのです。
上で述べてきたようなもの以外にも実は沢山の心の鎧があるのでしょう。こういったものは、おおむね周囲の人からは認めてもらいがたいようなものかもしれません。そして、その心の鎧そのものについて周囲の人から指摘されようものなら、激しい怒りとともにそれを否定することになってしまいます。なぜならそれを否定しないと、結局は心の奥にある自己否定をも認めてしまうことになってしまうからです。今まで述べてきたような心の鎧でも、勝負に勝つことや一番になることに拘ったり、あるいは道徳的に生きることなどで心の鎧を補強しようとする場合などは、周囲の人からは好ましく思われることがあるかもしれません。
あなたは自分が何らかの心の鎧を持っていることに気づいているでしょうか?心の奥に自己否定が全くないという人などいないはずですから、心の鎧はきっと誰でも持っているものなのです。したがって、自分はそんな鎧は持っていないと思う人は単に気づいていないということになるのかもしれません。心の鎧を使って人生を前向きに考えられるようになるのであれば、それはそれで決して悪いことではないはずです。問題は心の奥にしまい込んだ自己否定、自己嫌悪のエネルギーがとても大きい時に、それにつれてより頑丈で強固な心の鎧を作ってしまうことになる場合なのです。
あまりにも強力な鎧を身に着けてしまうとどうなるでしょうか?戦国時代の武将たちが身に着けた本物の鎧のことをイメージしてみれば明らかなように、頑丈な鎧になればなるほど重くなり、できるだけ身体のすべての部分を覆うようにすればするほど柔軟に身体を動かすことができなくなってきてしまいます。そういう鎧は、飛んできた矢を跳ね返したり、はがねの槍で突かれても怪我をせずに済むかもかもしれませんが、自分で自分の自由を奪ってしまうために結局思うように戦うことはできなくなってしまいます。
心の鎧も同じように、大きくて頑丈になればなるほど融通の利かない頑固で偏屈な心で生きていくようになってしまうのです。結果として、自分を守っているつもりでも、自分を縛り付けて不自由な生活を送ることになってしまいます。そして周りからは疎ましいと思われるようになったり、嫌われ者になったりしてしまうかもしれません。人はなかなか本当のことを言ってはくれないものです。自分自身で毎日の自分の言動をよく見つめてみることです。どんな心の鎧をどれほど着込んでいるのかを考えてみることです。
気づくことが出来た人だけが前へ進むことができるかもしれません。それから先は、つまりどうやってその鎧を少しずつはずしていくかについては、いくつか方法があるかもしれませんが、その中でも最も本質的な方法は、元々鎧が必要になった最初の理由を思い出してみることです。そうすればおのずと分かることですが、心の奥に潜む自己否定、自己嫌悪などの感覚を減らしていくことが大切なのです。決して簡単なことではありませんが、自己否定を減らして自己肯定感を少しでも養っていくことなのです。それに伴ってひとりでに、心の鎧もより薄いものに変化していくはずです。
それには、自己否定を一手に引き受けているインナーチャイルドを見てあげることです。肯定的な面を必ず持っている大人の自分が、自分を認められないでいる可哀想なインナーチャイルドの気持ちを深く共感してあげて、親に成り代わって全面的に受け入れてあげるようにすることです。自分は駄目だと思っているインナーチャイルドに、何度も繰り返してそれが間違いであることを分かってもらうことです。一緒になってその否定的な感情を味わって開放してあげることです。そうやって、少しずつ薄皮を剥ぐようにして、重たい心の鎧を取り去って行くことができれば、そのままの自分を認められる、深く満ち足りた心の状態になることができるはずです。