太陽を無限に大きくしたような光をイメージしてみて下さい。そして、その光によって全体が完全に満たされているとします。光で満ち満ちている全体において、そこに黒い箱を置いて光の一部を遮ることができるか?という疑問が発生してもいいかもしれませんが、その疑問は一瞬にして消え去ります。なぜなら、光で満ちている全体だけがあるわけですから、光以外の何ものも存在しないのに、何かで光を遮ることは不可能です。
しかし、その一瞬の疑問の間にエゴが生まれ、その不可能なことを幻想の中で実現したのです。エゴはそこにとてつもなく巨大な一つの真っ黒い四角い箱が出現したと妄想したのです。その箱の中は空洞であり、またその箱の一つの側面には無数の様々な形状の穴が開いているものとします。すると、当然外の眩い光がその穴を通して箱の内部に入ってきます。
入ってきた光の筋は、通過してきた穴の形状と同じ形をしているはずです。そして、すべての穴から入ってきたそれぞれの光の筋は、そのまま箱の反対側の面の内側まで到達します。そうすると、その光の筋は、内側の面をスクリーンとして、その上にそれぞれの像を作ることになります。スクリーン上に出来上がった一つひとつの像は、各光が通過してきた一つひとつの穴の形状をしているはずです。
光(愛)を遮ることで暗闇の部分ができ、スクリーン上の暗闇と光のコントラストによって一つひとつの形が作られているように錯覚するのです。それはあくまでも像なのです。光を遮ると個別性が生まれ、個別性から個性が出来上がるのです。個別性は各々の違いに価値を見出し、比較することを可能にします。これがエゴが作ったこの幻想の世界、我々が慣れ親しんだ現実という世界なのです。
実は、このスクリーン上に映し出された一つひとつの像を我々は自分自身だと思っているのです。私がいて、私とは違うあなたがいると思っているのですが、本当は私はただの像だし、私の隣にいるあなたもただの像に過ぎないのです。そして二人は別々の像(個体)のように見えるだけで、元々は大きな光(愛)から派生してできた像なのです。
この像には実体などなにもありません。ちょうど、映画館の映写機によってスクリーン上に映し出された映像と同じで、リアリティはありますが実体など何もないのです。残念ながら、スクリーン上の像を自分だと思い込んでいる我々人間には、本質的には自分たちが光(愛)そのものなのだということに気がつきません。
自分たちの本質は像などではないと気づかない限り、私はあなただし、あなたはわたしだという、すべては一つだという愛の感覚に戻ることも難しいのです。エゴは分離した像である肉体にリアリティを持たせて、愛のない苦悩の中で翻弄させることで我々が本当は何ものなのかということにいつまでも気づかないでいるようにさせているのです。
そして一方、箱の中を通過して、像を結んでいる一つひとつの光の筋をハイアーセルフ(聖霊)と考えることができます。ハイアーセルフは自分が光(愛)そのものであることも知っているし、幻想の中では個別の形状を持っていることも分かっています。そして、どの光線も幻想の穴を通過する前は一つの大きな光の塊として互いに一体だったことも分かっているのです。
自分は分離した像なんかではなく、光(愛)の存在なのだということに気づくにはどうしたらいいのでしょうか?それには、エゴがこしらえた苦悩の中で幸せを求めようとするのではなく、苦悩は幻想なんだという捉え方がどうしても必要なのです。そして、この自分が持っている力で何とかしようとすることを手放していくことも必要なのです。
自分で何とかしようとするのは、結局エゴの中でもがいているに過ぎないからです。自分は本当の自分に気づきたいという意思をはっきりとハイアーセルフに伝えることです。そして、できるかぎり幻想の中でも唯一意味のある愛を選択するという決意をすることです。そうして、常にハイアーセルフに先導してもらうようにして、自分とハイアーセルフの間にあるパイプを太くしていくことです。
そうやって、我々一人ひとりが実は単なるスクリーン上の像を見ていただけだったことに深く気づくことで、私たちを映し出していた幻想上のスクリーンが消滅します。そして、自分という存在は本当は光(愛)の筋であったと本当に気づくことになります。そして、結局幻想の中でエゴとエゴが作った黒い穴の開いた巨大な箱も消えうせることになります。最後には、別れていたそれぞれの光の筋は元の大きな光(愛)の塊に戻っていくのです。