誰もいないけど、気づきだけがある

自分のことを身体だと思っているなら、他人のことも身体だと思うのは当然のことですね。でも自分のことを意識だと思っているとしたら、他人のことはどう見えるのでしょうか?

きっと同じ一つの意識であると認識するのではなかろうかと思うのです。ところが、やっぱり他人を見る時には身体を見てしまう。

だって誰それと会うと言った時には、互いの身体が出会うことが必要ですからね。もしも完全に身体から解放されるとしたら、どうなるのだろう?

そんなことをつらつら考えていたら、普段から自分のことを身体だと思い込んでいることが当たり前のこととして受け止められるようになりました。

身体を頼りにして生きているということですね。自分はこの物理的な身体だという思い込みは、相当に頑丈だったということです。

一旦それをよ〜く認識した上で、他人と一緒にいてもそこには自分も含めて誰もいないということがはっきりするようです。

誰かと一緒にいて、直接の経験に留まるようにすると、そこには気づきだけがあることに再度気付かされますね。

体験だけが常にここにある

非二元の探究を通して気づいたことというのは、本当にシンプルなことでしたね。それは、海岸に出向いて今海が目の前に広がっているという事実があるわけではないということ。

真実は、眼前に海が広がっているように感じる体験が起きている、ということだったのです。たったこれだけのことでした。

ところが、このことを何度上手に伝えようとしても、伝わるものでもなかったのです。あらゆるものの前提が変わってしまったからです。

その前提というのは、世界がこのように身の回りに存在するというイメージです。このイメージはもう絶対的なものでした。

この前提があまりにも強固なために、これを崩すことができないのです。何せ、自分が生まれる前からこれはあったとさえ感じるからです。

ですが、私たちの日々の生活にその前提は不要なのです。体験が起き続けているだけだと分かったからです。

私たちが思い込んでる事実とか現実というのは、空想によって作り込まれたものに過ぎなかったということ。

ただあるのは、コレとしか言いようのない、単なる体験だったのです。この体験だけが常にここにあるのですね。

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起きることを起きるに任せる

今回珍しくインフルエンザに罹ってしまい、もう少し早めの対処ができたのにと悔やんだりしたのです。

けれども、ここで思い出すことがありましたね。それは、全ては全自動で起こっているという事実です。

私たちは、自分が日々の人生の舵取りをしている、毎日何百何千という意思決定をしていると思い込んでいます。

ところが、本当は最初に物事が起きて、そのすぐ後でそれは私が決断したことだという思考が起きるだけなのです。

主体としての私は、全て思考による後付けでしかありません。そのことをついつい忘れてしまって、悔やむことになるのです。

起きることを起きるに任せるという大切な真理を、少しの間忘れていました。今回も思い出せて気持ちが楽になりましたね。

非二元の探究を通して分かったことが、こうやって日常の生活に生かせるのはとてもありがたいことです。

そしてもちろん、悔やむことすら全自動で起きていることに過ぎないのですから、ここには思い悩むようなことは一つもないということですね。

肉体と五感は無関係

非二元に気づいていく段階で、さまざまな驚くような発見がありましたが、その中でも衝撃的だったものの一つが、肉眼で見ているということの嘘でした。

モノの実体がないということが明らかになったので、自分の肉体も実体があるわけではないということになったのです。

ということは、目という実体もないことになって、結果として視覚というのは肉眼を使っているわけではないということになったのです。

これは視覚だけではなく、聴覚や触覚などあらゆる感覚についても同様であって、この肉体といわゆる五感は無関係だったわけです。

この時点で二元が消えていくわけです。感覚器官を用いて感覚情報を取得しているという事実はなかったのですから。

さあここで困りました。では五感は一体どこからやってくるというのでしょうか?この質問に答えはありません。

理由はまったくもって不明ですが、それはただ起きてくるものとしか言いようがないのです。しかもそれが個人のものであるわけでもない。

それがなんとも清々しい感じがします。個人性という自分の中心が消えていく感覚を味わえるのですからね。

インフルエンザが起きている

久しぶりに風邪を引いてしまったということを一昨日書きましたが、大したことないだろうと鷹を括っていたのです。

ところが、あれよあれよという間に高熱が出てきてしまって、こりゃちょっとダメだなと思って、夜病院に駆け込んだのです。

すると、B型インフルエンザであることが発覚しました。記憶では、インフルエンザもコロナも一度も罹ったことがなかったのに。

日頃人と接することが極端に少ない生活をしているので、よほどのことがない限りは大丈夫だろうと思っていたのです。

なので、いったいどこから感染したのかが不明なのです。いくら巷で流行っているとは言っても、ウイルスが空中を浮遊しているわけでもないのに。

理由はともかくもう結果は出てしまったので、粛々と静かにウイルスがしずまってくれるまで、家の中で大事を取ろうと。

若い頃と違って、何もすることもなく1人じっとしていられるので、病気になっても精神的には楽なものです。

そして、やはりこうした体験がただ起きているだけという地点にいられることは、決定的に気持ちが軽くなりますね。

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医者こそAIに取って変わられる

小中高生のお子さんをお持ちの親御さんにとって、我が子の人生が間違った方向へ進むことなく、この世界で正しく活躍できるようにしてあげたいと願うのは当然です。

そのためには、今できることを一生懸命頑張るというのが、一番当たり前の考え方ですが、そこをしっかり見直さねばならない時代になったのです。

例えば、子供に医学部の大学に行って欲しいと願えば、それこそ大変な量の勉強をさせて、できれば多額の寄付金を払ってあげたいのです。

でもちょっと待ってください。いいですか?AIの脅威的な進化を目の当たりにすると、あっという間に有名な外科医の代わりとなって手術をするようになるのです。

当初考えられていたブルーワーカーよりも、ホワイトワーカーの方がよりAIに取って変わられてしまう公算が大なのです。

多くの人が、なんだかんだ言ったって、まだまだAIにはやれないことがたくさんあるので、大丈夫だと。

しかしその考えが、従来の文化の中でしか頭を使えない状況のままにあるのです。これから起きることは、人類史上で誰も想像すらしてなかったことなのです。

それもあと数年の間に現実になってしまうということ。私が言いたいのは、未来のために生きることを真っ先に辞めること。

今この瞬間と深く関わって生きるようにできれば、この先どんな世界になったとしても、まったく問題ないのですね。

風邪をひいて気づいたこと

久しぶりに風邪を引きました。記憶では、コロナになる前に一度風邪を引いて以来だから、7年くらいは引かずに来れたのです。

それが、今回は珍しく油断してしまったようで。これまでも、何度となく風邪を引きそうだという感覚にはなっていたのです。

その度に、速やかに葛根湯を服用して、「絶対に風邪を引かない」宣言というのを心の中でやっていたのです。

それがどうも今回は、少し遅れてしまったのかもしれません。あと半日早くに薬を飲んで宣言をしていればなと悔やまれます。

体調のちょっとした変化を見過ごしてしまったとも言えますね。たまにはこういうこともあるんだなと。

この風邪の諸症状、発熱、咳、重だるさ、鼻水、鼻詰まり、下痢、頭痛、およそ考えられる全ての風邪症状を経験しています。

ところが、以前と少し違うのはそれほど困ったなとはなっていないのです。早く治って欲しいとは思うのですが。

そこまで、強く何とかならないものかと考えずに、淡々と風邪の症状という体験が起きているだけだなと。

自分で書いていて負け惜しみのように感じてしまいますが、この体験が個人のものではないと知っていることが大事なのかもしれませんね。 

体験は意識の中に現れる

覚醒というのに憧れていると、それは何か特別な体験なんだろうと思い込んでしまっても不思議ではありません。

覚醒体験なんていう言葉すらあるくらいですから。けれども、本当の覚醒とはまったくもって体験ではないのです。

ただただ見抜くこと。体験をしている私がいるのではなく、ただ体験が起きているのだと。この違いは決定的です。

体験は気づきの場の中に現れるのです。そこをどれほど探しても、体験を自分の所有物にしようとする「私」を見つけることはできません。

比喩的な言い回しをすると、気づき(意識)が体験を通して自らを味わっていると言ってもいいかもしれません。

それなのに、まったくお門違いの「私」をでっち上げて、その全てを私が体験しているのだとしているわけです。

身体感覚と思われるものが常にやってくるので、「私」は身体の中に収まっていると感じてしまうのです。

コレは仕方のないことかもしれませんが、そのせいで誰もが人生の重みをずっしりと感じてしまうのです。

そんな長い間の勘違いを捨てて、すっきりと軽やかな感覚に戻って幼子のような気分で過ごせるようにしたいものですね。

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体験が消えていく日が来るか?

今年に入ってから、もうほとんど非二元の探究からは遠ざかってしまいました。本を読むこともないし、ワークをすることもない。

ただし、時々は非二元に触れるようにはしているのです。なぜなら、気がつくとすぐに物語の中へと埋没してしまいそうになるからです。

物語というのは、別の表現を使えば「思考体験」と呼べるかなと。それの最たるものが、映画やドラマですね。

疑似体験ではあるものの、さまざまな体験が起きるので、それを楽しんだり感動したりできるのが魅力です。

そしてそうした思考体験が起きた後に、リアルな直接体験のレベルに戻るようにするのです。これをやらないと、物語に流されてしまいます。

こうなってくると、どちらがいいとか悪いというものでもないということに気づきます。なぜなら、どんな体験であれ体験であることに違いはないからです。

体験が全てなのです。どんな体験をするかではなく、体験がただ起きているのみ。そしてその背後には、気づきがありますね。

気づいていることに気づいている、この瞬間物語から抜けていずれはあらゆる体験も消えていくのかもしれません。

今この瞬間に完全に関わる

人は誰でも自分はなぜ生まれたんだろう?とか、自分の人生の目的とは一体なんだろう?といった疑問を持っているはずですね。

明確な自覚を持っているかどうかは人によるとは思いますが、誰だって心のどこかにそうした疑問があるはずです。

それは個人として生きていると思い込んでいる自我の特徴なのです。自分や自分の人生に価値を見出したい。

あるいは、そこに大切な意味があると思いたいのです。だから、目標を持つことで、人生に方向性を持たせて心の安定を目指すのです。

日々の生活が辛く苦しい時でも、そうした目的、目標があればそれを実現するためだと思って乗り越えることもできるのです。

けれども、生まれてきた理由など最初からないし、人生に意味や価値を見出す必要すらないと聞くと、保っていた自分という存在がバラバラになって消えてしまいそうな気がします。

でも安心してください。バラバラになっても大丈夫。なぜなら、最初から誰もいないからです。自我は存在しません。

それは単なる思考による機能なのです。集中することで焦点ができて、そこに私という感覚が生まれるだけ。

ここがより明確になることで、未来志向だった生き方が変化して、今この瞬間に完全に関わって生きることができるようになるのです。

それはそれほど難しいことではないのです。大好きな音楽を聴いている時、楽しい会話に没頭して時間を忘れている時。

あるいは、山道をドライブしていてコーナーを果敢に攻めている時など、完全に未来のことが消えています。

その時、「私」という存在はどこにもいないことに誰でも気づけるはずですね。