個人的人生なんてない

YouTubeで動画をあげるようになって、そろそろ2年が経ちます。投稿動画数が400本を超えました。

当初は、癒しに関する内容のものが中心だったのですが、この一年というものはほとんどが非二元の内容になっています。

人間て分からないものですね。40代半ばまでは、あまり何も考えずに会社員生活を淡々と送っていただけでした。

それが突然のように、その生活にピリオドを打ってまったくジャンルの異なるセラピストとして人生を転換したからです。

自分でもとても意外だったし、親しい人たちからも「なんで?」という反応が当たり前のようにありました。

話を元に戻して、ということは残り少なくなってきたこの人生で、今後また何が起こるのか分かったものではありません。

動画を撮ることに少しのマンネリ感が出てきた感じがするので、これまで1日おきにアップしていたのを週2くらいにしようかなと。

そこからまた何か新たに見えてくる景色があるのかもしれません。ここまで書いてなんなのですが、実は今この瞬間だけしかないということも分かっていて。

だから人に歴史あり、みたいなことを言う人もいますが、実は人生そのものが架空のもので、これまでも今後もないことも分かっているんです…。 

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こちらの動画もぜひご視聴ください。 

思考は勝手にやってくる

これまでにも何度もこのブログで話題に上げたことですが、「人間に自由意志はあるか?」ということについて包括的な説明をしたいなと。

もうすでに動画では明確に結論を言ってしまっているのですが、端的に言って人間に自由意志などないということです。

あなたが何かを選択しようとするときに、どれを選ぶかという明確な理由があったとしても、それでも自由意志はないと断定できるのです。

たとえば、今からあなたにやってくる思考を見て欲しいのですが、それはあなたが選択しようとせずとも自動的にやってくるはずです。

どこまで遡ったところで、最後のところでも思考は勝手にやってきているのです。そしてそれをベースに選択が起きるだけ。

そうなんです。選択はするものではなく、起きるものであって、それも自動的に起きてしまうことに気づけばいいのです。

ところが、多くの人はその選択は自分が引き起こした個人的なものだと信じてしまっているので、そこで後悔や罪悪感がついて回るのです。

非二元的な表現をすれば、気づきの中で全ての現れは自動的にやってきては去っていくだけ。あなたがそこに立ち入る術はないということ。

そして決定的なのは、どこを探しても思考や選択をする主体としてのあなたの存在を見つけることができないということですね。

非個人でいることの清々しさ

非二元の質感を感じたくて、気持ちにゆとりがあってその気になった時には、できるだけ気づきの視点に立てるようにしています。

見えているもの、感じているもの、その全てがいつもと何も変わらないのに、その上でダイレクト感が露わになってきます。

身体の中にいる感覚がありながらも、身体とは無縁の気づきの場に全てが現れているのがなんとなく分かるのです。

そこには、無粋な肉体や個人という特殊なものはどうやっても見つけることができないのです。どこにも境界がないのですから。

すると、我々の持つ苦しみというものも実は幻想だったと分かるのです。非個人であるなら、苦しみは不可能なのですね。

非個人においては、大きさも形も場所も何も持つことができないので、比較ということもできないと分かります。

身体なんてないのに、頑張ってどうしても身体と共にいるようにして個人性を作り出していることも見抜けましたね。

個人であるために、かなり骨の折れる努力をずっとしているということにも気づけます。一瞬でいいのでそれをやめてみたらどうかなと。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

抵抗しないための最善の方法

昨日のブログでは、「抵抗すると、それは存続する」というお話をしました。今日はその続きをお話ししたいと思います。

抵抗するということは、コレでは嫌だということですね。言い換えると、これ以外の別の何かを求めるということでもあります。

結局、それは非二元でいうところのコレだけがあるという事実に対しての抵抗となるので、それが苦しみとなるわけです。

そして、それが存続してしまうのですから、これを何とかしてやめることが肝要なのですが、では実際にはどうしたらいいのか?

私が思う一番効果的なやり方は、非二元の実践でいつも言っている「直接の経験」に注意を向けるという方法なのです。

すぐに思考に飛びついてしまう代わりに、直接の経験に寄り添うこと。起こっていることすべてをそのまま好奇心とともにただ見て経験すること。

なにが起こっているかという考えを見るのではなく、この感覚は何なのだと考えるのでもなく、どんな感覚なのかに注意を向けるということ。

感覚がどう感じられるかということに名前を付けることもしないで、ただ感じるのです。これを気づいた時に実践するのです。

結局のところ、非二元の探求がそのまま苦しみからの解放に繋がることになるということですね。 

抵抗すると、それは存続する

社会人だった頃、出張でどこかへ出掛けている時に、靴の中にちょっとした固い異物が紛れ込んでしまったのです。

けれども外出先だったので、まあいいやと思ってそのまま歩き続けて帰宅したのですね。それからしばらくして、足の裏のある部分にタコのようなものができたのです。

そしてそれを放置しておいたら、色が黒っぽくなっていわゆる「魚の目」と言うやつに変わってしまったのです。

それから、毎日お風呂上がりに専門の魚の目を取る薬を塗ったり削ったりして、手をかけてあげていたのです。

来る日も来る日も一生懸命ケアをしていたのですが、全然良くならずに困ったなと思っていた折に、また出張で2、3日家を空けることになったのです。

その間、魚の目のことはすっかり忘れていて、ケアも全くしなかったのですが、帰宅して患部をみてみたら何やら痒みが出てきていたのです。

そこを指で掻いてあげているうちに、魚の目の芯ごとポロッと取れて完治してしまったのです。本当にびっくりでした。

あれほど毎日丁寧にケアを続けていたのに、2、3日放って置いたら突然治ってしまったのですから。

このようなことって何度か経験しているんですよね。問題に対して対処し続けていても何も解決しなかったものが、もういいやと放置するか忘れてしまった途端に解決してしまうということ。

早く治ってくれないかなと思っているうちは、それに対してなんらかの抵抗をしていることになるのかもしれませんね。

抵抗があるうちは、問題は存続してしまうということです。見つめるものは拡大する、という言葉ともニュアンスが似ています。

問題そのものを本気で忘れてしまうくらいになると、本当にその問題はひとりでに解決してしまうということ。

是非覚えておいて何かに応用できたらいいなと思います。

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別の何かなんてない

私たちはいつも別の何か、もっとマシな何かを望んでいるのです。まだ完全ではないので、自分は満たされないのだと信じているわけです。

けれども、何を手に入れたとしても、幸せになることはできないことにもそろそろ気づき出してもいます。

都合の悪いことが全てなくなることが幸せなのだと感違いしてきたのですが、そんなことは決して起きないのです。

幸せというのは、複雑さが全部落ちたときに残る何かのことなのだろうなと。非二元に目を向ければ、どれほどシンプルかに気づけます。

別のなにかなんてどこにもありません。別の時も別の場所も別の物も別の感覚も別の経験も別の人たちもない。

ただこれがある。たったいま何が起こっているとしても。他というものがそもそもありません。

それを歓迎すればするほど、手放せば手放すほど、それをやっている人はどこにもいないということがますますはっきりしてくるのだろうと。

これはひとつのものとして起こっている出来事と見ることができるのです。境界を見つけられるかどうか、見てみることです。

自分と経験の間に境界はあるだろうか? 自分と感情の間に境界はあるだろうか?ようやく、これだけしかないってことが分かってきます。

これが永遠に続く安らぎと自由への唯一の方法なのかなと。

何処でもないし、誰でもない

コントなどのお笑いのネタで、頭を強打した人が正気を失った後目覚めた時に、「ここはどこ?私はだ〜れ?」というセリフを言う場面がありますね。

皆さんもきっと一度は観たことがあるのではないかと思います。お笑いですから、どうということはありません。

けれども、あれが本当だとしたら本人は相当怯えてしまうのではないかなと。どこにいるかもわからないし、自分が誰かも分からなくなってしまったのですから。

ところが、それとまったく同じ状態になっても特に驚くこともなく、ごく普通でいられる方法があるのです。

それは、非二元の中へと入っていった時です。今この瞬間にどこにいるのかという場所の概念が消えてしまうのです。

そして、自分が誰なのかという情報も持てなくなってしまうのです。だから本当に、ここはどこ?私は誰?状態になるのです。

そうなってもまったく怖さがないのは、いつでも元に戻そうと思えば戻せることが分かっているからかもしれません。

実際その時には、ここはどこでもないし、私は誰でもないということに気づいているのです。これが本当のところです。

これを体験したければ、ぜひ非二元の中に入っていく練習をすることです。きっと誰でも体感できるようになるはずですね。

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恐怖に負けずに跳躍すると…

とある人物の言葉で次のようなものがあるのですが、なんとなくイメージできる人も多いのではないでしょうか。

「跳躍っていうのは、自分と自分の人生の問題を解決しようとしていつまでも内側に焦点を向けているのをやめて、外側に完全に解き放つことだ。」

たとえば、誰もが望まないような天変地異のようなものが起こって、その瞬間をどうしていいのか分からないような事態になったとします。

そんな時に、自分で作り出した問題のことなど誰がかまい続けるでしょうか?きっとそんなことはすっかり忘れて、目の前のことに命懸けで専念するはずです。

普段他人のことに興味を示さずに、「自分自分」で生きているとしても、きっと自己防衛を裏切って、誰かの命のために役立とうとするのです。つまり愛が発動するのです。

それほど切羽詰まった事態を想定せずとも、似たようなことを経験することは誰にでもあると思います。

たとえば、何かの問題を抱えていてそれがいつまでもズルズルと続いてしまって困ったなあと思っているとします。

そこへそれよりももっと大きな何かの問題が発生したとすると、その問題に焦点が向けられていくのです。

そしてそちらを対処している間に、気がついた時には当初の問題が知らないうちに解決してしまっていたというようなこと。

「見つめるものは拡大する」という言葉があるのですが、その逆に意識の外に出された案件はひとりでに解決してしまうのです。

その理由は、自分自身がそういった問題を作り続けてきたからでしょう。「跳躍」が大事なヒントをくれそうですね。

分かり合えないことが前提だと知る

この仕事をするようになるまでの間、私は相手がどんな人であろうとしっかりと向き合って本音で話し合えば伝わらないことはないと思っていました。

なにか特別の事情があって、脳に異常があるとか重篤な病気を患っていて、心を開くことができない等がない限りは、分かり合えるものだと。

そのように勝手に信じていたのですが、さまざまなクライアントさんと真剣勝負で話し合うときに、それが間違いだったと気づかされたのです。

それはきっと、それまでの人生の中でそれほど深く他人と関わったことが実はなかったからなのだろうと。

通じない時にはどれほど努力をしたとしても、決して通じないこともあるのだと。誰が悪いということではなく。

人間同士、孤立した個人と個人というのは、突き詰めてみれば本当には分かり合えないものだという悲しい現実があると知ったのです。

けれども、そのことを真摯に受け止めて、それが決して悪いことではなくて、そこには個人であるという原理的な制限があるということなのだと。

大切なことは、言葉では分かり合えないとしても、言葉を超えた部分を共有することは可能なのではないかと。

そして究極的には分かり合えないことを前提として、人との関係を無理のない状態で維持できるように心がけることが必要だと思いますね。

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フェルトセンシング瞑想

ただただ無念無想を目指す瞑想よりも、より効果が期待されるフェルトセンス的な瞑想をご紹介しますので、ぜひ実践してみてください。

静かに座ります。今この瞬間に現れているもの──身体の感覚、音、思考、感情──それらがただ現れていることに気づきます。

抑えようとせず、分析もせず、ただ「現れ」に気づいてください。すべての音、思考、感覚は、同じ「開かれた気づきの場」の中に現れています。

では、その「開かれた場」そのものに注意を向けてみましょう。それはどんな質感を持っていますか?重たいですか? 軽いですか? 色や形がありますか?

この「知っている感じ」を、概念ではなく、柔らかく生き生きとした“触感”として感じてみましょう。そして気づきます──

「感じている私」さえも、この同じ開かれた空間の中に現れています。そこに留まりましょう。変えるものは何もありません。

つかむものもありません。ただ、「気づいていること」そのものの静かな存在感の中に。

 瞑想のポイント

• 「感じよう」とするのではなく、「すでに感じられている」ことに気づく。

• 「私が瞑想している」という感覚も、ただの現れとして観る。

• すると、意識の質感が、柔らかく、透明で、温かい“存在の触感”へとほどけていく。