抵抗すると、それは存続する

社会人だった頃、出張でどこかへ出掛けている時に、靴の中にちょっとした固い異物が紛れ込んでしまったのです。

けれども外出先だったので、まあいいやと思ってそのまま歩き続けて帰宅したのですね。それからしばらくして、足の裏のある部分にタコのようなものができたのです。

そしてそれを放置しておいたら、色が黒っぽくなっていわゆる「魚の目」と言うやつに変わってしまったのです。

それから、毎日お風呂上がりに専門の魚の目を取る薬を塗ったり削ったりして、手をかけてあげていたのです。

来る日も来る日も一生懸命ケアをしていたのですが、全然良くならずに困ったなと思っていた折に、また出張で2、3日家を空けることになったのです。

その間、魚の目のことはすっかり忘れていて、ケアも全くしなかったのですが、帰宅して患部をみてみたら何やら痒みが出てきていたのです。

そこを指で掻いてあげているうちに、魚の目の芯ごとポロッと取れて完治してしまったのです。本当にびっくりでした。

あれほど毎日丁寧にケアを続けていたのに、2、3日放って置いたら突然治ってしまったのですから。

このようなことって何度か経験しているんですよね。問題に対して対処し続けていても何も解決しなかったものが、もういいやと放置するか忘れてしまった途端に解決してしまうということ。

早く治ってくれないかなと思っているうちは、それに対してなんらかの抵抗をしていることになるのかもしれませんね。

抵抗があるうちは、問題は存続してしまうということです。見つめるものは拡大する、という言葉ともニュアンスが似ています。

問題そのものを本気で忘れてしまうくらいになると、本当にその問題はひとりでに解決してしまうということ。

是非覚えておいて何かに応用できたらいいなと思います。

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別の何かなんてない

私たちはいつも別の何か、もっとマシな何かを望んでいるのです。まだ完全ではないので、自分は満たされないのだと信じているわけです。

けれども、何を手に入れたとしても、幸せになることはできないことにもそろそろ気づき出してもいます。

都合の悪いことが全てなくなることが幸せなのだと感違いしてきたのですが、そんなことは決して起きないのです。

幸せというのは、複雑さが全部落ちたときに残る何かのことなのだろうなと。非二元に目を向ければ、どれほどシンプルかに気づけます。

別のなにかなんてどこにもありません。別の時も別の場所も別の物も別の感覚も別の経験も別の人たちもない。

ただこれがある。たったいま何が起こっているとしても。他というものがそもそもありません。

それを歓迎すればするほど、手放せば手放すほど、それをやっている人はどこにもいないということがますますはっきりしてくるのだろうと。

これはひとつのものとして起こっている出来事と見ることができるのです。境界を見つけられるかどうか、見てみることです。

自分と経験の間に境界はあるだろうか? 自分と感情の間に境界はあるだろうか?ようやく、これだけしかないってことが分かってきます。

これが永遠に続く安らぎと自由への唯一の方法なのかなと。

何処でもないし、誰でもない

コントなどのお笑いのネタで、頭を強打した人が正気を失った後目覚めた時に、「ここはどこ?私はだ〜れ?」というセリフを言う場面がありますね。

皆さんもきっと一度は観たことがあるのではないかと思います。お笑いですから、どうということはありません。

けれども、あれが本当だとしたら本人は相当怯えてしまうのではないかなと。どこにいるかもわからないし、自分が誰かも分からなくなってしまったのですから。

ところが、それとまったく同じ状態になっても特に驚くこともなく、ごく普通でいられる方法があるのです。

それは、非二元の中へと入っていった時です。今この瞬間にどこにいるのかという場所の概念が消えてしまうのです。

そして、自分が誰なのかという情報も持てなくなってしまうのです。だから本当に、ここはどこ?私は誰?状態になるのです。

そうなってもまったく怖さがないのは、いつでも元に戻そうと思えば戻せることが分かっているからかもしれません。

実際その時には、ここはどこでもないし、私は誰でもないということに気づいているのです。これが本当のところです。

これを体験したければ、ぜひ非二元の中に入っていく練習をすることです。きっと誰でも体感できるようになるはずですね。

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恐怖に負けずに跳躍すると…

とある人物の言葉で次のようなものがあるのですが、なんとなくイメージできる人も多いのではないでしょうか。

「跳躍っていうのは、自分と自分の人生の問題を解決しようとしていつまでも内側に焦点を向けているのをやめて、外側に完全に解き放つことだ。」

たとえば、誰もが望まないような天変地異のようなものが起こって、その瞬間をどうしていいのか分からないような事態になったとします。

そんな時に、自分で作り出した問題のことなど誰がかまい続けるでしょうか?きっとそんなことはすっかり忘れて、目の前のことに命懸けで専念するはずです。

普段他人のことに興味を示さずに、「自分自分」で生きているとしても、きっと自己防衛を裏切って、誰かの命のために役立とうとするのです。つまり愛が発動するのです。

それほど切羽詰まった事態を想定せずとも、似たようなことを経験することは誰にでもあると思います。

たとえば、何かの問題を抱えていてそれがいつまでもズルズルと続いてしまって困ったなあと思っているとします。

そこへそれよりももっと大きな何かの問題が発生したとすると、その問題に焦点が向けられていくのです。

そしてそちらを対処している間に、気がついた時には当初の問題が知らないうちに解決してしまっていたというようなこと。

「見つめるものは拡大する」という言葉があるのですが、その逆に意識の外に出された案件はひとりでに解決してしまうのです。

その理由は、自分自身がそういった問題を作り続けてきたからでしょう。「跳躍」が大事なヒントをくれそうですね。

分かり合えないことが前提だと知る

この仕事をするようになるまでの間、私は相手がどんな人であろうとしっかりと向き合って本音で話し合えば伝わらないことはないと思っていました。

なにか特別の事情があって、脳に異常があるとか重篤な病気を患っていて、心を開くことができない等がない限りは、分かり合えるものだと。

そのように勝手に信じていたのですが、さまざまなクライアントさんと真剣勝負で話し合うときに、それが間違いだったと気づかされたのです。

それはきっと、それまでの人生の中でそれほど深く他人と関わったことが実はなかったからなのだろうと。

通じない時にはどれほど努力をしたとしても、決して通じないこともあるのだと。誰が悪いということではなく。

人間同士、孤立した個人と個人というのは、突き詰めてみれば本当には分かり合えないものだという悲しい現実があると知ったのです。

けれども、そのことを真摯に受け止めて、それが決して悪いことではなくて、そこには個人であるという原理的な制限があるということなのだと。

大切なことは、言葉では分かり合えないとしても、言葉を超えた部分を共有することは可能なのではないかと。

そして究極的には分かり合えないことを前提として、人との関係を無理のない状態で維持できるように心がけることが必要だと思いますね。

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フェルトセンシング瞑想

ただただ無念無想を目指す瞑想よりも、より効果が期待されるフェルトセンス的な瞑想をご紹介しますので、ぜひ実践してみてください。

静かに座ります。今この瞬間に現れているもの──身体の感覚、音、思考、感情──それらがただ現れていることに気づきます。

抑えようとせず、分析もせず、ただ「現れ」に気づいてください。すべての音、思考、感覚は、同じ「開かれた気づきの場」の中に現れています。

では、その「開かれた場」そのものに注意を向けてみましょう。それはどんな質感を持っていますか?重たいですか? 軽いですか? 色や形がありますか?

この「知っている感じ」を、概念ではなく、柔らかく生き生きとした“触感”として感じてみましょう。そして気づきます──

「感じている私」さえも、この同じ開かれた空間の中に現れています。そこに留まりましょう。変えるものは何もありません。

つかむものもありません。ただ、「気づいていること」そのものの静かな存在感の中に。

 瞑想のポイント

• 「感じよう」とするのではなく、「すでに感じられている」ことに気づく。

• 「私が瞑想している」という感覚も、ただの現れとして観る。

• すると、意識の質感が、柔らかく、透明で、温かい“存在の触感”へとほどけていく。 

非二元の体感を得るためのエクササイズ

非二元のフェルトセンス的体感を得るためのエクササイズを以下に2つ示します。ぜひ、繰り返し練習してみてください。

エクササイズ1:経験の「現れ」へと沈む

目的:思考からではなく、直接的に「経験されている感覚そのもの」に気づく。

手順

1. 目を閉じて、身体の感覚(呼吸・重さ・肌に触れる空気など)に注意を向けます。

2. それらを「私の身体」とラベル付けせず、ただ出現しては消えていく感覚の流れとして感じます。

3. 次に、音(遠くの音、身体の中の音など)も同様に観察します。

4. それらが「内」や「外」にあるように見えても、実際にはどちらも——ただ意識の中の現れです。

5. 最後に自問します:

 > 「この現れの中で、“私”はどこにありますか?」

 > 「それらを見ている“何か”は、どんな質感を持っていますか?」

ここで見つかるのは、“無限に開かれた気づき”のような質感です。

エクササイズ2:見ている主体と見られる対象の統合

目的:見る主体と見られる対象の分離が幻想であることを、身体的に感じる。

手順

1. 目を開けて、前にある物体(例えばカップ)を見ます。

2. 通常、「私がカップを見ている」と感じます。

3. しかし次に、視覚体験全体を単一の映像現象として観察します。

 – カップも、背景も、見ている「目の感覚」も、すべてひとつの“見え”の中に現れています。

4. その“見え”はどこで起きていますか?

 > 外の世界の中? それとも意識の中?

5. ただ感じてみてください。

 見ていることと見られていることが、すでに一つであることを。

(このとき、しばしば「境界のない、透明で静かな在り方」の質感が立ち現れます。)

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言葉になる前の感覚

フェルトセンスという言葉をご存知ですか?これは、言葉で表現する前の、曖昧で漠然とした身体感覚や意味合いを指す心理学用語です。

なんとなく気分が重いとか、心がモヤモヤする、あるいは気持ちがザワザワするのように、明確な感情ではないものを指すのです。

この「言葉で表現する前の」というのが、いつも言っている直接の経験に留まるという非二元を体感するための練習とピッタリなのです。

直接の経験というのは、思考が持ってくるどんな情報であれ答えであれ、それらを受け取る前に感じている生の感覚のことです。

それがちょうどこの「フェルトセンス」という言葉と合っているわけです。フェルトセンスだけに留まるなら、それはすでに非二元なのですね。

フェルトセンスの中に留まるなら、どんな物語からも解放されることになるはずです。物語は言葉によって支えられているからです。

フェルトセンスのキーワードには、透明、静寂、広がり、無境界、柔らかさ、存在そのもののあたたかさ、などがあります。

コレらは、到達するものではなく、いつもここにあるものとして再認識するだけでいいのですね。

現実は意識が見る夢

これまでも何度か、非二元を表現するのに夢のようなものだという言い方をして来たのですが、今回もその話です。

ただし、今回は「夢」を利用して非常に大切なことをお伝えしようと思うのです。それは、いつも言っている「コレだけがある」が納得できるようになるのかなと。

例えば、夢の中である場面を見ているとします。その夢のシーンは、その夢の中ではそれしかないですよね。

ある夢の中で、その夢のシーン以外があるということはあり得ないということ。このことは、当たり前だと気づくはずです。

つまり、この現実というものもなんらかの夢のワンシーンなんだという事になれば、コレしかないが分かるわけです。

ではこの現実という夢を見ているのは誰なのか?ということが残るのですが、それは私たちの本質である純粋な意識なのだろうと。

この現実という夢は、その無限に開かれた意識というスクリーン上に現れた映像のようなものだと捉えればいいのですね。

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あなたが「それ」そのもの

今自分が素直に感じていることを、本当にそのままに、とてもシンプルで的確な言葉で表現してくれている動画を見つけました。

見つけたというよりも、おすすめにあがって来てくれたので、それほど期待することなく見てみたら、ドンピシャでした。

1人静かに非二元の中へと入って行こうとすると、自分の身体が消えて、自分が透明になってしまう感じがします。

そして、その透明さが無限へと拡大していくのですが、そのことを、非常に的確に上手に表現してくれてるなあという動画なのです。

シャンカラという人物の名前だけは聞いたことがありました。確か、osho が時々引き合いに出す名前でした。

調べてみたら、インド哲学史上きわめて重要な思想家で、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(非二元論的ヴェーダーンタ)の大成者として知られている、とのこと。

ああなるほど…。短い動画なので、時間があるときにでも気軽に観てみてください。とてもお勧めです。

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